十四話 理解できない感情
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。
リシェルは洗面台の前に立ち、冷たい水で顔を洗う。指先がひんやりと濡れて、眠気が少しだけ遠のいた。
昨日のことを、なるべく考えないようにしていた。エリオスが来たこと。慌てて原稿を鞄に詰めたこと。体調不良を理由に早退したこと。
着替えを済ませ、髪を整えて、いつも通りの支度を終える。
それから、念のため——と思って鞄の中を確認した。
(……あれ)
原稿を取り出して、枚数を数える。一枚、二枚、三枚——。
(……少ない)
もう一度、丁寧に数える。結果は変わらない。
(……数枚、足りない)
ぞわり、と背筋が冷えた。
昨日、慌てて詰め込んだとき——落としたのかもしれない。あの書庫の、机の上か、床か。
(……あの場所に、残ってる)
血の気が引いた。手の中の原稿が、急に重くなった気がした。
(だ、誰かに見られてたら……っ)
ルドヴィクの顔が浮かぶ。それから——エリオスの顔が浮かぶ。昨日、確かに机の上に一瞬だけ視線を落としていた。あの目が。
(……読まれた?)
喉がひくりと鳴る。
答えは出ない。けれど、最悪の想像だけが次々と浮かんでくる。
(い、急いで回収しないと……!)
鞄を掴んで立ち上がる。支度は済んでいる。あとは行くだけだ。
——どうか、まだ誰の目にも触れていませんように。
その祈りだけを胸に抱えながら、リシェルは部屋を飛び出した。
◆
朝の書庫は、まだひんやりとしていた。
高窓から差し込む光は薄く、棚の列が青みがかった影を落としている。足音を忍ばせるように、リシェルは急ぎ足で司書机へと向かった。
——そこには、数枚の紙が、裏返された状態で置いてあった。
リシェルはそんなことをした記憶がない。
つまり、誰かが目を通した後にひっくり返したということで。
しばらく、その紙をじっと見つめた。手を伸ばすことも、確かめることもできないまま。
冷たい空気が、頬に触れる。
その日一日、ルドヴィクの様子はいつもと変わりがなかった。表情は読めないため、彼が読んだのかも分からない。かといって怪しまれるのも嫌で、『もしかして、読んだ?』と聞くこともできない。もし読んでいたら墓穴を掘ってしまいそうな気もする。
(でも、もし殿下に読まれていたら……)
そう思うと血の気が引く。
(……『こんな目で俺のことを見ていたのか?』って言われたら、もう死ぬしかない……っ)
せめて官能小説でなければ良かったのだが。
時間だけが、静かに過ぎていった。
◆
書庫は、夕暮れの光に満たされていた。
高窓から差し込む緋色の光が、机と本棚を淡く照らしている。紙とインクの匂いが、穏やかに空気に溶けていた。いつも通りの、静かな場所。
——なのに。
——そのとき、蝶番が低く鳴った。
「……いたか」
低い声が、静かに落ちる。
心臓が跳ねる。エリオスが書庫の入口に立っていた。いつも通りの、整った姿。無駄のない所作。感情の見えない表情。
だが、昨日までと何かが違う気がした。うまく言葉にできないけれど——空気が、重い。
「お、お疲れさまです……殿下」
ぎこちなく頭を下げる。
(どうかお願い、原稿を見られていませんように……!)
エリオスに見られるくらいなら、ルドヴィクのほうがまだマシである。とても彼の目を正面から見ることができない。
「体調は?」
「え……?」
「昨日、早退しただろう」
事務的な声。責めているわけではない。気遣いとも少し違う。ただ、そこにある事実を拾い上げるような響きだった。
「も、もう大丈夫です……」
小さく答えると、エリオスは一瞬だけ視線を落とした。
「そうか」
それだけだった。——それだけなのに。
(……なんで)
胸の奥が、ざわつく。昨日までとは、明らかに違う空気。近いはずなのに、遠い。そんな、奇妙な違和感。
「……仕事は?」
「は、はい。もうすぐ終わりです」
今日はリシェルが鍵閉めをする日で、ルドヴィクは既に帰宅している。書庫に二人きりなのも気まずい。昨日の原稿のことが気になって、落ち着かない気分になる。
エリオスは書庫の奥へと視線を向けた。
「あちらへ行こう」
その言葉に、無意識に息を呑む。
「え……? あっ、はい」
戸惑いながらもついていく。
案内されたのは、書庫の奥にある小さな閲覧スペースだった。
壁に囲まれた半個室のような空間で、簡素な机と腕置きのついた椅子が置かれている。夕陽がここまでは届きにくく、空気がひんやりと落ち着いていた。外の気配が、わずかに遠のく。備え付けの紙と古いインクの匂いだけが、静かにそこにある。
「座れ」
エリオスが椅子を指す。
「は、はい……」
言われるままに腰を下ろす。
——次の瞬間。
「動くな」
低い声と同時に、背後からエリオスの両腕が伸びてきた。左右の腕置きにそれぞれ手をつかれる形で、逃げ場を塞がれる。
「え——」
思わず振り返ろうとするが、できない。視界の両端に、腕置きを掴む手が見える。完全に囲われた形で、前を向くしかない。近すぎる気配。吐息が、首筋にかかりそうな距離だ。
「で、殿下……?」
声が、わずかに震えた。
するとゆっくりと、横からエリオスの顔が覗き込んでくる。
思わず、息を呑んだ。
昨日とは違う。あのときは、まだ余裕があった。今は違う。感情を押し殺したような、静かな何か。それでいて——どこか、目が離せない青色の瞳。
「質問だ」
耳元のすぐ近くで、声が落ちる。
「王は、選ばれることはないと思うか」
「え……?」
思考が止まる。その問い。——どこかで、聞いたことがある。
(それ……)
喉が、ひどく乾く。
「どう思う」
呼気が触れそうなほど近い距離で、視線が逸らせない。
「……わ、私は……」
言葉が、うまく出てこない。知っている。この問いの先を。けれど——。
(言ったら、だめ……)
「……分かりません」
やっとのことで、絞り出す。
エリオスは何も言わなかった。ただ、射貫くように見ている。
無意識に、座ったまま体が前へ傾いた。机の縁に指先が触れる。少しでも距離を取ろうとした、その動きをエリオスは見逃さなかった。
「……逃げるな」
「っ……!」
低く、抑えた声。強くはない。だが、逆らえない圧があった。
「に、逃げてなんか……」
視線が泳ぐ。
「そうか?」
即座に遮られる。ただ一言、それだけで十分だというように。
背後から、エリオスの腕が伸びてきた。机の上のインクペンを、静かに取る。その動作だけで、気配がぐっと近づいた。首筋に吐息がかかりそうな距離まで。
(……近い)
ペンがリシェルの手に、するりと渡される。細い軸の感触が、指先に伝わる。自然と背中が椅子の背にぴったりとつく。木の固い感触が、薄い布越しに伝わってくる。視線が、横から絡んでくる。
「……書け」
「……え?」
一瞬、意味が分からなかった。
「昨日の続きを書いてくれ。——無慈悲な夜の女王」
その言葉が意味するものを呑み込んだ瞬間——息が詰まる。
「っ……違います。私は……」
反射的に、否定していた。
「……そうか」
否定しても、その視線はまったく揺れない。ただ、確信を持っているようにリシェルを見つめている。
(バレてる……)
頭が真っ白になった。
(ど、どうしよう……)
混乱して、うまく考えがまとまらない。
「……昨日、机の下に紙が落ちていたから、拾って読んだ」
エリオスのそれは淡々とした言い方だった。だが、その一言で足元が崩れそうになる。
「っ……」
言葉が出ない。否定も、言い訳も。すべて、無意味だと分かってしまったから。
「……続きを書け」
もう一度、同じ言葉が落ちる。今度は、わずかに低く。
「ここで」
「む、無理です……! そんなの……」
「なぜ? ……あれは書けていたじゃないか」
間を与えない。
「それは……」
言葉に詰まる。
「官能小説なんて、こんなところでは書けません……っ」
やっとのことで絞り出す。口にした瞬間、自分の言葉に顔が熱くなった。
「書いていたじゃないか」
(そ、その通りだけど……!)
「で、でも……っ」
違う。あれは、誰にも見られていないから書けた。ひとりだったから。——彼がいなかったから。しかし言葉が続かない。
「……本当は、別の理由があるんじゃないか?」
低く落ちた声に、リシェルは息を呑んだ。
エリオスの瞳には、温度が感じられなかった。怒っているわけでも、呆れているわけでもない。ただ——見ている。こちらの内側を、静かに。
それが、かえって怖かった。本当は言いたくなかったけれど、リシェルは観念した。
「言いたくなかったんですが……じつは、その……殿下を、モデルにしてるんです……」
気づけば、口にしていた。ますます顔に血が上る。
「ごめんなさい……! だから、ここでは……」
息が乱れる。言ってしまったことに、自分で驚く。
だがエリオスは、何も言わなかった。その沈黙が、じわりと重くなる。
「……そうか。俺は都合のいい観察対象だったか?」
わずかに、彼の口元が歪む。自嘲でも、怒りでもない。もっと静かな、温度のない笑みだった。
リシェルは何も言えない。沈黙が続く。
「ずいぶん丁寧に見ていたんだな。……細かいところまで」
確かに彼を王太子のモデルにできたらと期待して、この仕事を引き受けたのだから。言い訳もできなかった。
エリオスは、すっと手を伸ばしてきた。
逃げようとする前に——指先が、リシェルの頬に触れた。そのまま、ゆっくりと顎へ這わされる。
ただそれだけのことなのに。視線を外すことができない。
(……なに、これ)
近い。彼の吐息がかかるほどの距離。それでも触れているのは、ほんの指先だけだ。それ以上は踏み込んでこない。
体が、固まる。視線を逸らそうとしても、それすら許されない気がした。顎に触れた指先が熱い。その温度だけが、不思議なほど鮮明だった。
「……観察して、書いて。満足か?」
その声に、わずかな棘が混じる。
言葉の意味が、胸に刺さる。
「反応も、距離も。俺のことを、ずいぶん丁寧に書けている」
褒めているはずなのに。その声は、どこか、遠い。
(……怒ってる?)
勝手にモデルにされたことを? 確かにリシェルも、官能小説の主人公にされたら嫌な気分になるだろう。
「ごっ、ごめんなさ……っ」
「謝ってほしいわけじゃない」
「それなら、どうして……」
確かに彼を参考にしてしまおうと思った。——けれど傷つけるつもりはなかった。それは本当だ。
エリオスは、小説の中のキャラクターみたいに分かりやすくない。優しいわけでも、意地悪なわけでもない。でも——。
(……彼が分からない)
目の前にいるのに、感情が読み取れない。なのに、妙に熱がある。
エリオスは答えなかった。
「……書け。今の感情を」
低く、命じるように。
「……っ」
言葉を失う。
(今の、感情? こんな、混乱したものを?)
「……できないか? なら——」
指先が、わずかに動いた。顎を支えていた手が、這うように首筋へとずれる。
「っ、ゃっ……」
思わず口から声が漏れた。
同時に、手首を軽く掴まれる。
強くはない。振り払おうと思えば、できる程度の力。それでも——逃げるという選択肢が、頭から消える。
顎から首筋へと移った指先の感触と、手首を包む温度。二点から伝わってくる熱が、じわじわと意識を占領していく。触れられた場所だけが妙に鮮明だった。
「……この程度で、止まるのか」
静かな問いだった。
(……違う)
そうじゃない。書けないんじゃない。——分からないのだ。
(……私)
今まで、自分が書いてきたものを思い出す。分かりやすい感情ばかりだ。好き。嫌い。嫉妬。執着。読者がすぐに飲み込める、単純な形。
——けれど。
(……こんなの……矛盾してる)
目の前の彼は、違う。触れているのに熱くて冷たい。距離は近いのに遠い。胸が苦しいのか、怖いのかも分からない。
(……だから、書けないんだ)
胸の奥に、すとんと何かが落ちた。
(私……ずっと)
自分の手を、見つめる。
(分かりやすい感情しか、書いてなかった)
だから、目の前のエリオスが怖い。——何を考えているのか分からなくて。
まだ、手首は掴まれたままだ。その感触が、妙に現実的だった。
「……うまく書けるか分かりません」
「構わない」
短く、だが確かに返ってきた声。
「それでもいいなら……書いてみます」
ぽつりと、言葉が落ちる。もがき苦しみながら。そうやって、これまでもペンを取ってきたのだから。
エリオスの指先が、わずかに止まった。
しばらく、何も言わなかった。——何かを考えるように、ほんのわずかに視線が揺れる。
やがて、ふっと——口元が緩んだ。
それは微笑みと呼ぶには小さすぎたが、確かにそこにあった。冷たさとも、自嘲とも違う。ただ、何かが少しだけ解けたような——そういう表情だった。
「……そうか。なら、明日は必ず書いてくれ」
手首を掴んでいた手が、離れる。顎から指先も、すっと引かれる。まるで、最初から何もなかったかのように。
そして彼は去って行った。扉が静かに閉まる。足音が、遠ざかっていく。
——なのに。
(……なんで)
離れたはずなのに。さっきまでの熱が、頭から離れない。頬に触れた指先の感触が、生々しくて。頬から首筋の輪郭をたどったその感覚が、まだそこに残っている気がした。手首のかすかな温度までも。
理解できない感情が、胸の奥に渦巻いている。
(……どうして)
リシェルは、ゆっくりと机に向き直った。震える指で、ペンを握る。
(そんなに、続きを書かせたかったの?)
白い原稿を前にして、リシェルは途方にくれた。
——そういえば。エリオスは最初から、削除された章の痕跡を探していたのだ。続きのない空白を、ずっと見つめていた。
この感情を、書かなければならない。
——あの人のことを、まだ理解できなくても。




