第2話
ゲイツの足音が廊下の奥へ消えるのを聞きながら、私は机上の追加発注書を手に取った。ダリウス商会への不自然な発注記録だ。
前世の私は、この一枚の羊皮紙によって破滅への道を歩み始めた。
部下を信じ、政治の泥仕合から目を背けた結果が、あの断頭台だ。季節外れの赤い雨の冷たさと、首筋に当てられた刃の感触が、今も皮膚の裏側にこびりついている。
だが、今回は違う。最初の罠は粉砕した。
私は銀縁眼鏡の位置を直し、深く息を吐き出した。
ゲイツの不自然な経理処理を指摘したことで、奴は確実に焦りを抱いたはずだ。裏で糸を引く宰相グスタフに、計画の修正を求める暗号文でも送っている頃だろう。
しかし、罠を躱すだけでは意味がない。私が生き残り、二度とあの絶望を味わわないためには、奴らを完全に失脚させる必要がある。
感情ではなく、確実な証拠。
言い逃れの一切できない完璧な刃を研ぎ澄まし、今度は私が奴らを断頭台へ送るのだ。
そのためには、手足となる優秀な人材が要る。
私は椅子から立ち上がり、迷うことなく執務室を後にした。
向かった先は、王城の地下深くにある魔術師団の資料室だ。
カビと古い羊皮紙の匂いが立ち込める薄暗い空間には、過去数十年分の記録が乱雑に積み上げられている。
その最も奥まった埃っぽい一角に、目当ての人物はいた。
「ひっ……!」
私の足音に気づき、丸眼鏡をかけた小柄な青年が肩を跳ねさせた。
彼の名前はノア。魔術師団の補佐官だ。
自分の背丈ほどもある書類の山に埋もれるようにして座っていた彼は、私の姿を認めるなり、慌てて立ち上がろうとして書類の束を崩してしまった。
「だ、団長……! も、申し訳ありません、すぐに片付けますから……!」
ノアは床に這いつくばり、震える手で散らばった羊皮紙を拾い集めようとする。
そのオドオドとした態度は、彼が日常的に受けている扱いの過酷さを物語っていた。
前世の記憶が正しければ、彼は副団長であるゲイツから執拗な嫌がらせを受けていたはずだ。才能がない、役立たずだと罵られ、誰もやりたがらない地下の資料整理を一人で押し付けられている。
「構わない。そのままにしておけ」
私が静かに告げると、ノアはビクッと体を強張らせ、怯えた目で私を見上げた。
「ですが、ゲイツ副団長に……また、怒鳴られてしまいます。僕の仕事が遅いから、団長にご迷惑をおかけしたと……」
消え入りそうな声で呟くノアの指先から、微かな魔力の光が漏れていた。
私はその光を見逃さなかった。
ノアの魔力は、床に散らばった数十枚の書類をふわりと浮かせ、瞬時に日付と項目ごとに分類して空中の棚へと収めていく。戦闘用の派手な魔術ではない。だが、これほど複数の対象を同時に、かつ精密に制御する魔力操作は、並の魔術師にできる芸当ではない。
「見事な魔力操作だ。これほどの情報処理能力を持ちながら、なぜこんな地下で埃を被っている?」
私の言葉に、ノアは目を丸くした。
「え……? あ、あの、僕の魔術なんて、攻撃にも防御にも使えない、ただの雑用で……ゲイツ副団長も、魔術師の恥晒しだと……」
「政治の泥仕合にしか興味のない無能の評価など、聞く価値もない」
私は冷たく言い放ち、ノアの目の前まで歩み寄った。
彼は息を呑み、後ずさりしようとするが、背中が本棚にぶつかって止まる。
「ノア。君のその緻密な魔力と実務能力は、今の魔術師団に不可欠だ。今日から私の直属になれ」
「……え?」
ノアの丸眼鏡の奥で、戸惑いと驚きが交錯する。
「直属、ですか? 僕が……団長の?」
「そうだ。君には、私と共にやってもらいたい仕事がある」
私は声を潜め、彼の目を見据えた。
「ゲイツ副団長が過去三年間に関わった、すべての経理記録と物資の移動履歴を洗い直してほしい。表の帳簿だけではない。裏に隠された不正の痕跡を、君の能力で炙り出すんだ」
ノアの顔から血の気が引いた。それが何を意味するのか、聡明な彼ならすぐに理解したはずだ。上官の不正を暴くということは、一歩間違えれば自分も破滅する危険な橋を渡るということ。
「だ、団長……それは……」
「怖いか?」
私の問いに、ノアは唇を噛み締めた。
彼はしばらく俯いていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。その瞳には、先程までの怯えとは違う、微かな熱が宿っていた。
「……僕を、評価してくださったのは、団長が初めてです」
たどたどしい敬語の中に、確かな意志が混じる。
「やります。あなたのご期待に、応えてみせます」
「頼りにしている」
私は短く応え、彼に背を向けた。
これで、証拠を集めるための最強の目が手に入った。
◆ーーーー◆
「くそっ! なんだってんだ、あの態度は!」
副団長室に戻ったゲイツは、苛立ちに任せて机を蹴り上げた。
鈍い音が部屋に響くが、彼の腹の底で渦巻く焦燥感は消えない。
レオンの奴、まるで最初から俺の不正を知っているかのような口ぶりだった。
これまでは適当におだてておけば、書類の中身など見ずに署名していたというのに。
ゲイツは懐から古びた魔術懐中時計を取り出した。
針の動かないガラクタにしか見えないそれは、宰相グスタフからの密命を受け取るための特別な魔道具だ。
先程送った暗号文の返事は、まだない。
「このままじゃマズい……。計画が遅れれば、あの方に何をされるか……」
ゲイツは神経質に爪を噛んだ。
自分が生き残るためには、常に勝馬に乗り続けなければならない。レオンのようなお人好しについていっても未来はないと見切りをつけ、宰相派に寝返ったのだ。
ここで失敗すれば、自分の居場所はどこにもなくなる。
「おい! 誰かある!」
ゲイツが怒鳴ると、扉の向こうから若い魔術師が慌てて駆け込んできた。
「は、はい! 副団長!」
「ダリウス商会への発注記録を今すぐ持ってこい! それから、第三倉庫の在庫目録もだ! 数字が合わない部分は、適当な理由をつけて今すぐ書き換えろ!」
「えっ……しかし、それでは監査が入った時に……」
「うるさい! 俺の命令が聞けねえのか!」
ゲイツは部下の胸ぐらを掴み、唾を飛ばして怒鳴りつけた。
強引にでも帳尻を合わせ、レオンを陥れるための新たな偽造書類をでっち上げるしかない。
自分が絶対の安全圏から引きずり降ろされることなど、あってはならないのだ。
◆ーーーー◆
翌朝。
執務室の窓から差し込む朝日が、机の上に積み上げられた書類の山を照らしていた。
「団長……」
ノアの声は掠れていた。
目の下には濃い隈ができ、丸眼鏡はずり落ちかけている。徹夜で作業に没頭していたことは明らかだった。
だが、彼が抱えている分厚い帳簿を持つ手は、微かに震えていた。
「見つけたか」
私が尋ねると、ノアは無言で帳簿を開き、ある項目を指差した。
「ゲイツ副団長が管理している、特別任務用の予算枠です。過去三年間、毎月決まった額が引き出されています」
私はその数字を目で追った。決して少なくない額だ。
「名目は、辺境警備部隊への魔道具支給費……となっていますが、おかしいんです」
ノアは別の羊皮紙を重ね合わせ、魔力を流し込んだ。
文字が青白く光り、二つの書類の不自然な点が浮かび上がる。
「魔術師団の編成記録と照らし合わせました。この予算が送金されている『第七辺境警備部隊』という部隊は……現在の魔術師団には、存在しません」
私は目を細めた。
存在しない幽霊部隊への定期的な送金。
前世では気づくことすらできなかった、巨大な不正の輪郭。
「横領された莫大な資金は、どこへ消えた……?」
私の呟きに、ノアは青ざめた顔で首を横に振った。
窓の外では、王都の空に再び分厚い雲が広がり始めていた。
真実の糸口を掴んだ代償として、底知れぬ闇が口を開けて待っている。
そんな不穏な予感が、冷たい風と共に執務室を吹き抜けた。




