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音楽で乙女は救えない  作者: ナツ
ルート:紅
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~in ten years~

 朝、目が覚めると、広いベッドの隣はもぬけの空。

 少し離れた場所に設置しているベビーベッドも空っぽだったので、飛び起きて探しに来てしまった。結婚して4年が経つというのに、未だに妻が恋しい。


 女主人の部屋の扉は開きっぱなしだった。

 

 「あ、紅。おはよう」


 気配を感じたのか、まだ部屋着のままの真白が振り返り、パアッと顔を明るくする。

 生えかけている歯がかゆいらしく、しゃにむに拳をしゃぶっている息子を腕に抱いているせいで、胸元は涎でべとべとだ。


 「ほら、パパが来たよ、こん。抱っこしてもらおっか」

 「もしかして、また夜泣きした? 起こしてくれて良かったのに」

 「だって昨日も帰りが遅かったし、仕事が立て込んでるって水沢さんが。疲れて寝てるのに、可哀想で起こせないよ」

 「それはお前もだろ。俺も気づくようにするけど、次からは起こして。夜くらい助けてやりたいんだ」


 手を伸ばして、軽すぎる柔らかな子供を受け取る。

 ここ何ヶ月かでだいぶ上手く抱けるようになった。最初は壊してしまいそうで触れなかったのだから、我ながらなかなかの進歩だと思う。

 赤ん坊独特の匂いのする頬に顔を寄せると、なにが嬉しいのか紺は声を立てて笑った。

 茶色の薄い髪がふわふわとくすぐったい。

 首が座ってきた息子を抱え直し、一緒に長椅子に腰掛ける。母親が見えるよう角度を変えれば、懸命に目で追い始めた。


 「急がないと、約束は10時だろ? 俺たちのことは気にせず、着替えたら」

 「ここでは着替えませんー」


 イーッと鼻に皺を寄せ、真白はさっさとクローゼット部屋へと入っていってしまった。

 彼女の姿が見えなくなった途端、むずかるように紺が泣き始める。

 立ち上がって軽く揺さぶり、手のひらに収まってしまいそうな背中を撫でた。


 「淋しいよな。分かるよ、その気持ち」


 話しかけるとピタリと泣き止み、潤んだ瞳でじっとこちらを見上げてくる。

 可愛くてたまらない。どんな辛いことからも守ってやりたい、と心から思う。真白に感じている愛情とは、また違う庇護欲だった。

 誰も見ていないことを確認し、頭のてっぺんに触れるだけのキスを落とす。

 機嫌を直してくれたのか、もう止めろと言いたいのか。紺は小さな手で俺の頬をペチペチ叩いた。

 

 

 


 子供を持つことは、正直怖かった。

 嫌でも蒼の母親のことを連想してしまう。もし真白も同じ目にあったらと考えるだけで目の前が暗くなった。

 ピアニストとして順調にキャリアを積んでいる真白の邪魔はしたくない。

 彼女が傍にいて、笑っていてくれる。それだけで十分だ。

 ところが、俺の臆病さを豪快に笑い飛ばしたのは、真白本人だった。


 「紅が本当に子供なんて欲しくないっていうなら、話は別だけど。そうじゃないなら、本音を言って」

 「お前より優先されるものなんて、俺にはない。このままでいい」


 欲しくない、とは言い切れなかった。

 頑なな俺をソファーに座らせ、隣に自分も腰を下ろすと、真白は俺の頬に手を当てた。

 まっすぐな強い眼差しに射抜かれそうになる。


 「私は欲しいな、紅の赤ちゃん。こんな大きな家を建ててもらって住んでるのに、私と紅とお手伝いさんたちだけじゃ、寂しくない?」

 「何かあったらどうするんだ」

 「絶対大丈夫……とは言えないか」


 惚れきってる女に子どもを産みたいと口説かれ、欲情しない男がいるなら見てみたい。

 だが一時の感情に流され彼女を失ってしまったら? うっすら想像するだけで、頭から冷水を浴びせられた気分になる。

 ほら、と言い募ろうとした俺の口をもう片方の手でふさぎ、真白はにっこり微笑んだ。

 二十歳を過ぎた頃から、彼女は蕾が花開くように綺麗になった。前から魅力的だったが、今では人目を惹かずにおかない美人だ。本音を言えば、家から一歩も出したくない。


 「ちゃんとお医者さんと相談してベストな方法を見つけていくから。それにもし、それでピアノが弾けなくなったとしても、私は構わない」

 

 真白にとってのピアノがどれほどの比重を占めているか知ってるだけに、すぐには信じられなかった。疑いの眼差しで瞳を覗き込めば、揺るがない固い意志を宿し、負けずに見返してくる。

 

 本気なのか。

 納得したのと同時に、狂おしいほどの愛しさがこみ上げてきた。胸が苦しくて、息がうまく吸えなくなる。衝動的に真白の両手を取り、そのままソファーに押し倒した。あっけなく組み敷かれた彼女は、それでも目を逸らさなかった。


 「そんなに甘やかして、どうするつもり?」

 「まだまだこんなものじゃないですよ」


 真白が、茶目っ気たっぷりに微笑む。

 たったそれだけで、10代の頃のように鼓動が早まってしまう。ああ、くそ。勘弁してくれ。


 「うーんと幸せにしてあげる。紅を悲しませたりしないし、一人にもしない。だから、私を信じて」

 「俺の可愛い奥さんは、いつの間にそんな殺し文句を覚えたのかな」

 「ふふ。悪い夫に影響されたのかもしれませんわ」


 成田家に嫁いできてから、いわゆる社交場にも顔を出すようになった真白は、声色を変えて上品にさえずってみせる。

 減らず口を塞いでやろうと唇を重ね、甘さに夢中になったのは俺の方だった。



 

 散々やきもきさせられた妊娠期間を経て、生まれた子供は男の子だった。

 体を冷やすな。重いものは持つな。一人で外出するな。心配のあまり口やかましくなった俺を呆れたように眺め、水沢は「そのうち真白様に愛想を尽かされますよ」と警告してきた。

 ぐっと押し黙った俺を見て、真白は「それくらいで嫌になるなら、そもそもこんな面倒くさい人を好きになっていない」と笑った。全く生意気だ。そしてその生意気さを含め、可愛くて仕方ないんだからしょうがない。


 彼女は身ごもる前から、生まれてくるのが男でも女でも『紺』という名前にしたいと主張していた。初めて聞くのにとても耳馴染みが良い名前に、俺もすぐに同意した。


 初孫の誕生に成田の両親は狂喜乱舞し、子供のいない玄田の叔父夫婦まで暇さえあれば覗きに来る始末。仕事しろ、仕事を! 多忙を極めてるんだろうが。叔父の第一秘書を務めている久我さんは諦めてしまったのか、スケジュールに「真白様・紺様との面談」を組み込んでいるという。即刻やめてもらいたい。

 

 ただでさえ心身共に疲労している妻を煩わせるつもりなら、容赦しない、と苛立った俺を宥めたのも真白だった。


 「私は嬉しいよ」

 「俺の身内だからって、無理することない。こういう時は、自分の親に来てもらいたいものじゃないのか?」

 「無理なんてしてない。今だってすごく気を遣って貰ってる。小学生の頃から、すごく良くして下さってるんだよ? 私の親同然じゃない。会いに来て何が悪いの」


 剣呑な目つきで睨まれ、どうやら本気で俺に腹を立てているらしいと分かる。

 俺に? まったく理不尽な話だ。


 島尾の両親は、花香さん夫婦のところの小学生二人に翻弄され忙しいのか、滅多にやって来ない。花香さんが仕事を続けているので、しょっちゅう子供を預かっているらしい。

 こちらの手伝いが出来なくて申し訳ない、と電話口で謝罪され、慌ててしまった。そんなつもりはなかった。母たちが入り浸っているせいで、敷居を高く感じているのなら申し訳ない。「いつでも好きな時に来てください」と伝えたかったのだが、失敗した。


 

 「それにしたって、不思議だよな」

 「ん? なにが」

 「子どもの頃は俺達、どちらかというと仲悪くなかったか? 母さんと千沙子さんが真白を溺愛し始めたきっかけを、よく思い出せなくて」


 真白は、小さな指を握り込み、すやすやと寝息を立てている息子の額を優しく撫でながら、少しだけ口の端をあげた。

 彼女は時折、こんな表情をする。

 もう二度と手に入らない何かを惜しむような。諦めに似た切なげな遠い目をする。

 

 「桜子さんたちには娘がいないから、代わりに可愛がって下さったのよ。だから私も、ご恩をお返ししたいだけ」


 小さな声で、真白は言った。

 ベビーベッドを覗き込むふりをしながら、何とか気持ちを立て直そうとしている最愛の妻を背中から抱きしめる。


 「悪かった」

 「馬鹿ね。紅が謝ることない」


 真白は俺の腕に頬を寄せた。冷たく濡れていることには気づかないふりで、俺は彼女が落ち着くのを待った。

 理由を問いただすつもりは、この先もない。

 真白が何か大切なものを捨て、今ここにいるのだということだけは何故か分かったから。




◇◇◇◇◇◇



 慌ただしく支度を済ませ、久しぶりによそ行きの格好をした真白はキラキラ輝いていた。

 半年後に再開する日本ツアーの打ち合わせに出かける彼女の後をついていきながら、少しだけ面白くない気分になる。ピアノの腕を落とすまいと、休養中苦労していたことも知っているのに、まったく酷い旦那だ。

 俺の気持ちなんてお見通しなのか、玄関先で真白はくすくす笑い始めた。


 「心配しないで。ピアノより誰より、私にとって大切なのは、紅と紺よ」

 「そんなことは分かってるし、心配なんてしてないさ」


 平然とした顔で肩をすくめてみせる。

 紺はまだ小さいので、男の意地が張れないらしい。母親に置いていかれると勘付いたんだろう、盛大に泣き始めた。


 「ママの代わりにばあば達が来てくれるからね。明日は、蒼おじちゃまと美登里ちゃんも来るんだよ? 楽しみだね~」

 「は? 聞いてない」

 「そうだっけ。じゃあ、サプラーイズ!!」


 じゃあ、って何だ。

 大仰に両手を広げた仕草がおかしくて、思わず笑ってしまう。


 「まさか上代たちも来るとか言わないよな」

 「あれ。そっちは本気でサプライズにするつもりだったのに」

 

 明日は、10月21日。

 もう大人なんだから、いい加減さらっと流して欲しいくらいなのだが、真白には言えない。

 毎年、盛大に祝いたがる彼女のことだ。何かを企んでるとは思っていたけど、まさかヨーロッパから蒼たちまで呼びつけるとは思わなかった。

 上代たちの顔を見るのも久しぶりだ。あいつと皆川の結婚式以来になるのか。


 「紺にも会いたいって言ってたし、ちょうどいいかなって」

 「ついでかよ。俺も紺も傷つくな」

 「ふふ。じゃあ、慰めが必要?」

 「当然」


 俺が言い放つと、真白はヒール靴をきちんと履き、背伸びをして俺達二人にキスしてくれた。

 頬へのそれは物足りないが、紺がいない時に埋め合わせをしてもらうことに決める。


 「いってきます!」


 愛用のトートバッグには、今の真白には不釣り合いなトンボ玉のストラップがぶら下がっている。


 ピンク色のガラスに金粉が混じってるものと。

 もう一つ、濃紺のガラスの中に白い花びらが浮いてるもの。


 その二つのストラップを、真白はボロボロになった後も、とても大事にしていた。

 

 



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