第27話
夜が明け、新しく割り当てられた宰相執務室には、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
豪奢な黒檀の執務机の上には、すでに分類された書類の山が整然と並んでいる。かつてこの部屋の主であったグスタフが残した負の遺産を整理し、新たな国家体制の骨組みを構築する作業は、想像していた通り膨大だった。
だが、その重みに苦痛は微塵もない。運命の歯車を自らの手でねじ伏せ、勝ち取った執務机の感触を確かめるように、私は羽ペンを走らせた。
「団長……いえ、宰相閣下。昨夜押収したグスタフ派閥の裏帳簿と、押収物録の最終照合が完了しました」
ノアがおずおずと、しかし誇らしげな笑みを浮かべて分厚い革張りのファイルを机に置いた。目の隈は濃いが、丸眼鏡の奥にある瞳は澄み切っている。
「ご苦労だった、ノア。王室会議の直前から今まで、ほとんど不眠不休だろう。君の迅速かつ完璧な書類整理がなければ、昨日の審問で奴らの退路を断つことはできなかった。心から感謝している」
「そ、そんな! 僕はただ、団長……閣下が集めてくださった証拠を、決められた通りに整頓しただけですから! 魔術師団の皆も、汚名をそそいでくださった閣下のために働けることを、何より誇りに思っています」
ノアは慌てて両手を振ったが、その表情には確固たる充実感が滲んでいた。かつては自信なさげに縮こまっていた補佐官が、今や王国中枢の記録と監査を一手に担う頼もしい官吏へと成長している。
「これからは魔術師団の再編だけでなく、宮廷全体の文官機構の立て直しにも君の力を借りたい。頼りにしているよ」
「はいっ! 身を粉にして務めさせていただきます!」
ノアが深々と一礼したところで、部屋の隅の影から、音もなく灰色の外套を羽織った青年が姿を現した。
「相変わらず真面目だねえ、ノアは。少しは肩の力を抜きなよ。俺たちの新しい宰相様は、部下の働きを絶対に買い叩かないお人好し……じゃなくて、公正な御方なんだからさ」
「カ、カイさん! また影渡りの魔術で勝手に入ってきて……ちゃんと扉からノックしてください!」
カイは飄々と肩をすくめると、懐から小さな革袋を取り出し、私の机の上に放り投げた。中から乾いた金属音が響く。
「裏回廊から逃亡を図った残党どもの私財と、連中が持ち出そうとしていた暗号通信符の束だ。逃げ道はすべて塞いでおいたから、鼠一匹通しちゃいないよ」
「完璧な仕事だな、カイ。危険な役回りを引き受けてくれて助かった」
私が労いの言葉をかけると、カイは頭の後ろで腕を組み、気のない風を装って視線を天井へ向けた。だが、口元には隠しきれない満足げな笑みが浮かんでいる。
「別に。俺は頼まれた仕事をこなしただけだ。……まあ、日陰者の魔術をここまで有効に使ってくれる雇い主なんて、あんた以外にいないからな。正当に評価してくれるなら、いくらでも付き合うさ」
かつて正統派の魔術師たちから蔑まれていた男が、今や王国最強の情報網の長として、私の背中を支えてくれている。彼に居場所を与えたことが、巡り巡って私自身の命を救う最大の布石となったのだ。
「そういえば、あの暗殺者はどうした? 姿が見えないようだが」
私が尋ねると、カイは思い出したように指を鳴らし、一枚の羊皮紙を取り出した。
「ああ、ジンの野郎か。あいつなら、昨夜の残党狩りが終わった直後に伝言を残して消えたよ。『化け物じみた宰相様の完全勝利を特等席で見せてもらった。これ以上関わると骨までしゃぶられそうだから、契約金を持って退散する。依頼があればいつでも裏街の定宿へ』……だそうだ」
手紙には、いかにもジンらしい軽妙な筆跡で、報酬受領のサインと簡潔な挨拶が記されていた。
「引き際の美学、というわけか。深入りせず、金と契約の範囲内だけで完璧に動く。実に彼らしいプロ意識だな」
「まったく、現金な奴ですよ。まあ、腕だけは確かだったから文句は言えねえけどな」
カイが呆れたように笑う。敵として現れた暗殺者すらも手駒として御し、最後まで破綻なく使いこなすことができた。これもまた、徹底した利害の計算と証拠による縛りがあったからこそだ。
コンコン、と。
重厚な扉を力強く叩く音が部屋に響いた。
「入れ」
促すと、扉が開かれ、大柄な体躯を揺らして一人の歴戦の騎士が入ってきた。地方領主連合の筆頭であり、剛毅な武人として知られるバルドである。
「失礼するぞ、レオン卿……いや、新宰相閣下とお呼びすべきかな」
バルドは無精髭を蓄えた顔に快活な笑みを浮かべ、大股で歩み寄ってきた。
「形式的な敬称は不要ですよ、バルド殿。王室会議での閣下の後押し、そして昨夜の残党捕縛での迅速な采配、見事というほかありませんでした」
「ハッ、礼を言うのはこちらの方だ。長年、中央の肥え太った貴族どもに吸い上げられ、理不尽な重税に喘いできた地方の領主たちにとって、昨日の断罪劇は胸のすく思いだった。あんたが暴いてくれた帳簿のおかげで、我が領民たちもようやく報われる」
バルドは太い腕を組み、真剣な眼差しを私に向けた。
「地方貴族一同、あんたへの全面的な支持を改めて誓おう。中央の魔術師団と地方の武力が手を取り合えば、国境の警備も治安維持も以前とは比べ物にならんほど盤石になる。俺たちは、机上の空論ではなく実利と誠意を示してくれる指導者を求めていたんだ」
「心強い言葉です。魔術を民の暮らしと地方の発展のために役立てる。それこそが、私が目指すこれからの国の形です」
私が答えると、バルドは満足そうに何度も頷き、力強い手で私の肩を叩いた。
文官の要であるノア。影の盾であり情報網の核となるカイ。そして地方の兵力と人心を束ねるバルド。かつて孤立無援のまま断頭台に散った私には、想像もできなかったほど強固な陣営が、今ここに完成していた。
「……さて、皆様。新体制の評議会まであまり時間がありません。セリア王女殿下も、間もなくこちらへ合流される手はずです」
ノアが懐中時計を確認しながら告げた。
セリア王女。彼女の知性と王族としての正統性があったからこそ、私たちはグスタフの不正を公の場で完全に裁くことができた。彼女との信頼関係は、これからの政権運営において最大の軸となるだろう。
「分かった。準備を進めよう」
私が立ち上がると、カイが影に溶け込むように身を翻し、バルドが不敵な笑みを浮かべて扉へ向かい、ノアが誇らしげに書類を抱えて歩き出した。
誰一人として、怯えや迷いを抱く者はいない。確固たる証拠と知略によって築き上げられた信頼が、この部屋を満たしている。
運命の日は塗り替えられ、新しい時代が動き出していた。




