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恋愛経験ゼロの私の官能小説が大流行した結果、女嫌い王太子の恋愛指南役にされました  作者: 高八木レイナ


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十六話 わからないまま、壊れていく

 どうして、あんなことをされたのか、分からなかった。

 ——分かるはずも、なかった。


 昼の食堂は、低く抑えられた話し声と、食器が触れ合う音で満ちていた。香ばしいスープの匂いと、焼きたてのパンの熱が、どこか遠くに感じられる。その片隅で、リシェルはぼんやりと手元を見つめていた。

 皿の上の料理は、ほとんど手つかずのまま冷めている。湯気は、もうどこにもない。


(……気にする必要なんて、ないのに)


 わかっている。

 あれはただの戯れだ。王太子としての余裕。軽口。いたずら——それだけのことなのに。

 それなのに、胸の奥に引っかかるものが残っている。思い出すたびに、じわじわと熱を帯びて。


 ——まるで、試されているみたいだった。


(……違う)


 違う。そんな大層なものじゃない。

 ただ——弄ばれただけだ。あの人には、他に選ぶべき人たちがいるのだから。

 そう思った瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。

 息が、少しだけ浅くなる。視界が、かすかに滲んだ。


「……っ」


 慌てて、目元に手をやる。

 こんなところで泣くなんて、ありえない。

 深く息を吸う。スープの匂いと、誰かのコーヒーの苦みが、鼻の奥をかすめた。

 無理やり呼吸を整えて、立ち上がった。


(大丈夫)


 そう言い聞かせながら、食堂を出る。歩き出してしまえば、きっと落ち着く——そう思ったのに。


 廊下の向こう、開け放たれた窓際に人影が見えた。

 ——エリオスと、セラフィア。

 二人は並んで立ち、何かを話している。距離が近い。声は聞き取れない。ただ、セラフィアがわずかに身を寄せ、エリオスがそれを避ける様子も、見えなかった


「……大丈夫ですわ。殿下なら」


 風に乗って、断片だけが届く。


「ああ、問題ない」


 短い返答。穏やかな声。

 リシェルは、足を止めた。


(……ああ)


 胸の奥に、すとんと何かが落ちた。


(そういうこと、ですよね)


 恋愛指南。練習。距離を詰める理由。

 ——全部、繋がる。


(私は……そのための)


 それ以上、考えないようにした。

 踵を返し、来た廊下を戻る。石床を踏む足音が、やけに空虚に響いた。


(……考えるのをやめよう)


 胸の奥のざわめきは、消えなかった。


 回廊に出ると、午後の光が石床にやわらかく落ちていた。行き交う人の気配はまばらで、遠くから水を運ぶ侍女たちの靴音が、かすかに届いてくるだけだ。

 頭の中を空にしようとした。うまくいかない。


「……ああ、君が例の」


 軽やかな声に呼び止められ、足を止めた。

 振り向くと、見覚えのある青年が立っている。赤茶色の髪に、人懐っこい笑みを浮かべた顔。


「カイル・レグナート。殿下の側近だ」


 気安く名乗りながら、すぐに距離を詰めてくる。近い。必要以上に。香水か何かの甘い匂いが、ふっと近づいた。


「噂は聞いてるよ。殿下がずいぶん——」


 言いかけて、ふっと笑った。


「いや、やめておこう。……セラフィア様がいらっしゃるのに、変な誤解も生まれかねないしね」


(……セラフィア様が)


 さっきの光景が、また胸をよぎった。


 そう言いながらも、興味を隠そうとしない視線が、まっすぐにリシェルを射抜く。

 無意識に一歩下がると、同じだけ詰められる。逃げ場がないほどではない。けれど、確実に距離が近い。石床を踏む自分の靴音が、妙に大きく聞こえた。


「君、殿下とどんな関係——」


「カイル」


 名を呼ぶ声が、空気を断ち切った。

 低くも高くもない。ただそれだけで、回廊の温度が変わる。

 振り向くと、エリオスがそこに立っていた。


「……殿下」


 カイルが肩をすくめる。


「ちょうど良かった。例の彼女に挨拶を——」


「必要ない」


 間を置かない否定。理由もなく、説明もなく。ただ、それで十分だった。

 エリオスはそのまま自然な動作でリシェルの手を取った。強くはない。だが一瞬だけ、指先に力がこもった。温かい。


「行くぞ」


 短く告げて、歩き出そうとする。


「……離してください」


 リシェルは足を止めた。手を引かれたまま、まっすぐにエリオスを見る。

 一瞬、言葉を選ぶ。

 けれど、込み上げた感情は、もう抑えきれなかった。


「あなたのおもちゃじゃありませんから……!」


 振り払う。思ったよりも強く、手が離れた。

 一瞬の静寂。次いで、ざわ、と空気が揺れる。


(しまった……!)


 視線が集まる。周囲にいた人々が、こちらを見ている。頬が一気に熱を帯びた。


「……っ、失礼します」


 ほとんど逃げるように、リシェルはその場を離れた。石床を踏む足音だけが、やけに大きく響く。



 残された回廊に、静けさが戻った。

 エリオスは動かなかった。

 呼び止めも、追いかけもしない。ただ、去っていく背中を見ている。

 やがて、ゆっくりと視線を動かす。カイルへ。

 一瞬だけ——その目が鋭くなる。だが、すぐに何事もなかったかのように戻った。


「……彼女に関わるな」


 淡々とした声。命令でも、怒りでもない。ただの事実のように告げて、エリオスは踵を返した。振り返ることなく、歩き去る。

 残されたカイルは、ぽかんとした顔でその背を見送り——。


「……今の……殿下、ですよね……?」


 誰にともなく、呟いた。



 書庫の扉を閉めた瞬間、外の音がすっと遠のいた。

 紙と古いインクの匂いが、静かに迎えてくる。いつも落ち着くはずのその匂いが、今日だけはうまく届かない気がした。

 リシェルは奥へ進み、司書机の前で足を止めた。

 そのまま、しゃがみ込む。机の影に、身を隠すように。

 石床の冷たさが、じわりと膝から伝わってくる。

 薄暗い。静かだ。それなのに——。


(……なんで)


 胸が苦しかった。

 怒っていたはずなのに。腹が立っていたはずなのに。

 それなのに、どうしてこんなに痛いのか。

 指先が震える。ぎゅっと握りしめても、収まらない。


「……っ」


 声を押し殺す。それでも、涙が零れた。

 一滴、また一滴と、石床に落ちていく。


(……わからない)


 自分の感情が理解できないまま、ただ涙だけが溢れていく。止められなかった。


(……こんなの、おかしい)


 冷えた空気が、鼻の奥をかすめる。遠くで、建物が微かに軋んだ。

 リシェルは膝を抱えたまま、しばらく動けなかった。




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