第29話
セリア王女の私室を辞した私は、深夜の静まり返った王宮の回廊を一人歩いていた。
壁に掛けられた魔導灯が、磨き抜かれた大理石の床に柔らかな琥珀色の影を落としている。かつて足を踏み入れるたびに感じていた冷え冷えとした空気は、どこにもなかった。歩を進めるたびに、規則正しい靴音が静寂の中に溶けていく。
自室へと戻り、外套を脱ぎ捨ててテラスへ通じるガラス扉を開けた。
夜風が頬を撫でる。生ぬるい風ではない。王都を囲む山脈から吹き下ろす、澄み切った清冽な風だ。
見上げた夜空には、無数の星々が瞬いていた。雲ひとつなく、どこまでも深い群青色が広がっている。
かつて、私の視界を塗りつぶしていた不気味な天候の記憶――あの暗雲と、大地を染めた禍々しい魔力汚染の気配は、もはやこの国の空のどこにも残っていなかった。あれはグスタフが裏で繰り返していた禁忌魔術実験の残滓に過ぎなかったのだと、今ならはっきりと分かる。
胸に手を当ててみる。乱れのない、規則正しい鼓動が刻まれていた。
あの日、すべての始まりとなった王室会議の光景が脳裏をよぎる。
国を牛耳っていた宰相派の面々が一堂に会し、私を断罪しようと張り巡らせていた包囲網。だが、私は集め抜いた真実をその場に叩きつけた。偽造された帳簿、懐中時計の奥に隠されていた極小の指令符、そして毒物に触れて色を変えた香炉の灰――積み上げられた動かぬ物的証拠の前に、強大を誇った権力者たちは言い逃れを失い、完全に崩れ去った。
暴力ではなく、法と論理による完全な決着。彼らが誇った権勢は、自らが犯した不正の重みによって自壊したのだ。
「……終わったのだな」
小さく呟いた声は、夜の風に溶けて消えた。
三年という歳月をかけて張り巡らせた策は、ついに破滅の筋書きを完全に塗り替えた。処刑台の冷たい感触も、濡れ衣を着せられた屈辱も、すべては過去の彼方へと押し流されたのだ。
控えめなノックの音が、室内に響いた。
「レオン様。夜分に失礼いたします」
扉の外から聞こえたのは、カイの抑制された声だった。
「入ってくれ」
私が応じると、扉が音もなく開き、漆黒の装束に身を包んだカイが姿を現した。その手には、王室の封蝋が施された豪奢な革張りの筒が握られている。
「王宮の使者より、至急でお渡しするよう仰せつかりました。国王陛下からの親書です」
カイは恭しく一礼し、筒を机の上に置いた。普段は感情を表に出さない彼の双眸に、確かな安堵と微かな誇らしさが宿っている。
「ご苦労だった、カイ。座るといい」
「いえ、私はここで。……内容は、既に聞き及んでおります」
私は親書の封蝋を指先で割り、上質な羊皮紙を机上に広げた。
そこには、病床から回復された国王陛下の直筆による、力強い筆致が並んでいた。
第一に、反逆罪に問われた元宰相グスタフおよびその一派に対する、法の定めに従った厳正なる処刑の確定。
第二に、国家転覆の危機を未然に防ぎ、王室と民を救った功績に対する、筆頭公爵位の授与。
そして第三に、空席となった王国宰相の座への、正式な任命。
一文字ずつ視線を走らせる。そこには王家の紋章が誇らしげに刻印され、国家の最高決定であることが示されていた。
公爵位、そして宰相。
軍事の要である魔術師団長としての権限に加え、内政の頂点に立つ最高権力者としての立場が、名実ともに私の手に委ねられたのだ。
かつて無力なまま命を奪われかけた男が、今やこの国の頂に立ち、法と秩序を司る立場となった。
「……これで、名実ともに王国の舵を取ることになりますね、閣下」
カイが静かに、だが重みのある声音で言った。
「ああ。だが、ここからが本当の仕事だ。腐敗した貴族派の利権を解体し、地方の民にまで魔術の恩恵を行き渡らせる。前体制が残した歪みを正すには、気の遠くなるような実務が待っている」
私は羊皮紙を丁寧に巻き直し、革筒へと戻した。指先に触れる冷たい革の感触が、これから背負う責任の重さを伝えてくる。
「我々暗部も、新体制の影として全力を尽くします。ノアも先ほどまで、文官機構の不正防止マニュアルの最終確認に没頭しておりました。『これで二度と書類の改ざんなど起きない』と、胸を張っていましたよ」
「彼らしいな。明日からは監査部門の長として、存分に腕を振るってもらう」
微かな笑みが私の唇をつく。
私一人では、決してここまで辿り着けなかった。情報を集め続けたカイ、膨大な記録を照合し続けたノア、毅然とした態度で王室を支えたセリア王女。信頼に足る仲間たちがいたからこそ、完璧な証拠を積み上げることができたのだ。
「カイ、グラスを持ってきてくれ」
「かしこまりました」
カイが手際よく棚から二つの硝子杯を取り出し、琥珀色の蒸留酒を注ぐ。
受け取ったグラスを掲げ、私は再びテラスへと歩み出た。王都の彼方、東の地平線がわずかに白み始めている。夜の闇が引いていき、新しい一日が始まろうとしていた。
かつて私が首を落とされるはずだった、運命の期日。
その日は今、恐怖や絶望の日ではなく、新たな国家の夜明けを祝う輝かしい祝杯の日へと姿を変えた。
「乾杯しよう。我々が守り抜いた、この国の未来に」
「乾杯。……新宰相閣下」
硝子を軽く打ち合わせ、グラスを傾ける。強い蒸留酒が喉を焼き、体の芯に確かな熱を広げた。
遠くの街並みに、ぽつりぽつりと朝の光が灯り始めていた。パンを焼く煙が立ち上り、朝市を準備する人々の微かな気配が、風に乗って届いてくる。誰もが陰謀に怯えることなく、自らの日常を営むことができる平穏。
それを守り続けることこそが、最高権力者となった私に課せられた責務だ。
感情や権勢に溺れることなく、法と真実を盾にして、二度と不条理な悲劇を起こさせはしない。
白みゆく空を見つめながら、私は胸の内に宿る静かな決意を確かめていた。
朝の光が王宮の尖塔を照らし出し、黄金色の輝きが大地へと広がっていく。その光を全身に受け止めながら、私は新時代の幕開けを静かに見据えていた。




