十八話 抑えられない衝動
女というものは、距離を詰めてくる。
それが、エリオスの最初の認識だった。
——幼い頃の記憶だ。
王太子としての教育が始まって間もない頃のこと。王宮内の空気はいつも張り詰めていた。教育係が磨き上げられた石床を歩くたびに、自分の足音が高く跳ね返ってくる。その音を聞くたびに、姿勢を意識した。視線を意識した。表情を意識した。
周囲には常に誰かしらの『王太子妃候補』がいた。将来の妃となるかもしれない少女たち。その中で、最も有力とされていた婚約者候補がいた。
彼女は、いつも正しかった。
「あなたのために言っているのよ」
穏やかな声で、そう言う。香水の甘い香りが、一歩詰めるたびに濃くなった。
「王太子として、正しく振る舞いなさい」
言葉は柔らかかった。絹のように、するりと耳に入ってくる。だが、その内容に選択肢はなかった。
エリオスが手に取った本を見ては、「それはふさわしくないわ」と静かに言い。歩き方を見ては、「背筋が曲がっています」と直された。何かに興味を示せば、「まだ早い」と打ち切られた。
怒鳴られたことは、一度もない。
だが、「正しさ」を絶え間なく押し付けられてきた。
悪意はない。むしろ、それが丁寧な善意だと分かる分だけ——逃げ場がなかった。
断りもなく触れられることもあった。「わたくしと踊ってくださぃせ」と妃候補たちに手首を引かれ、肩に手を置かれ、顔を覗き込まれる。エリオスの意思など関係なく。
(……違う)
心のどこかで、そう思い続けていた。
だが、誰も否定しなかった。周囲の大人たちは彼女たちの言葉を「正しい」と認めた。王太子にふさわしい、適切な教育だと。
だから、エリオスは口を閉じた。自分の感じている違和感の方が間違いなのだと、そう結論づけた。
そうして——距離を取ることを覚えた。
感情を出さない。近づけない。触れさせない。そうしていれば、何も奪われない。それが最適解だったから。
——ずっと、そう信じていた。
——だが。
(……あいつは)
ふと、思い出す。
書庫での光景。膝の間に収まった、小さな背中。震える指先が必死にペンを走らせる様子。紙の乾いた匂い。インクの香り。それから——顔を真っ赤にして、言葉を詰まらせたあの横顔。
(……妙だな)
不快なはずだった。
距離は、あの時、これまでで一番近かった。体温まで感じるほどの近さだった。それでも——。
(……触れても構わないと思った。むしろ——触れたいと思った)
なぜリシェルだけは違うのか——
考えなくても、もう分かっている気がした。
だが、それを認める気にはなれなかった。
あの女たちとは、何もかもが違う。命令しない。矯正しない。感情を押し付けてこない。ただそこにいるだけで——勝手に、気持ちが揺れる。
(……手放せない)
切り捨てるべき感情だ。本来なら、そうしてきた。
だが今回は違った。捨てる気になれない。手放したくない。それだけははっきりしていた。
気づけば、また足は書庫へ向いていた。
◆
夕方の光が、書庫の中に静かに差し込んでいた。
高窓から差す橙色が、本棚の列に長い影をつくっている。黄ばんだ紙の匂いと、木材が温められた乾いた香りが、空気に溶けていた。どこかの棚が、かすかに軋んだ。風か、建物の呼吸か。
——いた。
エリオスの胸が、一度だけ大きく鳴った。
(……いるとは思わなかった)
あの事件から、避けられているのは知っていた。きっといないだろう——そう思いながらも、わずかに期待してしまう気持ちを抑えられなくて、夕方になると足を運んでしまう。
昼間に来る勇気はなかった。嫌がる表情を想像すると、胸がきしんだから。
もしも、いつもの恋愛指南の時間にいてくれるなら——それだけで、許してもらえたのではないかと思っていたのだ。
緊張しながら、彼女のもとへ向かう。
リシェルは机の前に立っていた。こちらに気づくと、わずかに目を見開く。
「……殿下」
その呼び方。これまでより、少しだけ距離がある。声の質が、どこか固かった。
「少し、話があるのですが」
胸の奥が、嫌な予感で収縮した。
「……なんだ」
「その……私の任期のことで」
任期。
その単語が、耳の中で妙に残った。
「新しい司書の方が入ることになって……私の臨時司書も、あと二週間で終わるそうです」
——終わる。
一瞬、思考が止まった。
臨時の司書だということは知っていた。
だが、「終わる」という形で突きつけられるとは思ってもいなかった。
「……そうか」
口に出たのは、それだけだった。
だが言葉とは裏腹に、頭の中が真っ白になっていた。
終わる。
何が。
——こいつが、いなくなる。
(……二度と、ここに来ない)
その事実が落ちてきた瞬間、足元が崩れるような気がした。
たかが、臨時の司書だ。代わりなどいくらでもいる。俺を嫌がる相手なんて、無理に追う必要はない。解放してやれ。そう冷静な部分では思うのに。
——いや、いない。彼女の代わりなんて。
自分の本音がこじ開けられたような気がした。
どうしようもなく、本能が、彼女を求めているのだから。
顔を上げると、視界の中の彼女が、すでに遠く見えた。もう一歩、後ろへ下がっている気がする。
「……お世話になりました」
リシェルが頭を下げる。その仕草が、まるで全てがもう終わったことのようで——。
それを、受け入れることがどうしてもできなかった。
「——待て」
気づけば、手が動いていた。
「っ……」
細い腕を、掴む。
想定より強く、なってしまったかもしれない。
だが、緩める気にはなれなかった。
驚いた顔が、すぐ目の前にある。目が大きく開いている。夕陽の橙の中で、睫毛がかすかに揺れた。
「殿下……?」
戸惑いの色。
その声が、胸の奥をざわつかせた。
——離れようとしている。
その事実だけが、はっきりと分かった。
(……これで終われるはずがない)
そう思った瞬間には、もう引き寄せていた。
——考えるより先に、口づけていた。
リシェルの瞳が、大きく見開かれる。
柔らかい。触れた瞬間、思考が途切れた。熱が、直接伝わってくる。息が止まる距離。かすかに、髪から花のような匂いがした。
わずかに身を引こうとする気配がした。
それを逃さず、腕を引き寄せる。背後の壁へとそっと押しやり、逃げ道を塞ぐように肩の横に手をついた。
視線が絡む。至近距離で、まっすぐに。
「……殿下……っ」
戸惑いと、拒絶しきれない揺れが混じった声。
その声が、余計に——。
(……逃がさない)
——このまま、離す理由が分からなかった。
顎に指をかけ、わずかに上向かせる。それだけで、視線が逃げられなくなった。
目が潤んでいる。拒絶の言葉を探しながら、探しきれていない顔だった。
もう一度、唇を重ねた。
今度は、少しだけ長く。確かめるように、深く。
震えているのが分かる。自分の腕の中で、小さく揺れている。それでも——離れようとしない。
(……こんな顔を、俺以外の誰かに見せるな)
そう思った瞬間、腕に力がこもった。
ゆっくりと唇を離す。それでも、距離だけは離さなかった。
離れた瞬間、冷たい空気が流れ込んできた。
リシェルは呼吸を乱したまま、何も言えずに固まっていた。頬が赤く染まり、潤んだ瞳がこちらを見上げている。
(……綺麗だ)
そう思ったことを、悔やむ気にはなれなかった。
腕はまだ離さないまま、エリオスは低く息を吐いた。額を、リシェルの髪にそっと落とす。彼女の体温が、じかに伝わってくる。
「——もう、元の距離に戻すつもりはないから」
静かに、ただそれだけを告げた。




