第19話
深夜の執務室。魔石の淡い光だけが室内を照らしている。
私は卓上に置かれた水鏡の魔道具を見つめながら、静かに息を吐き出した。
三年前に死に戻ってから、私はひたすらに走り続けてきた。
かつて私を死の淵へ突き落とした偽造発注書。あの紙切れ一枚で、私の人生は理不尽に奪われた。ひたすらに魔術の探求に没頭するだけで身を守れると思い込んでいた、愚かな過去の自分。
二度と同じ轍は踏まない。
その誓いを胸に、私は未来の知識を駆使して敵の罠をことごとく粉砕してきた。
波打つ水面に映し出されているのは、王都郊外にある古びた屋敷。重要な証言者であるクラウスとその家族を保護している隠れ家だ。
画面の端で、二つの影が素早く動いているのが見えた。
「ジン、北側の死角に罠を増やせ。奴らは必ずそこから来る」
通信用の魔石から、カイの低い声が響く。
彼は先日の結界補強で負った傷が完治していないはずだが、足取りに迷いはなかった。影に溶け込むような身のこなしは、隠密魔術師としての卓越した技量を示している。
「人使いが荒いねえ、相棒。追加料金をもらわないと割に合わないぜ」
ジンが軽口を叩きながらも、手際よく仕掛けを施していく。黒い外套を翻し、音もなく罠を設置する手つきは、裏社会を知り尽くしたプロフェッショナルそのものだ。
彼らを引き入れたことで、私の手足は確実に増えた。かつての私は孤独に足掻き、無力なまま断頭台へ送られた。だが今は違う。
優秀な右腕と、計算高い二重スパイ。さらには、冷遇されていた第二王女セリアという強固な政治的後ろ盾すら得ている。彼女の絶対的な信頼があるからこそ、私は宰相派の圧力に屈することなく、堂々と反撃の準備を進めることができているのだ。
あの処刑の日まで、残り半年。
宰相派は焦りを隠せなくなっている。魔獣暴走の責任転嫁も、軍事予算横領の濡れ衣も、私がすべて未然に防ぎ、逆に彼らの手駒を失脚させてきたからだ。
そして今、国王毒殺計画という最大の強硬手段すら潰されたヴィクターは、証言者であるクラウスの口を封じるために暗部部隊を差し向けてきた。
水鏡の端に、黒い影が複数現れた。
訓練された足取りで、隠れ家の敷地へ侵入してくる。
「来たぞ」
私は魔石に向かって短く告げた。
「予定通り、生け捕りにして証拠を奪え」
「了解しました、団長」
カイの声に鋭い緊張が走る。
私は指先で眼鏡のブリッジを押し上げ、水鏡の向こうで始まる攻防を静かに見守った。
暗部部隊が隠れ家の敷地に踏み込んだ瞬間、ジンの仕掛けた罠が発動した。
足元の石畳が微かに光り、目眩ましの閃光と煙が吹き上がる。
敵の足並みが乱れたその隙を、カイは見逃さなかった。
闇に溶け込んでいた彼が、音もなく忍び寄る。
カイの指先から放たれた隠密魔術が、地面に落ちた影を実体化させた。黒い触手のような影が這い進み、暗部たちの足首に絡みつく。
「な、なんだこれは!」
敵の一人が声を上げた直後、混乱する集団の只中へジンが軽やかに躍り出た。
彼の動きは、まるで舞踏のように滑らかだった。
プロの暗殺術は、命を奪うためだけでなく、無力化するためにも極めて有効だ。
手刀が首筋を打ち、柄頭が鳩尾を的確に突く。急所を外した正確な一撃が、次々と暗部たちを地に伏せさせていく。
「右から二人来るぞ、ジン」
「分かってるよ!」
私の指示とカイの援護を受けながら、ジンは背後からの凶刃を紙一重で躱し、反撃の蹴りを叩き込んだ。
味方陣営の連携は、鮮やかの一言に尽きた。
彼らは互いの死角を補い合い、敵に反撃の隙を一切与えない。
直接戦闘に出ることなく、安全な場所から盤面を支配する。これこそが、私が求めていた戦い方だった。
ものの数分で、襲撃部隊は完全に制圧された。
静寂を取り戻した庭で、ジンが気絶したリーダー格の懐を探る。
やがて、彼は一枚の羊皮紙を引き抜いた。
「あんたの読み通りだ、雇い主」
水鏡越しに、ジンが羊皮紙をひらひらと揺らした。
目元を隠す外套の奥で、彼がニヤリと笑ったのが分かる。
「ご丁寧に、襲撃の指示書を持っていたぜ。署名入りだ」
「よくやった。怪我はないか、カイ」
「問題ありません。奴らの動きは、手に取るように分かりましたから」
息を整えながら答えるカイの言葉に、私は深く頷いた。
ヴィクターの強硬手段は、これで完全に無力化された。
この国は厳格な法治国家だ。激情を排し、揺るぎない物証のみを信じる。
彼の署名が入った指示書は、王室会議で宰相派を追い詰めるための決定的な刃となる。
「二人とも、撤収の準備をしろ。夜明け前に王宮へ戻るんだ」
通信を切ると、私は深く背もたれに体を預けた。
腹の底に冷たい塊が落ちたような緊張感が、少しずつ解けていく。
小さな前進の手応え。
だが、まだ終わってはいない。敵は必ず、次の一手を打ってくるはずだ。
◆ーーーー◆
「……連絡が途絶えただと?」
執務室の重厚な机を前に、私は低く唸った。
報告に上がった部下は、青ざめた顔で震えている。
「は、はい。クラウスの隠れ家に向かった部隊からの定期報告が、一時間以上も……」
「下がれ」
短く命じると、部下は逃げるように部屋を出ていった。
扉が閉まる音を聞き届けた後、私はこめかみを押さえ、深く息を吐き出した。
またしても、だ。
魔獣暴走の件も、横領の件も、そして今回の毒殺計画も。
私が緻密に組み上げたはずの盤面が、ことごとく先回りされ、ひっくり返されている。
レオン。あの男は、一体何者なのだ。
ただの真面目な魔術師団長ではなかったのか。
まるで未来を見通しているかのように、私の策の急所を的確に突いてくる。
グスタフ様からの圧力も強まっている。
魔術師団長一人、なぜ始末できないのかと。
あの男を処刑する予定日まで残り半年というところで、我々は完全に後手に回っている。
このままでは、王室会議で逆に我々が断罪されかねない。
完璧なはずの計画が、音を立てて崩れていく。
胸の奥で、これまで感じたことのない焦燥感が渦を巻いていた。
「手段を選んでいる余裕はない、か」
私は引き出しから、白紙の公文書を取り出した。
証拠が足りないのなら、作ればいい。
あの男が他国のスパイと通じているという、決定的な偽証を。
王室会議まで、あと数日。
力技であろうと、必ずあの男を破滅させてみせる。
ペンを握る手に、暗い執念が宿っていた。




