二十話 すべて知られて、それでも
王宮の私的サロンは、思っていたよりもずっと穏やかな空間だった。
淡い象牙色の壁に、足音を吸い込むような柔らかな絨毯。窓辺には白と薄紫の花が活けられ、午後の光がその花びらを透かして揺れている。銀のポットから立ちのぼる紅茶の香りが、部屋の空気に静かに溶け込んでいた。
胸の鼓動だけが、やけに鮮明だった。リシェルは無意識に背筋を伸ばす。
向かいのソファには、ふたりの人物が座っていた。
黒髪に金の瞳を持つ男——国王ヴァルド・アルクレイン。腕を組む姿勢ひとつで、場の重力が変わるような存在感があった。父に似た造作で、その金の瞳だけが、鷹のように鋭かった。
その隣に座るのは、白銀に近い淡い金髪を持つ女性——王妃アリアンナ・エルクレイン。やわらかな微笑みを湛えながら、よく見れば瞳の奥が鋭い。笑っているのに、なぜか気を抜けない。そういう人だと思った。
どちらも圧倒的な存在感だった。だが——思っていた威圧とは、少し違う。
「ああ、来たか」
国王が軽く言った。
「そんなに固くなるな。ここは謁見室じゃない」
肩の力の抜けた声音だった。それでも、金の瞳の鋭さは隠れていない。その視線がリシェルを一度すっと見て、すぐエリオスへ戻る。
「それで」
腕を組みながら続ける。
「話というのは、その娘のことだな」
「はい」
エリオスは迷いなく答えた。その声に、普段の書庫での静けさとは異なる——緊張ではなく、決意のような固さがある。
「彼女——リシェルを、私の婚約者として迎えたいと考えています」
静かな部屋に、その言葉が落ちた。
リシェルの心臓が、どくりと鳴る。
(婚約者……)
国王夫妻に認めてもらえるかどうか不安で、昨晩はまともに寝ることもできなかった。
エリオスは『大丈夫だ』と言ってくれたけれど……不安だ。
「あら、この子が?」
王妃がやわらかく微笑む。
視線が、リシェルに向けられる。見られている。けれど——拒まれてはいない。品定めというより、興味に近い目だった。
「お名前はなんとおっしゃるの?」
「……リシェルと申します」
声が、少しだけ震えた。
アリアンナはくすりと笑う。
「緊張しているのね」
「……はい」
「ええ、分かるわ。ここに呼ばれて平気でいられる人なんて、そういないもの」
その一言で、ほんの少しだけ息がしやすくなった。紅茶の香りを、ようやく意識できた。
けれど――。
「ごめんなさいね」
やわらかい声音のまま、アリアンナは続ける。
「少し、あなたのことを調べさせてもらったの」
「……っ」
呼吸が、止まる。
「王家として当然のことなの。エリオスが騙されていないか、スパイなどの危険はないか……確認しなければならないから」
穏やかだが、揺るがない言葉だった。否定できない。
(王妃様がご心配なさるのも当然だわ)
リシェルは固唾を飲んで、次の言葉を待った。
アリアンナは続ける。
「だから、あなたとエリオスのことも……ある程度は知っているわ」
「……え」
一瞬、血の気が引いた。
(ある程度って……どこまで……?)
書庫でのやり取り。距離。視線。
——あの、膝の間のことまで……?
「っ……」
顔が一気に熱くなる。俯きたいのを、必死に堪える。
その様子を見て、アリアンナは楽しそうに目を細めた。
「可愛い反応ね」
「も、申し訳ありません……」
思わず謝ってしまう。
「謝ることではないわ」
くすりと笑う。
「むしろ安心したもの。嘘をつく人の顔ではなかったから」
その一言に、少しだけ胸が軽くなった。
隣でエリオスが、ごく微かに息を吐いた。
——緊張していたのは、自分だけじゃなかったみたいだ。
「そして」
アリアンナは、指を軽く組んだ。
「親しくしている男性がもう一人いたから、そちらも調べさせてもらったの」
(別の、男?)
「……っ」
リシェルの心臓が跳ねる。
隣のエリオスが、わずかに表情を変えた。別の男という言葉に、目がかすかに動いた——気がした。
「王都印刷工房の編集長——ギルベルト」
名前を出された瞬間、背筋が固まる。
(ああ……やっぱり、そこまでバレてる……)
リシェルは冷や汗が流れるのを感じた。
「仕事上の関係だということは分かったわ」
そこで、ふっと微笑む。
「ただ……そこから先が面白かったのよね」
全身が、強ばる。もう、隠せない。もともと、ここで話すつもりだった。ならば――。
「……あの」
リシェルは小さく息を吸う。
「私から、お話しさせていただいてもよろしいでしょうか」
エリオスが横で、確かめるように視線を向ける。リシェルはそれに小さく頷いた。
「私は……」
喉が乾く。
けれど、逃げない。
――そう、もう決めたのだから。
「"無慈悲な夜の女王"というペンネームで、小説を書いています」
沈黙。
「まぁ!」
アリアンナが立ち上がった。その表情が、花が開くように輝く。
「やっぱり!」
ずいっと机を回り込んで距離を詰められる。
「あの本の作者にお会いできるなんて……!」
両手を、ぎゅっと握られた。体温が伝わってくる。温かい。
「……え、あの……」
「あなたの作品、本当に素晴らしいのよ! あの感情の揺れ方……あの距離の取り方……! 二章の告白シーンなんて、何度も読み返したわ!」
……完全に、読者だった。
リシェルは固まる。
覚悟していた拒絶が、どこにも見当たらない。
その隣で。
「……母上」
エリオスが、珍しく目を瞬かせた。普段あれだけ無表情な人間が、表情の置き場を失っている。
国王は、わざとらしく一つ咳払いをした。
「……後でサインをもらってもいいか?」
「ずるいわ、あなた!」
すぐさま王妃が振り返る。
「私だって欲しいのに!」
「順番だ」
「順番って何よ! こちらの方が先にファンなのよ?」
「ファンに順番は関係ないだろう」
「関係あります!」
軽い言い合いが始まった。
(……え……?)
ついさっきまで、覚悟していた。拒絶されるかもしれないと。秘密を暴かれるかもしれないと。なのに——
「……あの、ちなみに」
リシェルは恐る恐る口を開く。
「どのあたりまで、調べていただけたのでしょうか……」
「ギルベルトが編集している雑誌と、貴女の著作すべて。それに掲載されている作品のタイトルまでよ」
アリアンナが答える。
リシェルは一瞬、遠くを見た。
「……そうですか」
まさか婚姻の許しをもらいに来て、自分の書いた小説を全部読まれているなんて……。
アリアンナに、にっこりと笑われる。
「……じつはギルベルト編集長とは懇意なの。昔は同じ寄宿学校に通っていた仲でね。貴女のことを話していたわ。あんな作品を書けるのは、この業界でもあなただけだと、ギルベルトが言っていたのよ。それで興味を持って、最初は読み始めたの」
「ギルベルトさんが……そんなことを……」
胸がじんと温かくなる。
「彼、守秘義務はしっかり守っていたわよ。ただ——かなり、編集長として誇らしそうにしていたけれど」
リシェルは、思わず目頭が熱くなった。
(……ギルベルトさん)
厳しくされながらも、いつも一番近くで読んでくれていたあの人。
アリアンナは、ふっと微笑んでリシェルを見た。
「安心していいわ」
やわらかな声だった。
「あなたの秘密は、ここだけのものにする。公にするつもりはないわ」
国王も、小さく頷く。
「王家の判断としても、それが妥当だろう。書き手の自由を縛ることは、誰の利にもならない」
静かな承認。それだけで、十分だった。
「それに」
アリアンナは続ける。視線が、少しだけいたずらっぽく細まった。
「あなたは、ただの作家ではないもの」
「……え」
「エリオスが選んだ人だから」
その一言に、リシェルの胸が強く鳴った。
隣で、エリオスが小さく息をついた。その音が、珍しく深かった——長く止めていたものを、ようやく吐き出したような。
(……やっぱり、緊張していたんだ)
それが、どうしようもなく愛しかった。
「……ありがとう、ございます」
リシェルの声が、わずかに震えた。
「こちらこそ」
アリアンナはリシェルの手を、もう一度だけそっと握った。今度は、さっきの熱狂ではなく——静かな、確かな温もりだった。
「次の巻、楽しみにしているわ」
「……はい」
思わず笑ってしまった。泣きそうなのに、笑えた。
エリオスが、静かにリシェルの手に自分の手を重ねた。
リシェルは少しだけ驚いて、それから、そのまま握り返した。
その温もりが、何より確かなものに思えた。




