第9話
深夜の魔術師団長室。分厚いベルベットのカーテンが月明かりを遮り、机上の魔石ランプが放つ青白い光だけが、うず高く積まれた書類の山を薄暗く照らし出している。
静寂に包まれた空間で、私は一人、羽ペンを走らせていた。
ふと、首筋にひやりとした冷たい感触が蘇る。
荒い木肌の台に押し付けられ、断頭台の重い刃が落ちてくるあの瞬間の記憶だ。鉄錆のような血の匂いと、ぬかるんだ石畳の感触。周囲を取り囲む群衆の心ない罵声が、遠い波の音のように耳の奥で響いた。
貴賓席から私を見下ろしていた、宰相グスタフの冷酷な嘲笑が脳裏に焼き付いている。彼はまるで路傍の石でも見るかのような目で、私の死を眺めていた。私が政治の泥仕合に無関心であることをいいことに、周囲を固め、逃げ道を塞ぎ、最後にはあの断頭台へと私を引きずり出したのだ。
私はゆっくりと息を吐き出し、目を閉じる。
あの日、無実の反逆罪を着せられて処刑された直後、私はこの三年前の執務室で目を覚ました。心臓が早鐘のように打ち、全身が冷や汗で濡れていたことを今でも鮮明に覚えている。
机の一番下の引き出しを開け、厳重に保管してある一枚の書類を取り出す。
『軍事物資および魔道具の追加発注書』。
末尾に押された偽造の公印を、私は冷ややかな目で見下ろした。
あの時、私はこれへの署名を回避し、敵の最初の罠を粉砕した。
権力に固執する冷酷な宰相派。彼らは私を排除するためなら、どんな卑劣な手段でも平然と用いる。だからこそ、私は誓ったのだ。怒りや憎悪に任せるのではなく、完璧な証拠を揃えて彼らを断頭台へ送ると。
表面上は従順な部下を装いながら私を裏切った副団長ゲイツ。彼を罠に掛けて合法的に追放したことが、すべての反撃の始まりだった。裏切り者を排除し、裏で宰相派の不正の証拠を集める。その決意は、今も私の胸の奥で静かに燃え続けている。
書類を元の場所へしまい、私は机の中央に置かれた古びた品に視線を落とした。
ゲイツの執務室にあった隠し引き出しから押収した、針の動かない銀色の懐中時計。
一見すればただのガラクタにしか見えないが、内部には極小の空間魔術によるロックが幾重にも施されている。宰相からの密命や、不正な取引の記録を隠蔽するためのものだ。
私は指先に微かな魔力を集め、時計の冷たい金属表面をなぞる。
微弱な魔力の波長を読み取り、複雑に絡み合った術式を一つずつ解きほぐしていく。極めて繊細な作業だ。少しでも魔力の入力を誤れば、内部の証拠ごと自壊する仕掛けになっている。
見えない魔力の糸を紡ぎ、時計の内部構造へと侵入させる。歯車の一つ一つに刻まれた暗号式を読み解き、正しい順序で魔力を流し込む。
カチリ、と微かな音が鳴った。
第一層のロックが外れた証だ。完全に解析を終えるまでにはまだ時間がかかるが、着実に核心へと近づいている。この中にある情報が引き出せれば、宰相派の暗部をさらに深くえぐることができるはずだ。
私は時計を丁寧に布で包み、再び引き出しの奥へとしまった。焦る必要はない。敵の尻尾を確実に掴むための準備は、着々と進んでいる。
◆ーーーー◆
翌朝。
控えめなノックの音とともに、執務室の扉が開いた。
「団長、よろしいでしょうか……」
自分の背丈ほどもある書類の束を抱え、丸眼鏡をかけた小柄な青年が入ってくる。補佐官のノアだ。
「防衛体制の強化案、お持ちしました。その、昨夜のうちにまとめておいたのですが……」
彼はオドオドとしながら、机の上に書類の山を置いた。
私は目を通す。各部隊の配置転換、物資の再分配、そして王宮周辺の結界の再構築案。どれも緻密で無駄がなく、私の意図を完璧に汲み取った内容だった。
「団長、第七部隊の魔力回復薬の備蓄が規定値を下回っています。宰相派の息がかかった商会が、意図的に納品を遅らせているようです」
「やはりな。兵糧攻めか」
「はい。ですが、代わりに第三部隊の余剰分を回し、さらに王都東区の独立系工房と直接契約を結ぶことで、不足分は補えます。書類はこちらに」
ノアが差し出した書類には、完璧な代替案が記されていた。
「見事だ。政治的な圧力に屈せず、実務で解決策を提示する。君のその能力は、今の魔術師団にとって不可欠だ」
「もったいないお言葉です……! 僕なんて、ただ書類を整理するのが得意なだけで……」
「その『ただの書類整理』が、何百人もの魔術師の命を救う。自信を持て」
ノアは顔を赤らめ、嬉しそうに深く頭を下げる。
宰相派は、辺境での魔獣暴走計画を私に先回りされて潰されたことで、強い焦りを感じているはずだ。次なる強硬手段に出てくる可能性は極めて高い。
「物資のやり繰りと結界の再構築は、君に一任する。敵の不測の事態に備え、防衛ラインを二重に引き直してほしい」
「はい! 必ず、ご期待に応えてみせます」
気弱で自己評価の低い彼だが、与えられた仕事に対する責任感と実務能力は誰よりも高い。彼を直属の部下に引き上げたことは、間違いなく正解だった。
◆ーーーー◆
その日の夜。
執務室の窓際に、音もなく影が落ちた。
目立たない灰色のローブを纏った細身の青年。隠密魔術師のカイだ。
「団長、裏でキナ臭い動きがあるぜ」
カイは飄々とした態度で窓枠に腰掛け、報告を始めた。
「王都の裏社会に、厄介な客が入り込んだ。凄腕の暗殺者だ。どうやら、標的はあんたらしい」
暗殺者。
私はペンを置き、思考を巡らせる。
「暗殺者の名前はジン。裏社会じゃちょっと名の知れた男だ。毒や罠みたいな回りくどい手は使わず、直接的な物理攻撃と魔術の複合で標的を仕留めるらしい」
カイは窓枠から飛び降り、足音一つ立てずに私の机の前に立った。
「ヴィクターも随分と短絡的な手に出たな。完璧な計画を次々と狂わされ、彼のプライドはズタズタなのだろう」
「あんたが辺境でセリア殿下を救出した件が、よっぽど堪えたんだろ。あのままじゃ自分たちの首が危ないって、焦って尻尾を出したってわけだ」
「その通りだ。だからこそ、この機会を逃す手はない」
私は引き出しから一枚の白紙を取り出し、ペンを走らせる。
「カイ、君にはこの暗殺者を『歓迎』するための準備を手伝ってもらいたい。殺すなよ。生け捕りにして、ヴィクターとの繋がりを吐かせる」
「了解だ、団長。俺の魔術が卑怯だって言う連中に、裏の仕事の恐ろしさをたっぷり教えてやるよ」
カイはニヤリと笑い、再び影の中へと溶け込んでいった。
深夜。
カイを下がらせ、一人になった執務室で、私は書類仕事の続きをしていた。
私は手元の書類に偽の警備配置を書き込みながら、部屋の四隅に意識を研ぎ澄ませていた。
ふと、空気が微かに揺らいだ。
部屋の四隅に張り巡らせていた不可視の結界。そのうちの一つが、音もなく破られたのだ。
物理的な破壊ではない。魔力の波長を完全に同調させ、結界の網目をすり抜けるような高度な技術。並の魔術師では気づくことすらできないだろう。
だが、私の感知網を誤魔化すには、あと十年は修行が足りない。
背後の影が濃くなり、気配を完全に殺した何者かが忍び寄ってくる。
刃の冷たい反射光が、机の上の書類に一瞬だけ映り込んだ。
私は手元の書類から目を離さず、口元に冷たい笑みを浮かべた。
自ら証拠を届けに来てくれるとは、ありがたいことだ。
さて、この招かれざる客を、どう料理してやろうか。




