十五話 意地悪の正体
翌日の書庫は、昨日と変わらず静かだった。
高窓から差し込む光が、本棚の列を柔らかく照らしている。乾いた紙の匂い。いつも通りの空間。
——なのに。
扉が開く音とともに、エリオスが入ってきた。
その手に、インクペンとインク壺、そして原稿用紙が握られていた。
(……え)
リシェルは目を瞬かせる。
「続きを書いてもらう」
淡々とした声音だった。
「こ、ここでですか……?」
「書庫以外のどこで書くつもりだ」
反論できない。エリオスはリシェルの前に立ち、奥の閲覧スペースへと顎をしゃくった。
「あちらへ」
促されるまま、リシェルはついていく。
案内されたのは、昨日も使った小さな閲覧スペースだった。壁に囲まれた半個室のような空間。簡素な机と、腕置きのついた椅子。
(昨日の、場所だ……)
それだけで、呼吸が浅くなる。昨日ここで何があったか。まだ指先に、あの感触が残っている気がして——。
エリオスは机の上にインク壺と原稿用紙を置くと、当然のように椅子へ腰を下ろした。
(……あ、座るんだ)
リシェルは小さく息を吐いた。椅子はひとつだ。つまり、自分は別の場所に立って書くことになるのだろう。それなら——。
次の瞬間。
腰に、手が回った。
「っ……!?」
気づく間もなかった。引き寄せられる感覚。エリオスの腕が、リシェルの腰をしっかりと掴んでいる。
「ちょ——っ、な、なんで——」
抵抗しようとするが、力が違いすぎる。腕を振り払おうとしても、びくともしない。気づいたときには、エリオスの開いた膝の間にすっぽりと収まっていた。
「っ……! は、離してください……!!」
リシェルは必死に身じろぎするが、びくりともしなかった。
「昨日、続きを書いてくると約束しただろう」
「そ、それは……! でもこれは関係——」
「関係ある」
静かに遮られた。
「書いている間、逃げさせないためだ」
「逃げません……!!」
「そうか?」
即座に、耳元で低く返される。
リシェルの反論が、宙に浮いた。
——逃げないとは言えない。昨日だって、机の前から何度も腰が浮きかけた。エリオスはそれを知っている。
(……くっ)
言い返す言葉がない。
エリオスはリシェルの前に原稿用紙を置き、インクペンを手渡した。
わずかに間があった。エリオスの手が、一瞬だけ止まる。それから、低く言う。
「書け」
その一言で、リシェルの運命が決まった。
エリオスの両腕が、背後から机の端に置かれる。すっぽりと囲われた形になる。逃げ場がない。
リシェルは椅子に腰を下ろしたまま、身動きが取れずにいた。背中がぴったりと彼の体に近い。腰と背中に体温を感じるその距離に、呼吸すら憚れるような気がして、浅い息を繰り返す。
(っていうか、どうしてこんなことになっているの!?)
なぜエリオスと密着するように座らされて、官能小説を書かなければいけないのか。しかも背後からぴったり覆われるような格好で。
逃げないように——とはいえ、信用がなさすぎる。
カリ、と。かすかに震えたインクの筆跡が、白い紙の上に残っていく。
(……近い)
彼の視線が、手元に落ちてくる。見られている。手元も、表情も、呼吸も——すべて。
夕焼け色の光が、高窓から斜めに差し込んでいた。金色が本棚の列を照らし、二人の間に長い影を落としている。紙とインクの匂いに、かすかな体温が混じっている気がして、リシェルはそれを必死に気のせいだと思おうとした。
「……」
一瞬だけ、言葉が落ちる。
何かを見極めるような間のあとで——。
「……続けろ」
吐息が首筋をくすぐる。びくり、と無意識のうちに肩が揺れた。
「……これ以上、書けません……っ」
「なぜ?」
淡々とした声音。責めているわけでも、怒っているわけでもない。事実だけを問うような響き。
「だって……殿下の目の前だし……っ」
「書いていたじゃないか。何枚も何枚も。俺を主役にして」
その言葉の奥に、わずかに何かが滲んだ気がして——リシェルは息を詰めた。
「それは……っ、誰も見ていなかったからだって……!」
「今も見ていないことにしてやる。ほら、続きを」
耳をくぐる低い声に、背中がぞくぞくと震える。
見ていないことにする——なのに、すぐ横に気配がある。呼吸がかかるほどの距離に。
(ギルベルト編集長の鬼バージョンのような男だ……!)
まったく逃げ道がない。
喉がひどく乾く。のろのろと震えながら、それでも手は止めないように努力する。
ペン先が、紙をなぞる。書いているのは——彼をモデルにした男が、女に愛を囁きながら触れようとする場面。
(こんなの……)
知られている。読まれている。全部、筒抜けだ。それが、何よりも耐え難い。恥ずかしくて死にそうだ。そもそもなぜ膝の間で書く必要があるのかもわからない。こういう人に言えない趣味はひっそりと家でやるのがマナーのはずなのに——。
(エリオス殿下当人に、知られてしまったばかりに……)
ペン先が、紙の上で歪んだ。震えが止まらない。屈辱なのか羞恥心なのかも、もはやわからなくなってきた。
(……どうして私がこんな目に……)
なぜモデルである本人を目の前にして、えっちな小説を書かなければいけない? しかも足の間に入れられて。
意味が分からない。
「……震えているな」
すぐ上から、声が降る。心臓が跳ねる。顔から火が出そうだ。
「手が、止まっている」
「……話しかけないでください……っ。できるだけ殿下のことを意識しないように書こうとしているのに……」
泣きそうだ。
(どうして……どうして、こんな……ことに)
それでも——震える手で、文字を続ける。
(最悪……っ)
こんなものを、本人の目の前で。
「字が震えていて読みにくい。読み上げてくれ」
視線が、紙の上に落ちてくる。
「嫌です! そんなに読みにくいなら解放してください……っ!」
「嫌だ」
即答だった。
もはや破綻している。
顔が寄せられると、耳に吐息がかかる。髪に顔を埋められる。ほんの一瞬だけ、躊躇するような気配があった。その息が、わずかに乱れた。
——けれど、そのまま唇が首筋に触れそうになる。
背中がこわばった。
「で、殿下……っ、わざとやってるんですか……っ」
「どう思う?」
声に、かすかな色がついた気がした。その声の奥に、何かを確かめようとしている気配がある。探るような——静かな目。
「俺はただ——お前が書いた"俺"に、興味がある」
わずかに間が落ちる。
「……どんな目で見ていたのか、知りたくてな」
その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
エリオスがじっと原稿を覗き込んでくる。
「へえ」
不意に、低く落ちる声。わずかに、口元だけが歪んだ。
「俺は、こういうことをする人間に見えるのか」
それは問いかけというより、独り言に近い響きだった。
「……なるほど」
静かに、言葉が続く。
「お前の中の俺は、随分と自由なんだな」
ペン先が——止まった。もう、書けない。これ以上は、無理だ。
否定したいのに、できない。書いているのは、自分だ。こんなふうに情熱的に描いたのは、自分だ。彼を——こういう人間として。全然違うと分かったけれど。
「……これは、殿下ではありません」
「俺をモデルにしたと言ったじゃないか」
「そうだけど……っ、もう殿下のイメージでは書けなくて……」
そうなると、もう別のキャラクターだ。
距離が近すぎる。視線が外れない。息が、うまくできない。
「それなら……」
一拍、間があった。
「もっと俺のことを知ってみたら、どうだ?」
見つめ合う——奇妙な、一瞬。
息が、できなかった。
「……どうした」
すぐ上から、声が落ちる。それだけで。リシェルの限界が来た。
「……どうして、こんな……」
喉が震える。息がうまく吸えない。頬が上気して、視界が涙で滲む。
「意地悪、するの……」
かすれた声が、零れた。自分でも、驚くほど弱い声だった。
責めるつもりなんて、なかった。ただ——分からなかった。どうして、こんなことをされるのか。どうして、自分だけがこんなふうに乱されるのか。
沈黙が落ちる。ほんの数秒だったが——それがやけに長く感じられた。
「……意地悪?」
エリオスの静かな声。わずかに、口元だけが歪む。
「そっちが先に——見てきたんだろう」
リシェルは何も言い返せず、ただ俯いた。
——その瞬間。
ふっと、圧が消えた。さっきまで耳の脇にあった白い手が、視界から消える。
机についていた手が離れる直前——その手が、一瞬だけためらうように止まった。
視線が、リシェルの頬に落ちる。何かを堪えるような、わずかな間。
それから、静かに手が離れた。
「……今日は、ここまでだ」
何事もなかったかのような声音。あまりにもあっさりとした終わりに、リシェルは一瞬、頭がついていかなかった。
「……え?」
「続きは、家で書いてきてくれ」
淡々と告げられる。——それだけだった。
足音が、静かに遠ざかっていく。扉が開く気配と、閉まる音。
それで、ようやく。
(……終わった)
理解が追いついた。その途端。張り詰めていたものが、ふっと緩む。机にうつ伏せになる。心臓が、うるさい。指先が、まだ震えている。
(……なんなの、あれ……)
息が整わない。頭が、追いつかない。耳の近くに落ちた声の残響が、まだそこにある気がした。彼の体温も。じかに触れられていたわけではないのに。
(……ずるい)
思わず、心の中で呟く。
ほんの少し触れられただけなのに——どうして、こんなに乱れるのか。
(……あの人)
あれは小説の中の、分かりやすいキャラクターではない。優しいとか、冷たいとか、執着とか、無関心とか。そんな単純な言葉では、表すことができなかった。
エリオスは、矛盾している。冷たいのに、逃がしてはくれない。理解できないのに——目が離せない。
(……今まで、何を書いてきたのか)
自分が書いてきたもの。分かりやすく整理された感情。読者に伝わるように整えた人物。それとは——決定的に違う。
(……あれは好意なの? それとも嫌がらせ? 違うか……新刊が読みたいだけ?)
分からない。でも、確かに何かがあった。興味のない相手に対して、あんなことはしないだろうということは分かる。けれど——名前をつけることができない。
(……違う)
すぐに首を振る。あんな態度で、好意なんてあるはずがない。そもそも自分は、ただ彼をモデルにしていただけだ。
(……関係ない)
大事なのは、そこじゃない。
ゆっくりと、リシェルは顔を上げた。
震える手で、ペンを拾う。白い原稿が、目の前にある。
(……書きたい)
その衝動が、確かにあった。
さっきまでの恐怖とは違う熱。
けれど——あの恐怖も、この衝動も——同じ場所から来ている気がした。
(……分からない)
あの人のことも。
自分のことも。
全部、ぐちゃぐちゃのまま。
それでも。
ペンを握る。
(……書く)
理解できなくてもいい。 整理できなくてもいい。
このまま——書いてしまえばいい。
震える手で、ペン先を紙に落とす。




