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恋愛経験ゼロの私の官能小説が大流行した結果、女嫌い王太子の恋愛指南役にされました  作者: 高八木レイナ


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十九話 ほどけた誤解の先で

 書庫の中には、夕方の静けさが満ちていた。

 高窓から差し込む光は橙から薄い茜へと移り、本棚の列に長い影を落としている。紙と木材とインクの匂いが、熱を失いはじめた空気の中にゆっくりと沈んでいた。どこかで、建物が小さく軋む音がした。風か、それとも建物自身の呼吸か。

 リシェルは、動けなかった。

 目の前に立つエリオスを見上げたまま、呼吸の仕方を忘れたかのように浅い息を繰り返している。胸の奥では心臓が痛いほど鳴り続けているのに、指先だけが嘘みたいに冷たかった。スカートを握りしめると、布地の固さだけが確かだった。


 ——キス、された。


 唇に残る熱が、まだ消えない。


「……で、殿下」


 ようやく声が出る。掠れていた。

 エリオスは何も言わず、ただこちらを見ていた。いつもの静けさの奥に、何かが揺れている。いつもの無表情ではなく——かすかな迷いのようなものが、その瞳の奥にあった。

 リシェルはスカートをさらにきつく握る。

 聞かなければいけない。


「あ、あの……さっきのは……」


 喉がひどく乾いている。舌が、うまく動かない。


「……恋愛指南、なんですか?」


 エリオスの眉が、わずかに寄った。


「……何?」


「だって……殿下は、セラフィア様のために……私に近づいていたのだと——」


「違う」


 言いかけた瞬間、短く、はっきりと遮られた。


「セラフィアのためじゃない」


「でも……」


「——違う」


 重ねられた声は静かだが、揺るがなかった。石を置くような、確かな重みがあった。

 リシェルは息を呑む。

 エリオスは視線を一度落とし、わずかに息を吐く。その間が——いつもの即答とは違っていた。


「……言葉にしきれない」


 正直な声だった。


「だが——」


 言葉を選ぶように、間を置く。


「お前が離れると言ったとき、止めなければと思った」


 その一言で、空気が変わった。


「終わると聞いて……それでいいとは、思えなかった」


 一拍、置く。


「——お前が、俺以外の誰かの傍にいることも」


 胸が、強く締めつけられた。

 けれど、それでもまだ、リシェルの中の疑問は消えなかった。

 勇気を振り絞るように言う。


「……殿下は、恋愛指南も……練習も……全部、好きな方のために……私を使っているのだと思ってしまって」


 言いながら、胸が痛んだ。

 沈黙。

 やがて、エリオスは小さく息を吐いた。


「……そういうことか」


 呆れに近い声音だった。責める響きはない。


「お前は、そう思っていたのか」


「……はい」


 リシェルは俯く。

 エリオスは、わずかに額に手を当てた。その仕草が、どこかひどく人間くさかった。


「……俺は逆だ」


「……え?」


「俺は、お前を——その」


 わずかに間があった。珍しいことだった。あのエリオスが、言葉を探している。


「……経験豊富な女だと思っていた」


 一瞬、意味が理解できなかった。


「……取材のために、俺に近づいたのだと」


 低く、続ける。


「あの反応も——すべて、演技だと思っていた」


 その声には、かすかな苦さが滲んでいた。責めているわけではない。ただ、そう信じていた自分を、静かに認めているような響きだった。


「……は?」


 そして次の瞬間。


「——っ!? ち、違います!!」


 顔が一気に熱くなった。耳の先まで燃えるように熱い。


「そ、そんな……! あれは……! ぜ、全部……本の知識です……! 想像と……研究と……文章で……! け、経験なんて……!」


 言葉が絡まる。息ができない。


「……ありません……っ」


 耐えきれず、顔を伏せる。

 静寂が落ちた。

 エリオスは完全に言葉を失っていた。


「…………」


 一拍。二拍。


「……そうだったのか」


 ぽつりとこぼれた声には、明らかな安堵が混じっていた。

 胸の奥に残っていた違和感が、静かにほどけていくような響きだった。


「あのときから、どこか引っかかってはいたが」


 長く喉の奥に刺さっていた棘が、するりと抜けたようだった。

 少しだけ間を置いてから、エリオスは続けた。

 リシェルはまだ顔を上げられなかった。


「……俺は」


 エリオスの声が、静かに続く。


「お前が遠い存在に思えていた」


 リシェルは、その言葉を静かに受け取る。


「お前には、俺の知らない顔がある。そう思うと……どうしても落ち着かなかった」


 わずかに間があった。エリオスは視線を落とし、言葉を選ぶように続ける。


「……あのとき、聞こえた言葉もあった。観察だの、モデルだの——ああいうものを聞けば、そう思うだろう」


 喉が小さく鳴る。


「それで……俺は」


 一拍、置く。


「お前が俺を、ただ小説のモデルとしてしか見ていないと分かったとき——腹が立った」


 低く、静かに続ける。


「——お前だけには、そう思われたくなかった」


 リシェルの胸が、強く鳴った。

 その言葉は、他のどんな言葉よりも胸の奥に落ちてきた。


 ——ああ、この人も傷ついていたのだと、リシェルはようやく理解する。


「嫌がる顔を見たくてやったわけではない」


 ほんのわずかに、声が柔らぐ。


「——ただ、触れても拒まれないか、確かめたかった」


 息が、止まる。


「お前が見ていたのが、作り物の"俺"ではなく、本当の自分かどうか」


 静かな声だった。

 その奥にあるものは、もう見間違えようがなかった。

 確かめたいという気持ちと、誰にも渡したくないという熱。

 それが静かに滲んでいた。

 リシェルの胸が、ぎゅっと収縮した。


「……私は」


 震える声で言う。


「そんなこと、全然……気づいていませんでした」


 エリオスは、わずかに目を伏せた。それから、静かに言う。


「……お前を、おもちゃのように扱ったつもりはない」


「軽く見たこともない。……むしろ、どう触れていいのか分からなかった」


 少しだけ間を置いて。


「お前がいなくなると言われて、はっきりした」


 胸の奥が、じわりと熱を持つ。


「リシェル」


 名前を呼ばれた。

 それだけで、喉の奥が詰まる。


「俺は、お前を尊敬している」


 そして。


「惹かれている」


 はっきりと。迷いなく。

 書庫の空気が、ひとつ静まった。本棚の影が伸びて、ふたりの足元まで届いている。高窓の外で、夕空が茜から群青へと変わりはじめていた。


「……私も」


 声が、震える。


「私も、殿下が……好きです」


 ぽつりと、続けた。

 言葉にした瞬間、頬が一気に熱くなる。自分の声が、自分のものではないみたいに聞こえた。

 しん、と静寂が落ちる。

 怖くて、顔が上げられない。


 ——沈黙が、長い。


(……返事が、こない)


 後悔が、じわりと滲み出す。嫌われた、と思う前に——。


「リシェル」


 名を呼ばれた。

 低く、静かに。いつもと同じ声なのに、どこか違った。


「……は、はい」


 恐る恐る、顔を上げる。

 エリオスは、じっとこちらを見ていた。

 無表情ではなかった。感情を隠そうとして、隠しきれていない顔だった。


「……もう一度、言え」


「え……?」


「今、言ったことを」


 その目は、さっきより少しだけ——必死だった。


(……もう一度)


 顔が燃えるように熱い。それでも、リシェルはゆっくりと息を吸った。


「……殿下が、好きです」


 エリオスは、しばらく何も言わなかった。

 ただ、その目だけが——わずかに揺れた。

 やがて、ゆっくりと一歩近づいた。


「……いいのか」


 低く問う。

 リシェルは、小さく頷く。


「……はい」


 今度は、迷いのない手が伸びる。頬に触れる指先は、あたたかかった。さっきとは違う。衝動ではなく、確かめるような、丁寧な触れ方だった。

 そして——口づけた。

 今度は、丁寧だった。

 一度目とは違う、静かな熱が伝わってくる。夕暮れの匂いが、ふたりの間に溶けていく。短く触れて離れるのではなく、静かに重なって、確かめるように留まる。


 ——離したくなかった。


 離れたあとも、すぐには言葉が出なかった。視線だけが、絡んだまま解けない。

 少しの間、エリオスは黙っていた。それから静かに言った。


「最初から、分かっていたはずなのに——俺は、自分で否定していた」


 その告白は、どこか苦く、けれど静かだった。

 リシェルは胸の奥があたたかくなるのを感じた。

 この人は今、ようやく自分の感情に言葉を与えているのだ。


「……国王と王妃に会ってくれないか」


 一拍置いてから、エリオスが静かに言った。


「え……?」


「お前のことを、正式に伝えたい」


 リシェルは目を瞬かせた。

 心臓が、大きく跳ねる。逃げたい、とは思わなかった。怖い、とも。ただ——実感が追いつかなくて、胸だけが静かに満ちていく。


「……はい」


 小さく息を吸う。


「私も、お話ししなければいけないことがあります」


 ずっと隠してきたこと。

 けれど、このままでは前に進めない。

 エリオスは何も言わなかった。ただ、その手がリシェルの手をそっと取り、引き寄せた。ゆっくりと、腕の中に収める。

 リシェルは、その胸に顔を埋めた。心臓の音が、聞こえる。速い。


(……緊張してる)


 あのエリオスが、緊張している。

 そのことに気づいた瞬間——もう離れたくないと思った。

 ふたりで、しばらくそうしていた。

 書庫の中──ふたりが出会った、紙と木とインクの匂いの混じるその場所で。




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