第7話
私は再び魔力を練り上げながら、ゆっくりと一歩を踏み出した。
巨大なボス魔獣が地を蹴り、圧倒的な質量がこちらへ迫る。
同時に、首輪から漏れ出していた紫色の魔力が波紋のように広がり、私の全身を包み込んだ。
視界がぐらりと歪む。
脳髄を直接揺さぶられるような感覚と共に、私の意識は強制的に過去へと引きずり込まれた。
鉄錆のような血の匂い。群衆の罵声。
宰相派の陰謀により反逆の濡れ衣を着せられ、処刑されたあの日の記憶。断頭台の荒い木肌の感触と、首筋に落ちる冷たい刃の絶望が、生々しい痛みを伴って蘇る。
そして次の瞬間、私は三年前の執務室で目を覚ましていた。机の上には、前世で私を破滅に追いやった偽造発注書が置かれている。
魔獣の放つ紫色の魔力は、獲物の最も強い恐怖を呼び起こし、精神を崩壊させる性質を持っているらしい。前世の私であれば、この絶望の幻影に呑み込まれ、膝をついていたかもしれない。
だが、今の私にその記憶は恐怖ではない。
首筋に落ちる刃の冷たさも、群衆の嘲笑も、すでに乗り越えた過去の残滓に過ぎない。私は静かに呼吸を整え、脳内に侵入しようとする紫色の魔力を、自身の圧倒的な魔力で外側から強引に締め上げた。
今さら過去の幻影を見せられたところで、私の歩みが止まるはずもない。
すでに私は反撃の狼煙を上げ、着実に敵の足元を崩し始めている。盤面が私の思い描く通りに動き出している今、この程度の精神干渉で揺らぐような柔な覚悟は持ち合わせていない。むしろ、敵が焦って仕掛けてきたこの粗末な罠すらも、さらなる証拠を引きずり出すための糧となるだけだ。
「下らない小細工だ」
私は幻覚を力でねじ伏せ、現実の視界を取り戻した。
眼前に迫る巨大な爪。私はわずかに身を沈めてそれを躱すと、魔獣の首元に視線を定めた。
紫色の魔力を供給している金属製の首輪。あれが凶暴化の元凶であり、同時に魔力循環の要となっている。
右手に高密度の魔力を収束させる。
「貫け」
放たれた光の槍が、寸分の狂いもなく首輪の結合部を撃ち抜いた。
甲高い金属音と共に首輪が砕け散る。魔力供給を絶たれたボス魔獣は、断末魔の咆哮を上げながらその巨体を地面に投げ出した。
地響きが収まり、森に静寂が戻る。
私は砕け散った首輪の破片を拾い上げた。
表面には、宰相派が裏で抱えている非合法な魔術工房の刻印が微かに残っている。これもまた、彼らを追い詰めるための重要な証拠となる。私は破片を懐にしまい込み、小さく息を吐いた。
背後を振り返ると、泥だらけになったセリアとマリアンヌが、呆然とこちらを見つめていた。
私は足早に二人の元へ歩み寄る。
「お怪我はありませんか、殿下」
私が片膝をついて問いかけると、セリアは弾かれたように我に返り、何度も頷いた。
「ええ、無事です。……すぐに領民たちの被害状況を確認しなければ」
その声は微かに震えていたが、王族としての気丈さを保とうとする意志が感じられた。
傍らに控えていたマリアンヌが、ふらつく足取りで私の前に進み出る。彼女は普段の隙のない態度を崩し、深く頭を下げた。
「魔術師団長殿。……私の無礼をお許しください。殿下をお守りいただき、心より感謝申し上げます」
以前の彼女は、私を政争の具としてしか見ておらず、冷たい視線を向けていた。だが今の声には、偽りのない信頼が込められている。
「顔を上げてください。私は私の責務を果たしたまでです」
私が淡々と返すと、マリアンヌは目元を拭い、力強く頷いた。
そこへ、息を切らせたバルドが駆け寄ってきた。
彼の鎧は傷だらけで、顔には疲労の色が濃く滲んでいる。だが、その瞳には安堵の光が宿っていた。
「魔術師団長殿! なんという魔力だ……。貴殿がいなければ、この領地は完全に滅んでいた」
バルドは私の手を取り、力強く握りしめた。
前世の記憶では、この魔獣暴走で領地は壊滅的な被害を受け、彼は防衛失敗の責任を問われて失脚する運命にあった。宰相派が仕組んだ濡れ衣によって領地を奪われ、最後には反逆罪で処刑されたと聞いている。
だが、今回は違う。私の迅速な対応により、被害は最小限に抑えられた。
「バルド卿。被害の拡大を防げたのは、あなたが最後まで前線を維持してくれたおかげです。王宮への報告書には、あなたの功績を正確に記載しておきましょう」
私の言葉に、バルドは目を丸くした。
「俺の功績だと? いや、俺は何も……」
「あなたが領民と殿下を守るために命を懸けたことは、私が証明します。不当な責任を問われるようなことは、決してさせません」
私が断言すると、バルドの顔がくしゃりと歪んだ。
彼は深く息を吸い込み、姿勢を正した。
「貴殿の恩義、一生忘れない。もし今後、俺の力が必要になることがあれば、いつでも言ってくれ。この命に代えても協力しよう」
豪快な騎士の言葉には、確かな重みがあった。
これで、地方領主という新たな協力者を得ることができた。宰相派の足元を崩すための、重要な布石となる。
私はバルドに頷き返し、再びセリアに向き直った。
彼女は泥に汚れたドレスの裾を気にすることもなく、真っ直ぐに私を見つめている。
「レオン」
彼女は私の名を呼んだ。公的な場での「団長」という呼称ではなく、一人の人間としての呼びかけだった。
「私はずっと、王宮の中で孤独でした。宰相派の息がかかった貴族たちに囲まれ、誰が味方で、誰が敵なのかも分からず……ただ政略結婚の道具として、飾り物のように生きるしかないのだと、そう諦めかけていました」
セリアの碧眼が、微かに潤んでいる。
だが、彼女は決して涙をこぼさなかった。王族としての誇りが、彼女の背筋を伸ばさせている。
「でも、あなたは違った。ご自身の立場が危うくなることも厭わず、こうして私を救い出してくれた。あなたの国を思う真意、確かに受け取りました」
彼女は一歩踏み出し、私の手を取った。
その手は冷たかったが、確かな熱を帯びていた。
「私はあなたを信じます。これからは、共に歩ませてください。宰相派の横暴を止め、この国に正しい秩序を取り戻すために」
それは、第二王女としての明確な意思表示だった。
彼女の絶対的な信頼を得たことで、私の派閥は強固な政治的後ろ盾を得ることになる。
私は恭しく頭を下げ、彼女の手に口付けを落とした。
「もったいないお言葉です、殿下。あなたの信頼に、必ずや応えてみせましょう」
私は心の中で冷たく微笑んだ。
宰相派よ。お前たちが仕掛けた罠は、すべて私の手駒を増やすための糧となった。
完璧な証拠は、着実に集まりつつある。
◆ーーーー◆
数日後。
事後処理と領地の復興支援に目処をつけ、私たちは王都への帰路についていた。
揺れる馬車の中で、セリアは窓の外の景色を静かに眺めている。マリアンヌは向かいの席で、油断なく周囲に目を配っていた。
「殿下」
私が声をかけると、セリアは振り返り、柔らかく微笑んだ。
「どうしました、レオン」
「王都に戻りましたら、あなたにお渡ししたいものがあります。ささやかな『贈り物』を用意しているのです」
私の言葉に、セリアは目を瞬かせた。
「贈り物、ですか? あなたが私に?」
「ええ。あなたの身を守るための、特別な香炉です。王宮の自室で使っていただきたい」
私は静かに目を細めた。
それはただの護身具ではない。王室会議の場で、宰相の罪を暴くための決定的な罠となる代物だ。
セリアがそれを受け取った時、宰相派の破滅へのカウントダウンが本格的に始まる。
「楽しみにしていますわ」
何も知らないセリアは、無邪気な笑みを浮かべた。
馬車の車輪が、王都へと続く石畳を力強く蹴り上げていく。
私の手の中には、すでに次の一手が握られていた。




