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恋愛経験ゼロの私の官能小説が大流行した結果、女嫌い王太子の恋愛指南役にされました  作者: 高八木レイナ


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十七話 理想と現実、その狭間で

 あの日から、リシェルはエリオスを避けるようになった。

 鍵閉め当番からは外してもらって、自分の勤務時間が終わったら一目散に帰る。ルドヴィクは何か察したのか、あっさりと了承してくれた。


(……恋愛指南なんて、もうしない)


 あの日、王太子であるエリオスの手を振り払ったこと。閉館後の約束の授業も守らずに無視して帰宅していることも。本来なら罰せられることのはずなのに、リシェルの日常はいつもと変わらなかった。


(……きっと、彼が手を回したんだろうけれど)


 そうでなければ、あの時の噂が出回り、不敬と誰かから叱責されていただろう。けれど、奇妙なほどリシェルの周りは静かだった。

 ぐっと唇を噛みしめながら、リシェルは書庫へと向かった。

 王宮の回廊は、朝の光に満ちていた。

 南向きの高窓から差し込む日差しが、磨き上げられた大理石の床に長く伸びている。その光の帯は、微細な埃をひとつひとつ金色に照らしながら、音もなく漂わせていた。遠くから、庭仕事をする者たちの草を刈る音が、かすかに届いてくる。

 静かだった。

 こういう時間が、リシェルは嫌いではなかった。


「……あなたが、例の書庫係?」


 ふいに、声がした。

 澄んでいて、よく通る声だった。水が石の上を流れるような、迷いのない発音。

 リシェルが顔を上げると、そこにひとりの令嬢が立っていた。

 ローズブラウンの髪が、背中に艶やかな流れをつくっている。光の中でそれはほのかに赤みを帯び、まるで磨かれた栗のように輝いた。深いワインレッドのドレスは仕立てが良く、身体の線を品よく包んでいる。香りがした——深みのある花の香り。華美ではないが、主張のある香水だ。

 立ち姿ひとつで、どんな場所で育ったかが分かる。そういう女性だった。


(……この人は)


 近くで見たのは初めてだ。

 王太子妃候補——セラフィア・ヴァレンティナ公爵令嬢。


「……はい。書庫を担当しております、リシェルと申します」


 形式通りに頭を下げる。

 だが、セラフィアはそれを受け流すように、ゆるやかに視線を細めた。


「ふうん」


 その一語が、品のある声から零れた。上から下へ、緩やかに視線が動く。測られている、と分かった——何かの基準で、静かに。


「ずいぶん、殿下と親しくしているようね」


「え……?」


 予想していなかった言葉に、思わず顔を上げる。


「書庫で、ふたりきりになることも多いのでしょう?」


 声音は穏やかだ。柔らかくさえある。なのに——その奥にあるものが、肌にじりじりと触れるようだった。


「それは……お仕事で、です」


 言いながら、胸の奥がざわめいた。波紋のように、内側から広がっていく感覚。

 セラフィアは小さく息をついた。花の香りが、かすかに揺れる。


「そう。まあ、いいわ」


 興味を失ったような口調だった。だが、その直後——


「殿下がどんな方を必要としているか……あなたにも、分かるでしょう?」


 まるで、当然の事実を告げるように。声は静かで、温度がない。


「……っ」


 言葉が、胸に刺さった。音もなく、静かに、深く。


「勘違いしないで」


 微笑みながら、続ける。声は優しかった。だからこそ、余計に痛かった。


「あなたみたいな立場の人が、期待していい相手じゃないの」


 何も言えなかった。

 否定も、反論も——すべてが霞んで、口の中で溶けた。


「殿下はね」


 セラフィアは、言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。


「きちんとした女性を選ばれる方よ。感情に流されるような方ではないわ」


 その言葉が、妙に現実味を帯びた。


(……ああ)


 胸の奥が、すうっと冷えていく。


(そう、だよね)


 あの人は——あんなに冷静で。感情を外に出すことなく、何を考えているか分からなくて。

 これまでのことが、頭をよぎった。あの距離。あの視線。あの言葉のひとつひとつ。


(……あれは)


 ひとつの答えに、たどり着く。


(私に対してじゃ、なくて)


 胸が、きしんだ。骨の内側で、何かがかすかに軋むような音。


(セラフィア様のために……?)


 恋愛指南。距離の取り方。反応の確かめ方。


(好きな人の前で、失敗したくないから……だから、私で練習しているんだ)


 あの不可解な言動も、あの静かな熱心さも。


(……私は)


 ただの練習台だ。

 胸の奥がずきりと疼いた。呼吸が浅くなる。喉の奥がじわりと熱を持った。


「分かった?」


 セラフィアの声が、現実に引き戻す。


「……はい」


 うまく笑えたかは、分からなかった。


「ならいいわ」


 満足したように微笑むと、セラフィアはそのまま歩き去った。

 絹のドレスが、床に光を引きながら遠ざかっていく。足音は思いのほか軽かった。やがて回廊の角に消える。


 静寂が戻った。


 南からの風が、リシェルの髪を揺らした。司書の制服のスカートがわずかに膨らんで、また落ちた。

 しばらく、そのまま立ち尽くす。光が動いて、影が伸びて、それだけが静かに過ぎていった。


(……なんで)


 胸の痛みだけが、残っていた。

 指先が、衣の胸元をぎゅっと握る。布地の固さが掌に伝わる。冷たくなっていた。自分の手が、こんなに冷たかったことに、その時初めて気づいた。


(こんなの……)


 ただのショック、のはずだった。立場の違いを思い知らされただけ。それだけの、はずなのに。


(……違う)


 これは、もっと別のものだ。逃げられないほど、はっきりと。


(……私)


 息を吸う。肺の奥まで、冷えた空気が入ってくる。


(殿下のことが)


 言葉が、形になる。


(……好きなんだ)


 その瞬間——胸の奥が、静かに崩れた。

 認めてしまった。ずっと曖昧なままにしておいた感情に、名前をつけてしまった。

 取り消せない名前を。


(……だから、こんなに苦しかったんだ)


 胸が締めつけられて、うまく呼吸できない。瞼の裏が、じわりと熱くなる。

 ゆっくりと息を吐いた、そのときだった。


「リシェル」


 声をかけられた。

 顔を上げると、ルドヴィクが立っていた。穏やかな目をした、いつもの顔で。


「ルドおじさん……」


「少し話がある」


 日常の声だった。なのに、その中にかすかに混じる事務的な響き。

 嫌な予感が、足元から這い上がる。

 ルドヴィクは少しだけ間を置いてから、静かに言った。


「新しい司書が入ることが決まった」


「……え?」


 一瞬、意味が理解できなかった。


「正式な配属だ。引き継ぎもあるからな——」


 ルドヴィクは、淡々と続ける。声に感情はない。ただ、事実だけがある。


「お前の臨時司書も、あと二週間で終わりだ」


「……っ」


 言葉が、胸に落ちた。水が石の上に落ちるように——静かに、確実に。


(……終わり)


 分かっていたはずだった。最初から、期間限定の仕事だった。いつか終わると分かっていたのに——


(……こんなに、早く)


 喉が、詰まる。


「急で悪いな。だが、お前なら問題なく引き継げるだろう」


 優しい言葉だった。なのに、何も返せない。


「……はい」


 やっとのことで、声を出す。

 ルドヴィクは満足そうに頷くと、そのまま書庫の方へ去っていった。足音が廊下の奥に消えていく。


 静寂が、また戻った。


(……終わるんだ)


 ぽつりと、思う。

 好きだった、この場所も。この時間も。


(……殿下と会えるのも)


 胸が、強く締めつけられた。


(……終わる前に、好きになってしまった)


 そのとき、ふと別の考えが浮かんだ。


(……ちゃんと、伝えなきゃ)


 任期が終わることを。臨時司書として、ここを去ることを。

 それくらいしか、もう会う理由がない。


(……殿下に)


 指先が、わずかに強ばった。

 それはただの報告だ。本来なら、特別な意味なんてない。なのに——


(……でも、私達の関係は、ただの仕事。殿下の、恋愛の練習のための)


 それだけのはずなのに、胸の奥が静かに揺れていた。

 エリオスは次期国王だ。婚約者候補がいるのは当然のこと。


(……セラフィア様)


 さっきの言葉が、蘇る。


『……殿下がどんな方を必要としているか、あなたにも分かるでしょう』


(……そうだよね)


 あんな完璧な令嬢がいるのだ。リシェルなど、目に入るはずがない。

 分かっていた。なのに、改めて突きつけられると、息の仕方を忘れそうになる。


(私は……)


 ただの臨時司書。期間が過ぎれば、王宮を去る身。最初から交わるはずのない立場だった。


(……なのに)


 胸が、痛む。


(……もう、遅いよ)


 小さく、息を吐く。

 涙がこぼれそうになって、天井を仰いだ。

 それでも——


(……書きたい)


 ふと、そんな衝動が浮かんだ。

 あの理解できない行動。あの矛盾した距離。全部。

 苦しいのに。傷ついたのに。それでも、目を逸らせない。

 現実は——こんなにも複雑で、こんなにも分からないことばかり。でも、だからこそ——もっと知りたいし、書きたくなるのだ。

 気づけば、指先が空をなぞっていた。何かを掴むように、軽く握る。

 ——自分でも、何をしているのか分からなかった。

 リシェルは、ゆっくりと目を閉じた。

 回廊に、風がふたたび通り抜けた。スカートが揺れ、光が揺れ、埃が金色に踊った。それだけが動いて、他の全ては静かだった。



 その日の夕方。

 セラフィアの自室の窓から、薄橙の光が差し込んでいた。

 沈みかけの太陽が空を染めるその色は、蜂蜜を水で溶いたようで、室内のすべてをぼんやりと柔らかく包んでいた。外では、どこか遠くで鳥が鳴いている。夕暮れを急かすような、短い鳴き声。

 セラフィアは、机の前に座っていた。ペンを手に取りながら、その指先がわずかに白んでいることに、自分では気づいていなかった。


(……気に入らない)


 思い出すのは、昼間の少女の姿だ。


 ——あの怯えたような目。それでいて、どこか揺らがない視線。


 繕うこともなく、ただそこに立っていた。


(どうして殿下が、あんな子に……)


 胸の奥に、小さな棘が刺さったまま。引き抜けない。いや——引き抜こうとすると、余計に深く入る気がして、触れられなかった。


(違う。そんなはずはない)


 ——あの少女の目が、なぜか頭から離れなかった。

 落ちぶれた子爵家の娘だ。見た目も、立場も、資産も——全部、自分のほうが上のはずなのに。

 ゆっくりと、ペン先を紙に落とす。インクが、静かに紙に滲む。黒が白に沈みながら、形になっていく。

 思い描く。あるべき姿を。完璧で、揺るぎない。感情に振り回されない王太子。凛として、誰よりも正しく、誰よりも高潔な存在。


 ——私にふさわしい人であるべきだわ。


 迷いなく、文字を綴る。理想の王太子像を。現実ではなく——あるべき姿を。


 ――禁欲のユニコーン。


 それが、セラフィアのもう一つの名前だった。

 ペンが、静かに紙面に走る。紙の上に、文字が重なっていく。乾いたインクの匂いが、鼻先にかすかに漂った。

 脳裏に、ちらりと影が動いた。


 ——そういえば。先日、ギルベルト編集長は打ち合わせの際に言っていた。


『あなたの書く王太子像は、理想的すぎる』と。


「……そんなはずないわ。これが正解よ」


 静かに、セラフィアはそう言った。

 白い紙の上には、理想だけが積み重なっていく。そこには迷いも矛盾も存在しない。ただ、美しく整えられたセラフィアにとっての正解だけがあった。


 ——あの作者の作品のようには、まだ書けないけれど。


 分かっている。それでも。

 その筆は、止まることがなかった。

 夕陽がさらに傾いて、室内の橙色が深くなる。ペンの音だけが、静かな部屋に響いていた。




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