二十一話 完璧令嬢は敗北を知る
王宮の大広間は、眩いほどの光に満ちていた。
天井から吊るされた幾つものシャンデリアが、磨き上げられた床に幾重もの光の輪を落としている。楽団の奏でるワルツが絶えず空気を満たし、その上に笑い声、グラスの触れ合う音、絹が擦れる微かな音が重なっていた。
どの音も、今夜が祝福の夜であることを語っていた。
——王太子エリオスの婚約発表の夜。
大勢の視線が、否応なくこちらへ注がれている。
(……落ち着いて)
リシェルは、小さく息を整えた。
淡い色のドレスの裾を、そっと指先で撫でる。胸元から裾にかけて細やかな刺繍が施されていて、光を受けるたびに控えめなきらめきが生まれた。着慣れない華やかさが、まだ少し不思議だった。自分がこの場にいることも、このドレスを着ていることも。婚約者、という言葉が、まだどこか現実のものとして胸に落ちてこない。
隣には、エリオスがいる。
それだけで、なんとか立っていられた。
「緊張しているか」
低い声が、静かに落ちる。
「……少しだけ」
そう答えると、エリオスは前を見たまま、
「問題ない」
とだけ言った。
短い言葉。けれど、その確かな声音が、胸の奥の揺れを少しだけ鎮めてくれる。
そのときだった。
「あら」
聞き覚えのある声が、すぐ近くで響いた。
リシェルが顔を向けると、セラフィアが立っていた。
完璧に整えられたローズブラウンの髪。宝飾を控えめに散らした、品の良いドレス。背筋はすっと伸び、微笑みはどこまでも優雅で、どこから見ても非の打ちどころのない貴族令嬢。
——けれど、その目だけは笑っていなかった。
◆
セラフィアは、ゆっくりと歩み寄った。
視線は自然と——エリオスへ向かう。
そして、止まった。
エリオスが、リシェルのほうへわずかに身を寄せている。
ほんのわずかな距離。触れてもいない。
けれど——近い。
(……なに、それは)
胸の奥が、きしむ。
あの人は、誰に対しても同じだったはずだ。冷静で、距離を保って、決して踏み込まない。
なのに。
今、目の前にある距離は——明らかに違う。
視線が、リシェルへ向けられている。
——ただ、見ているだけなのに。
(……そんな顔)
知らない顔だった。
あの人が、誰かをこんなふうに見ることがあるなんて。
セラフィアは、無意識にグラスを握る手に力を込めた。指先に、わずかな震えが走る。それでも、笑みは崩さない。
「ごきげんよう、リシェル様」
完璧な声音で言う。
「……ごきげんよう、セラフィア様」
形式的な応答。そのやり取りすら、自分の外側で起きているようだった。
「ずいぶんと、立派な場に立たれるようになりましたのね」
「光栄です」
短く返される。
揺れない。動じない。
それが、余計に癪に障る。
「でも——少し、お似合いになるには早かったのではなくて?」
笑顔のまま、言葉を重ねる。
次の瞬間、グラスがわずかに傾いた。
赤い液体が、こぼれる。
「……あ」
遅れて、声が出る。ワインが、リシェルのドレスへと広がっていく。じわりと、染みが滲む。周囲が、静まり返る。
「……申し訳ありません」
声は、完璧だった。
「手が滑ってしまって」
だが、指先はまだ、わずかに震えている。
止めるべきだった。分かっていた。
それでも——抑えきれなかった。
「……いえ」
リシェルは一瞬だけ息を止め、それから答える。
「大丈夫です」
染みが広がっている。胸元にも跳ねていた。周囲の視線が、じわじわと集まってくる。
「動くな」
エリオスだった。
ためらいなく一歩、リシェルのほうへ近づく。ハンカチを取り出し、染みへと手を伸ばす。
「……殿下」
「いいから、じっとしていろ」
距離が、近い。近すぎる。人目など、気にしていない。必要以上に触れない。だが、確かに触れている。その扱い方が——あまりにも自然だった。
(……どうして)
胸が、痛む。視線が逸らせない。
(あんなふうに触れられたことは、一度もない)
優しさでも、義務でもない。ただ、そこにある当たり前の距離。
それが——何よりも残酷だった。
エリオスは染みから手を離し、何事もなかったように元の位置へ戻った。ただ——リシェルとの距離だけは、先ほどより心持ち近いままだった。
空気が、一瞬だけ静まった。そこへ、静かに言葉が落ちる。
「……このような場で、そのような振る舞いは……いかがなものでしょうか」
セラフィアは声の震えを押さえながら言った。
「王太子殿下の隣に立つ方としては——少々、品位に欠けるのではなくて?」
「……そうかもしれません」
リシェルが、静かに言う。
「私はまだ、未熟です」
周囲がわずかにざわめいた。だが、リシェルは続けた。
「ですが……人の価値は、外から見えるものだけで決まるものではないと、私は思います」
短い沈黙の後。
「大切なのは——弱い自分から目を逸らさないことだと、私は思っています」
彼女はまっすぐに、セラフィアの目を見て——そう言った。
セラフィアの呼吸が、止まった。
(……この言葉)
知っている。
どこかで読んだ。何度も、何度も。ページの上で、何度も追いかけた言葉。
外から見えるものだけではなく中身を見ろ、と。理想ではなく、揺れる人間を書け、と。
(……まさか)
胸の奥が、嫌な音を立てた。
リシェルは静かにそこに立っている。飾り立てた言葉ではない。けれど、不思議と人の胸に残る言葉を口にする。その感情や視線の揺れ方。その静かな強さ。
(──無慈悲な夜の女王)
その名が、頭の中に浮かぶ。
足の裏が、じわりと冷えていく。
視界の端で、エリオスがリシェルへ向ける視線が見えた。それは——自分に向けられたことのない眼差しだった。ただ、そこにいる一人の女を、真っ直ぐに見ている。
(……そんな)
胸の奥で、何かが静かに崩れる音がした。
(あの人は——"完璧な王太子妃候補"を選ばない……)
そう思いたくないのに、もう否定できなかった。
広間の光が、やけに眩しい。笑い声が遠い。
けれど、崩れるわけにはいかなかった。
セラフィアは、ゆっくりと息を吸う。
そして——悠然と微笑んだ。
「……失礼いたしました」
完璧な笑みだった。欠けたところなど何もないように見える、貴族令嬢の微笑。
「私の思い違いだったようですわ。お二人のご婚約、心よりお祝い申し上げます」
優雅に礼をする。非の打ちどころのない言葉、完璧な撤退。けれど、その奥にある敗北感に気づく者は、誰もいない。
セラフィアは踵を返した。人波を静かに抜けて、大広間を出る。背筋を伸ばしたまま、歩幅も乱さず、最後まで美しく。
◆
人の気配が、途切れた。
回廊だった。
広間の喧騒が、遠く壁越しに滲んでいる。楽団の音が、まるで水の底から聞こえてくるように低く、遠かった。
夜の冷気が肌の表面を、細い針のようにかすめる。
セラフィアは、ようやく足を止めた。
(……かなわない)
認めたくない言葉が、ひどく静かに胸に落ちた。
(……どうして)
自分の何が、いけなかったのだろう。
美しさも、教養も、血筋も、品位も。全部、揃えてきたはずだ。それなのに——選ばれたのは、あの女だった。不完全で、官能小説まで書いている女が。それが、あっさりと受け入れられていた。
セラフィアが切り捨ててきた未熟さを、持ったままで——丸ごと、そのままで肯定されていた。
(……そんなの)
指先が、かすかに震えた。
気づけば、頬にひと筋、何かが落ちていた。
「……あら」
自分でも驚くほど、静かな声が漏れた。
涙だった。たった一筋だけ。袖でぬぐえば、それで終わる程度のもの。けれどその一筋が、何よりも敗北をはっきりと告げていた。
——禁欲のユニコーン。
己が筆名として選んだ、もう一つの名前。
理想を信じ、理想を書き、理想の王太子を愛してきた。そんな彼を支えていきたいと思った。
だが——現実は、自分の理想とは違っていた。
セラフィアは静かに目を閉じる。
冷えた空気を一度、深く吸い込む。胸の奥の重さを、その息と一緒に飲み込むように。
それから、まっすぐ前を向いた。
涙の痕跡など、もう残っていない。
「──次は、負けないわ。"無慈悲な夜の女王"」
それだけを残して——セラフィアは再び歩き出した。
夜は、すでに空を覆っていた。最後の光が、石の床から消えていく。その暗さの中で、セラフィアの足音だけが規則正しく、静かに響いていた。
その背中は、最後までユニコーンのように誇り高かった。




