第10話
自ら証拠を届けに来てくれるとは、ありがたいことだ。
さて、この招かれざる客を、どう料理してやろうか。
音もなく、黒い外套が宙を舞った。
暗殺者ジン。王都の裏社会で名を馳せるプロフェッショナルであり、ヴィクターが私を始末するために雇い入れた男だ。
彼の放った凶刃が、私の首筋を正確に薙ぎ払う。
だが、刃が肉を裂く感触はない。
ジンが目を見開いた瞬間、周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。
「……幻影か」
彼が舌打ちをしたときには、すでに遅い。
執務室の空間は反転し、ジンは私が事前に張り巡らせていた精神干渉の結界へと落ちていった。
結界の内部で、ジンは私の記憶の奔流に呑み込まれる。
私が彼に見せたのは、ただの幻ではない。私自身が骨の髄まで味わった、あの絶望の追体験だ。
季節外れの赤い雨。鉄錆のような血の匂い。ぬかるんだ石畳の感触。
周囲を取り囲む群衆の罵声が、遠い波の音のように響く。
そして、処刑人の無機質な手が肩を押さえつけ、断頭台の刃が首に落ちる瞬間の、あの圧倒的な死の恐怖。
宰相派の陰謀により反逆の濡れ衣を着せられ、処刑された私の最期。
幻影の中で、ジンは私と同化し、その死を味わう。
直後、景色が切り替わる。
三年前の執務室。処刑されたはずの私が目を覚ます。
机の上に置かれていたのは、前世で私を破滅に追いやった決定打――偽造された備品発注書だった。
ジンは幻影の中で、私がその書類を前にして抱いたどす黒い感情を共有する。
前世の私は、この書類の中身をろくに確認もせず、部下を信用して署名してしまった。それが、すべての始まりだった。
真面目に魔術を極めるだけで生き残れると信じていた、お人好しな過去の自分への激しい嫌悪感。
ジンは、その感情の重圧に息を呑む。
だが、今の私は違う。
私は発注書への署名を回避し、最初の罠を粉砕した。
権力に固執する冷酷な宰相派に対し、今度は完璧な証拠で彼らを断頭台へ送るという信念。それが私の魂に焼き付く瞬間を、ジンはまざまざと見せつけられる。
さらに幻影は続く。
表向きは忠実な団長を演じつつ、前世で私を裏切った副団長ゲイツを罠に掛ける光景。
彼が失脚し、絶望に顔を歪める様を、私は冷酷に見下ろしていた。
裏切り者には必ず相応の報いを受けさせる。
それを皮切りに、裏で宰相派の不正の証拠集めを本格的に開始した私の冷徹な歩み。
ジンは、標的である私がどれほどの執念を抱えて生きているかを知る。
他人の強烈な感情と記憶の奔流に当てられ、彼の精神は限界を迎えようとしていた。
◆ーーーー◆
「……ハァッ、ハァッ……!」
執務室の床に膝をつき、ジンが荒い息を吐き出した。
幻影の結界が解け、現実の空間に戻ってきたのだ。
私は執務机の椅子に深く腰掛けたまま、彼を見下ろした。
ジンの四肢は、すでに私が展開した不可視の魔力鎖によって床に縫い付けられている。もはや指先一つ動かすことはできない。
「私の頭の中を覗いた感想は?」
「……悪趣味な幻術だな。あんた、本当に人間か?」
ジンは目元を隠す布越しに、私を睨みつけた。
「一度死んで、地獄から這い上がってきたような執念だ。あんなものを見せられちゃ、割に合わねえ仕事だと痛感するぜ」
「普通の人間なら、あんな幻影を見せられたら発狂してもおかしくない。だが、お前はすぐに現実を認識した。プロの暗殺者にしては、随分と優秀な精神力だな」
私は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、冷たい声で告げた。
「魔力の波長を同調させる技術は見事だったが、私の張った結界は三重構造だ。一つ目を破った時点で、お前はすでに私の術中に落ちていた。実力差は理解できたか?」
「ああ。完全に俺の負けだ」
ジンはあっさりと頷いた。
命乞いをするような無様な真似はしない。プロとして、今の状況で生存確率が最も高い選択肢を冷静に見極めているのだ。
「降参だ。好きにしてくれ。煮るなり焼くなり、あんたの自由だ」
飄々とした口調だが、その裏には計算高い思考が透けて見える。
無駄な殺しを好まない彼の性格は、事前の調査で把握済みだ。負けを悟ればあっさりと寝返る柔軟さ、あるいはしたたかさを持っている。
「ヴィクターからの依頼だな。いくらで雇われた?」
「金貨五百枚。前金で半分もらってる」
「安い命だ。私なら、その倍は出す。前金として五百、成功報酬としてさらに五百だ」
私の言葉に、ジンはわずかに眉を動かした。
「俺を雇うってのか? 暗殺に失敗した裏稼業の人間を」
「お前の技術は評価している。結界をすり抜ける身のこなしは、並の魔術師には真似できない。殺すには惜しい」
私は机の上に、金貨が詰まった革袋を放り投げた。重たい金属音が執務室に響く。
「二重スパイになれ。ヴィクターには『暗殺の機会を窺っている』と報告しつつ、宰相派の内部情報を私に流せ」
ジンは床に縫い付けられたまま、革袋と私を交互に見た。
「……あんたの執念を見せられた後じゃ、断る選択肢はなさそうだな。それに、あんたの方が長生きしそうだ」
彼は口角を上げ、飄々とした笑みを浮かべた。
「いいぜ、契約成立だ。今日から俺はあんたの駒として動く」
「賢明な判断だ」
私が指を鳴らすと、ジンを縛り付けていた魔力鎖が霧散した。
彼はゆっくりと立ち上がり、肩をすくめる。
「あんたのところには、厄介な隠密魔術師もいるらしいな。同業者として、あまり関わりたくない相手だ」
「彼はお前とは違う役割を持っている。お前にはお前の使い道がある」
「人使いが荒そうだな。だが、タダで寝返るのもプロの流儀に反する。新しい雇い主への手土産として、一ついい情報を教えてやるよ」
「手土産?」
「ああ。宰相グスタフのジジイが、とんでもないことを企んでる」
ジンの声から、軽薄な響きが消えた。
「国王の毒殺計画だ」
その言葉に、私は目を細めた。
国王毒殺。
それは単なる権力闘争の枠を超えた、国家転覆の危機だ。
もし国王が崩御すれば、宰相派は確実に実権を握り、私を再び断頭台へと送るための強権を発動するだろう。
「実行の時期は?」
「詳しくは知らねえが、そう遠くないはずだ。ヴィクターの屋敷に潜入したとき、偶然立ち聞きしたのさ。裏社会の錬金術師を使って、毒薬の調達が急ピッチで進められてる」
「錬金術師か。証拠を残さない遅効性の毒を使うつもりだろう」
王都の裏で動ける錬金術師は限られている。カイに探らせれば、すぐに尻尾を掴めるはずだ。
タイムリミットが迫っている。
だが、焦りはない。むしろ、敵が強硬手段に出たということは、それだけ彼らが追い詰められている証拠だ。
この毒殺計画を未然に防ぎ、その確たる証拠を押さえることができれば、グスタフを完全に破滅させる決定打となる。
「ご苦労。引き続き、裏の動きを探れ」
「了解だ、雇い主殿」
ジンは恭しく一礼すると、再び影の中へと溶け込んでいった。
静寂を取り戻した執務室で、私は一人、窓の外の暗闇を見つめる。
国王毒殺計画。
この最悪の盤面を、どうひっくり返してやろうか。私の胸の奥で、冷たい闘志が静かに燃え上がっていた。




