第1話
季節外れの赤い雨が降っていた。
鉄錆のような匂いが鼻腔を突く。ぬかるんだ石畳の上を歩かされながら、私はぼんやりと空を見上げた。
不気味なほどに赤い雨粒が、私の顔を打ち据える。
周囲を取り囲む群衆の罵声が、遠い波の音のように響いていた。
「裏切り者!」
「魔術師団の恥晒しめ!」
石が投げつけられ、私の頬を掠めて血が滲む。だが、痛みは感じなかった。
ただ、胃の奥が鉛のように重く、冷たかった。
王国の魔術師団長として、国のために尽くしてきたはずだった。魔術の探求こそが国を豊かにし、民を守る盾になると信じて疑わなかった。
だが、その真面目さこそが命取りだったのだ。
断頭台の階段を上る。
処刑人の無機質な手が、私の肩を押さえつけた。荒い木肌の台に首を固定される。
視界の端、貴賓席に座る男の姿が見えた。
宰相グスタフ。
彼は冷酷な笑みを浮かべ、まるで虫けらでも見るかのように私を見下ろしている。
反逆の濡れ衣。
私が王室の転覆を企て、軍事物資を横流ししていたというでっち上げの罪。
すべては、魔術師団の権力を疎んだ宰相派が仕組んだ罠だった。
彼らは巧妙に証拠を偽造し、私を陥れた。私が政治の泥仕合に無関心であることをいいことに、周囲を固め、逃げ道を塞ぎ、最後にはこの断頭台へと私を引きずり出したのだ。
「……私は、何もしていない」
掠れた声が口から漏れた。だが、誰の耳にも届かない。
群衆の熱狂は最高潮に達し、私の無実の訴えなど歓声にかき消されていく。
処刑人が無造作に私の髪を掴み、首の角度を微調整した。
ギリギリと、刃を引き上げる滑車の音が鳴る。
怒りが、絶望が、後悔が、どす黒い炎となって胸の中で渦巻いた。
なぜ、もっと早く気づけなかったのか。
なぜ、真面目に魔術を極めるだけで生き残れるなどと、お人好しなことを信じていたのか。
もし、もう一度やり直せるなら。
次こそは、奴らを。私を陥れた全ての者を、完璧な証拠でこの断頭台に引きずり出してやる。
「執行!」
無慈悲な号令とともに、冷たい鋼の刃が落ちてきた。
首筋に鋭い痛みが走った瞬間、私の意識は暗闇へと沈んだ。
「……っ!」
肺に空気が流れ込み、私は大きくむせた。
首を押さえ、荒い息を吐きながら周囲を見回す。
冷たい刃の感触も、鉄錆のような赤い雨の匂いもない。
そこにあったのは、見慣れた重厚なマホガニーの机と、壁一面を埋め尽くす魔道書の棚だった。
魔術師団長室。
私が長年、執務と研究を行ってきた場所だ。
「どういう、ことだ……?」
震える手で自身の首筋に触れる。傷一つない。
姿見には囚人服ではなく魔術師団長の制服を纏った己が映り、窓の外には赤い雨など降っていない、青く澄み渡る王都の空が広がっていた。
視線を机の上に戻す。
卓上カレンダーの日付を見て、私は息を呑んだ。
私が処刑された日から、ちょうど三年も前の日付を示している。
死に戻った。
魔術の理論では到底説明のつかない現象だが、それ以外に考えられなかった。
私は三年前の、まだ何も失っていない過去に戻ってきたのだ。
ゆっくりと深呼吸をし、高鳴る心臓を落ち着かせる。
理不尽な処刑への怒りは消えていない。むしろ、冷たく青い炎となって腹の底で静かに燃え続けている。
前世の私は、政治に無関心で、ただ魔術の探求に没頭するだけの無能だった。
だが、もう同じ轍は踏まない。
感情ではなく、確実な証拠に基づいて行動する。敵が仕掛けてくる罠を先回りして潰し、逆に奴らを追い詰めるための完璧な証拠を集めるのだ。
机の上に視線を落とす。
そこには、数枚の書類が無造作に置かれていた。
一番上にある書類を手に取り、目を通す。
瞬間、私の指先が微かに震えた。
『軍事物資および魔道具の追加発注書』
見覚えがあった。いや、忘れるはずがない。
これこそが、前世で私を破滅に追いやった決定打。私が反逆を企て、物資を横流ししたという「証拠」として捏造された書類だ。
前世の私は、この書類の中身をろくに確認もせず、部下を信用して署名してしまった。
それが、すべての始まりだった。
コンコン、と。
控えめなノックの音が、静寂を破った。
「団長、よろしいでしょうか」
扉の向こうから聞こえた声に、私は冷たい笑みを浮かべた。
来たか。
「入れ」
扉が開き、派手な魔術師のローブを着崩した男が入ってきた。
副団長、ゲイツ。
神経質そうに目を泳がせ、常に周囲の顔色を窺う小悪党。前世で私を裏切り、宰相派に寝返ってこの偽造書類を持ってきた張本人だ。
「お忙しいところ申し訳ありません、団長」
ゲイツは揉み手でもしそうな勢いで近づいてくると、愛想笑いを浮かべた。
「例の追加発注の件ですが、急ぎで処理しなければならないものがございまして。こちらの書類に、ご署名をいただきたいのです」
彼はそう言って、私が手に持っている発注書を指差した。
前世の私は、ここで「君に任せる」と言って、何も見ずにペンを走らせた。
だが、今の私は違う。
私は書類を机に置き、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
銀縁眼鏡の位置を直し、ゲイツを真っ直ぐに見据える。
「ゲイツ副団長。この発注書だが、少しおかしな点があるな」
「え……? おかしな点、ですか?」
ゲイツの顔から、一瞬だけ愛想笑いが消えた。
「ああ。まず、この発注先だ。『ダリウス商会』となっているが、我が魔術師団がこの商会と取引をした記録は過去に一度もない。なぜ、急に新規の業者を使おうとした?」
「そ、それは……従来の業者が手一杯だと言ってきたものでして。急遽、条件の良いところを探した結果です」
ゲイツは早口で弁明する。その目が、泳いでいた。
「なるほど。では、この発注数の異常さはどう説明する? 平時の訓練で消費する魔力結晶の量の、およそ五倍だ。これほどの量を一度に発注し、どこに保管するつもりだ?」
「あ、いや、それは……来月の合同演習に向けて、少し多めに確保しておこうかと……」
「合同演習の予算はすでに承認済みだ。この追加発注は、明らかに不自然な経理処理と言わざるを得ない」
私は淡々と、しかし冷徹な声で事実を突きつけた。
ゲイツの額に、じわりと汗が滲む。
「だ、団長! 俺を疑うんですか!?」
痛いところを突かれたゲイツは、顔を真っ赤にして声を荒げた。実力不足を指摘されたときのように、激昂して誤魔化そうとする彼の悪い癖だ。
「俺は団長のために、少しでも事務処理の負担を減らそうと、寝る間も惜しんで働いているんですよ! それを、こんな重箱の隅をつつくような真似をして……!」
「感情論は聞いていない」
私は冷たく言い放ち、ゲイツの言葉を遮った。
「私は事実を確認しているだけだ。この不透明な発注書に、魔術師団長として署名することはできない。やり直したまえ」
「っ……!」
ゲイツは唇を噛み締め、私を睨みつけた。
その目には、明らかな敵意と焦りが浮かんでいる。
「……分かりました。出直してきます」
彼は書類を乱暴にひったくると、足音を荒立てて執務室を出て行った。
扉が閉まる音を聞きながら、私は静かに息を吐く。
まずは第一歩だ。
破滅の引き金となる署名は回避した。だが、これで終わったわけではない。
ゲイツは必ず次の手を打ってくる。そしてその後ろには、宰相グスタフという巨大な黒幕が控えている。
奴らを完全に失脚させるためには、確たる証拠が必要だ。
私が生き残るためなら、どんな手でも使う。
◆ーーーー◆
「クソッ! クソッ! あの堅物め!」
自室に戻ったゲイツは、手にした発注書を床に叩きつけた。
苛立ちに任せて机を蹴り飛ばす。鈍い音が部屋に響いたが、彼の怒りは収まらなかった。
「なんだってんだ、今日のあいつは……!」
これまでのレオンなら、政治や事務処理には無関心で、適当に理由をつければ簡単に署名していたはずだ。
それがどうだ。まるで最初から不正を疑っているかのような、あの冷たい目。
経理の不自然さを的確に指摘され、ゲイツは背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
「このままじゃマズい……。計画が遅れれば、あの方に何をされるか……」
ゲイツは震える手で引き出しを開け、一枚の羊皮紙を取り出した。
自分が生き残るためには、常に勝馬に乗り続けなければならない。レオンのようなお人好しについていっても、未来はないのだ。
彼は羽ペンを握りしめ、暗号化された文字を書き連ねていく。
宛先は、この国の絶対的な権力者。
レオンの態度が急変したこと、そして計画の修正が必要であることを知らせなければならない。
「見ていろよ、レオン……。お前なんかに、俺の邪魔はさせない」
暗号文を書き終えたゲイツは、窓の外の薄暗い空を睨みつけた。
王都の空には、不穏な雲が立ち込め始めていた。
真の黒幕が動き出すのは、もう間もなくのことだった。




