第28話
王宮の東翼に位置する一角は、かつての騒乱が嘘のように静まり返っていた。
磨き抜かれた大理石の回廊を歩く私の足音が、規則正しいリズムを刻んで壁に反響する。擦れ違う近衛兵や文官たちは、私の姿を認めると即座に足を止め、深々と頭を垂れた。その敬意に満ちた視線を受け止めながら、私は短く頷きを返して進む。
あの日、王室会議の壇上で突きつけた幾重もの証拠文書と、裏付けられた不正の記録。逃げ場を完全に塞がれたグスタフが衛兵に引きずり出されてから、王宮の空気は劇的に変わった。
「――レオン閣下」
静かな呼び声に視線を向けると、私室の重厚な扉の前に、直立不動の姿勢を取る女性の姿があった。
マリアンヌだ。乱れのない侍女服に身を包んだ彼女は、感情を表に出さないいつもの怜悧な表情のまま、私の前まで静かに歩み寄ってきた。
「案内をご苦労。殿下はお待ちかな」
「はい。閣下の到着を心待ちにしておられます」
マリアンヌは短く答えると、すっと背筋を伸ばし、深く頭を下げた。それは形式的な臣下の礼ではなく、底知れぬ敬意が込められた所作だった。
「……閣下。王家を、そしてセリア様を救ってくださったこと、この身に代えて感謝申し上げます。あなたがいなければ、この平穏は決して訪れませんでした」
「礼には及ばない。私は自らの成すべき務めを果たしたに過ぎないよ」
私が淡然と返すと、マリアンヌはわずかに口元を緩め、扉の取っ手に手を掛けた。
「どうぞ、中へ。お二人きりでお話しできるよう、周囲の人払いをしてございます」
音もなく開かれた扉の先には、柔らかな陽光が差し込む広々とした部屋が広がっていた。
豪奢でありながら品格を失わない調度品が整然と並び、部屋の中央に置かれた円卓のそばで、金糸のような髪をなびかせた少女がこちらを振り返った。
セリア王女だった。
「来てくれたのですね、レオン」
碧眼を細めて微笑む彼女は、いつもの威厳ある王族の鎧を少しだけ解いたように見えた。
マリアンヌが一礼して静かに扉を閉めると、室内には穏やかな静寂が満ちる。卓上の銀器には淹れたての紅茶が用意されており、微かに立ち上る湯気が心地よい香りを運んでいた。
「お呼び立ていただき光栄です、セリア殿下」
「もう二人きりなのですから、その堅苦しい挨拶はやめませんか。新しき宰相にして公爵閣下」
セリアは悪戯っぽく眉を上げ、向かいの椅子を手のひらで示した。
促されるままに腰を下ろすと、彼女は自ら陶器のカップを私の前に置いた。かつて陰謀渦巻く宮廷で、毒殺の危機に怯えながら張り詰めた日々を過ごしていた頃の彼女とは違い、その手元には一切の迷いがない。
「国王陛下の容態も順調に回復に向かわれていると聞きました。すべてが、望ましい方向へ進んでいます」
私が口火を切ると、セリアはカップを両手で包み込みながら、深く息を吐いた。
「ええ。父上も意識を完全に取り戻され、グスタフの処断とあなたへの新体制の委任を正式に承認されました。……本当に、長い戦いでしたね」
「ええ。ですが、盤上の駒はすべて揃っていましたから」
毒薬の調合記録、懐中時計に仕込まれた密命、そして暴走薬の発注帳簿。積み上げた客観的事実の前に、かつて権勢を誇った宰相派は弁明の余地すらなく崩壊した。
感情的な訴えではなく、冷徹なまでの証拠の積み重ねこそが、確実な勝利を手繰り寄せたのだ。
「あなたはいつもそうやって、事も無げに言いますね」
セリアは微かに苦笑し、澄んだ瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「飾り物の王女として蔑まれ、誰を信じるべきかも分からず孤立していた私に、手を差し伸べてくれたのはあなたでした。あなたが魔獣の牙から私を救い、背中を支えてくれたからこそ、私は王族としての誇りを取り戻すことができたのです」
彼女の声には、確かな熱が宿っていた。
「国を守ってくれただけではない。私という人間を救ってくれた。その恩義は、どれほど言葉を重ねても返しきれるものではありません」
「買い被りです。私は自分の保身と、破滅の回避のために動いていただけに過ぎません」
私が眼鏡の縁に指を添えて視線を伏せると、セリアは小さく首を横に振った。
「理由が何であれ、結果としてあなたがもたらした平穏は本物です。それに……保身のためだけに動く人が、あれほど命懸けで他者のために策を巡らせるはずがありません」
真っ直ぐな言葉が、胸の奥に静かに染み渡る。
かつて、孤独のなかで命を奪われた日の記憶が脳裏をよぎる。誰にも信じてもらえず、不当な汚名を着せられ、ただ理不尽に散っていったあの過去。
だが、今は違う。
目の前には、私を全幅の信頼をもって見つめる主君がいる。扉の外には背中を預けられる仲間たちがおり、この手には正当な手続きによって手に入れた確固たる権力がある。
「……これからの国作りについて、少しお話ししてもよろしいでしょうか」
私が話題を変えると、セリアの瞳が理知的な輝きを帯びた。
「ええ、もちろん。あなたが描く未来を、ぜひ聞かせてください」
「旧態依然とした貴族の利権構造は、今回の粛清で大きく解体されました。これからは、魔術を一部の特権階級の武器として独占するのではなく、民の暮らしを豊かにするための技術として地方へ還元していくべきです」
卓上に広げた白紙に、私はペンで簡潔な構想を書き留めていく。
「バルド殿をはじめとする地方領主たちとの連携を強化し、流通網の整備と魔術インフラの構築を並行して進めます。文官機構の監査ログを厳密化し、二度と不正な資金移動や証拠の隠蔽が起きない法制度を整えねばなりません」
「素晴らしいわ。中央の権力闘争に明け暮れ、民を置き去りにしてきたこれまでの王政とは、決定的に異なる道ですね」
セリアは私の提案に熱心に耳を傾け、自らの意見を的確に補足していく。
彼女の聡明さは、ただの飾りではない。国を憂い、より良い明日を築こうとする強い意志が、その言葉の一つひとつに宿っていた。
議論が一段落した頃、窓から差し込む光が穏やかな茜色へと変わり始めていた。
「ふふ、熱中しすぎてしまいましたね」
セリアが小さく笑い声を漏らす。
「申し訳ありません。少々、熱弁が過ぎました」
「いいえ。こんなにも胸躍る時間は、生まれて初めてです。あなたとなら、本当にこの国を変えられる……そう確信できましたから」
立ち上がった彼女は、窓辺へと歩み寄った。
夕暮れの光に照らされた王都の街並みが、眼下に穏やかに広がっている。煙突から立ち上る生活の煙、家路につく人々の賑わい。かつて陰謀によって脅かされかけていた日常が、そこには確かに息づいていた。
三年後の処刑日。
かつて私が命を落とすはずだったその日は、今や最高権力者として新たな国家の舵を取る、輝かしい祝杯の日へと上書きされたのだ。
胸の奥底に沈んでいた冷たい澱のようなものが、陽光に照らされて綺麗に消え去っていくような感覚があった。
「レオン」
セリアが振り返り、気品に満ちた柔らかな微笑みを私に向ける。
「これからも、私の隣でこの国を導いてくれますね?」
「――御意のままに。王女殿下」
私は深く頭を垂れ、確かな覚悟を胸に誓った。
集めた証拠と築き上げた信頼の上に、揺るぎない新時代が幕を開けようとしていた。




