第5話
窓の外で雷鳴が轟いた。
空を覆う鈍色の雲から、冷たい雨が降り注いでいた。群衆の罵声が、遠い波の音のように響く。断頭台の階段を上る私の背中には、無数の石が投げつけられた。だが、痛みは感じなかった。ただ、胃の奥が鉛のように重く、冷たかった。
周囲を取り囲む群衆の罵声。そして、貴賓席から私を虫けらのように見下ろしていた宰相グスタフの冷酷な笑み。
ハッと息を呑んで目を覚ましたのは、三年前の執務室だった。机の上には、前世で私を破滅に追いやった偽造発注書が置かれていた。
あの瞬間から、私の二度目の人生は始まったのだ。
揺れる馬車の中で、私は銀縁眼鏡の位置を直した。
私は発注書への署名を回避し、最初の罠を粉砕した。権力に固執する冷酷な宰相派。奴らを、今度は完璧な証拠で断頭台へ送る。その信念は、日を追うごとに強固なものとなっている。
王国の魔術師団長として、国のために尽くしてきたはずだった。魔術の探求こそが国を豊かにし、民を守る盾になると信じて疑わなかった。だが、その真面目さこそが命取りだったのだ。真面目に魔術を極めるだけで生き残れると信じていた、お人好しな過去の自分が憎い。政治の泥仕合に無関心だったがゆえに、私はすべてを奪われたのだ。二度と同じ轍は踏まない。
表向きは忠実な団長を演じつつ、前世で私を裏切った副団長ゲイツを罠に掛けて合法的に追放した。これを皮切りに、裏で宰相派の不正の証拠集めを本格的に開始する。
だが、ゲイツを切り捨てたことで、宰相派は確実に警戒を強めている。ヴィクターのような狡猾な側近が、次なる手を打ってくるのは明白だ。
私が集めた完璧なはずの証拠が敵の権力によって握り潰され、再び断頭台の冷たい刃を首筋に当てられる瞬間。無力なまま全てを奪われた前世の絶望を再び味わうことを、私は何よりも恐れている。だからこそ、表の権力に依存しない「裏」の目と耳がどうしても必要だった。
馬車が止まる。
私は黒い外套を深く被り、ぬかるんだ石畳の上へ降り立った。
王都の東端に広がるスラム街。王都の華やかな宮廷とは対極にある、崩れかけたレンガ造りの家屋が身を寄せ合うように建ち並ぶ区画だ。陽の光すら満足に届かず、足元の水たまりには得体の知れない油膜が浮いている。鉄錆と泥の匂いが鼻腔を突いた。
前世で処刑された日の記憶が微かに蘇り、胃の奥が鉛のように重くなる。だが、私はそれを冷たい理性で押さえ込み、深く息を吐き出して散らした。
表の魔術師団の人間は使えない。宰相派の息がかかっている可能性があるからだ。裏の仕事を任せられる、しがらみのない人材。
補佐官のノアがリストアップした候補者の一人を探しに、私は自らこの掃き溜めへ足を運んだ。
路地の奥、行き止まりの空間。
一見すると誰もいないように見える。だが、微かな魔力の揺らぎが、そこに「誰か」がいることを示していた。
「そこから出てきたらどうだ。隠れていても無駄だ。君の魔力波長は、すでに私の網に掛かっている」
私が声をかけると、空間が歪み、灰色のローブを纏った細身の青年が姿を現した。
足音は全くない。影に溶け込むようなその男こそが、目的の人物だった。
「チッ……気配を消すのには自信があったんだがな」
カイは飄々とした、どこか舐めたような口調で言った。
「あんた、魔術師団長様だろ。こんな掃き溜めに何の用だ? 表舞台のエリートが、日陰者をからかいに来たのか?」
「君をスカウトに来た」
私の言葉に、カイは鼻で笑う。
「冗談だろ。俺の魔術は、正統派の連中から『卑怯だ』って蔑まれてきたんだ。日陰者が表舞台に出るな、ってな。あんたみたいなエリートには用はない」
カイの言葉には、静かな怒りが込められていた。自身の能力を真っ向から否定されてきた過去への、深い絶望と反発。
「卑怯? 愚かな評価だ」
私は彼を真っ直ぐに見据えた。
「君の隠密魔術は、単に姿を消しているだけではない。呼吸音、心音、さらには体温すらも周囲の環境に合わせて偽装している。光の屈折だけでなく、魔力の残滓すらも周囲の環境魔力に溶け込ませているのだ。これほどの精密な制御を無詠唱で行うとは。暗殺や諜報向きの卑怯なものだと、正統派の魔術師たちは君を蔑んだのだろう。だが、それは彼らが君の技術の底知れなさを理解できないからに過ぎない。真に恐るべきは、見えない刃だ」
カイは一瞬、目を丸くした。
「……あんた、本当に魔術師団長か? 普通の貴族様なら、俺みたいなドブネズミを見下して終わりだぜ」
「私は貴族の肩書きなど気にしていない。感情ではなく、確実な証拠に基づいて行動する。それが私のやり方だ。政治の泥仕合を生き抜き、敵を追い詰めるためには、君のような技術が不可欠となる」
カイは探るような視線を向けてくる。
「……本気かよ。俺の技術を軽んじる奴には容赦しないぜ?」
「私からの命令は絶対だ。いかなる手段を用いても完遂してもらう。それができるなら、君の魔術を正当に評価し、最大限に活かせる居場所を約束しよう。味方と認めた者は、私が最後まで守り抜く」
私は少しだけ魔力を解放した。冷たく、圧倒的な魔力の圧が路地裏を満たす。
カイは息を呑み、そしてニヤリと笑った。
「いいだろう。あんたに雇われてやるよ、団長」
「頼む。早速だが、初仕事だ」
私は宰相派が地方視察を利用して何かを企んでいることを伝え、その詳細を探るよう命じた。
カイは闇に溶けるように消えた。
◆ーーーー◆
翌日の執務室。
ノアが自分の背丈ほどある書類の束と格闘していた。彼はいつもオドオドと周囲の顔色を窺っているが、与えられた仕事は完璧にこなす。過去三年間の経理記録を洗い直し、ゲイツの不正を暴く決定的な証拠を見つけ出したのも彼だ。私が彼を補佐官に引き上げたのは正解だった。
「団長、第七辺境の結界稼働記録ですが、一部に不自然な魔力低下が見られます」
「ご苦労。やはり、何かが動いているな」
その時、窓枠に音もなく灰色の影が降り立った。
「ひっ!? だ、誰ですか!」
ノアが驚いて書類を落としそうになる。
「落ち着け、ノア。私の新しい部下だ」
カイは窓枠から軽やかに飛び降りると、飄々とした態度で口を開いた。
「団長、裏が取れたぜ。宰相派の連中、第二王女セリア様が視察に向かう辺境の領地で、人為的に魔獣暴走を引き起こすつもりだ」
「詳細を言え」
「宰相派の息がかかった商人が、現地の森に大量の『魔獣寄せの香』を仕掛けている。しかも、視察団の警護には、意図的に実戦経験の乏しい若手ばかりが選ばれていた。引率しているのは、宰相派に媚びを売る無能な騎士隊長だ」
私は銀縁眼鏡を押し上げた。
魔獣暴走を人為的に引き起こし、王女を暗殺する。あるいは、防衛失敗の責任を現地の領主や、我々魔術師団に押し付けるつもりか。どちらにせよ、宰相派にとって都合の良いシナリオだ。セリア王女は、国王の寵愛を一身に受ける聡明な方だ。彼女を失えば、王室側の勢力は大きく削がれる。宰相グスタフの狙いはそこにあるのだろう。
だが、逆に言えば、ここでセリア王女を救出し、彼女の絶対的な信頼を得ることができれば、宮廷内での私の派閥は強固なものになる。
「視察団はいつ出発した?」
「今朝だ。今頃はもう、罠のど真ん中だろうな」
私は立ち上がった。
「ノア、精鋭部隊の出撃準備を。表向きは辺境の結界点検とする」
「は、はい! すぐに手配します!」
ノアが足早に部屋を出ていく。
「カイ、君は先行して現地の状況を探れ。証拠となる痕跡も残さず回収するんだ。特に、商人が持ち込んだという『魔獣寄せの香』の燃えカスや、発注記録の類があれば必ず押さえろ。それが宰相派を追い詰める決定的な証拠になる」
「了解だ。派手にやろうぜ」
「いや、隠密に行動しろ。敵に悟られては意味がない。我々が証拠を握ったと知られれば、奴らは必ず尻尾切りに走る」
「分かってるよ、団長。俺の技術を信じな」
カイはニヤリと笑うと、再び窓から闇の中へと消えていった。
私は執務机の上に置かれた、魔術師団長の外套を手に取った。
袖を通し、襟元を正す。カイという強力な裏の目を手に入れた今、私の手札は前世とは比べ物にならないほど揃いつつある。
セリア王女の視察団が向かった辺境の森までは、馬を飛ばしても半日はかかる。だが、魔術師団の空間跳躍陣を用いれば先回りが可能だ。
宰相派が仕掛けた罠のど真ん中へ、私は自ら乗り込む。奴らの思い描く筋書きを根底から覆し、王女の命と決定的な証拠の両方を手に入れるために。




