第18話
執務室の重い扉を押し開けようとした私の手を、ノアが慌てて引き止めた。
「団長、お待ちください。正面から向かえば、宰相派の近衛兵に捕縛されるだけです。彼らは陛下のご病気を理由に、いかなる者の立ち入りも禁じています」
「分かっている。だが、一刻の猶予もない」
私は手元の鞄に視線を落とした。中にはノアが調合した解毒薬の代替品が入っている。しかし、国王の正確な症状と毒の性質が完全に一致していなければ、この薬は劇薬にもなり得る。
確証が必要だった。
私は扉から手を離し、執務室の奥に隠してある小型の通信用魔道具を起動した。青白い光が灯り、微かなノイズの後に、凛とした女性の声が響く。
『こちらマリアンヌです。団長、聞こえますか』
「ああ。状況はどうなっている」
『ご指示の通り、セリア殿下のお部屋に設置していただいた特製の香炉を確認いたしました。先ほどから、表面の銀細工が赤黒く変色し始めています』
その報告に、私は短く息を吐き出した。
王女の護衛用と称して持ち込んだあの香炉は、特定の魔力汚染を伴う毒素にのみ反応する仕掛けを施してある。赤黒い変色。それは、南方の湿地帯に生息する魔獣の毒腺から抽出される遅効性の毒を意味していた。
「間違いない。陛下に盛られているのは、南方由来の魔獣毒だ」
『殿下も大変案じておられます。近衛兵の配置は私が把握しておりますので、薬の搬入経路はこちらで確保いたします』
「助かる。マリアンヌ、殿下を頼む」
『ええ。私の命に代えても』
通信が切れ、私はノアに向き直った。
「毒の正体は南方産の魔獣毒だ。この代替品で対応できるか」
「はい! 成分が特定できれば、こちらの薬で確実に進行を止められます」
ノアの力強い頷きを確認し、私は次の手を打つべく思考を加速させた。
◆ーーーー◆
毒の性質が判明した以上、王宮内でそれを調合し、国王に投与できる人間は限られている。南方の毒を扱うには特殊な認可が必要であり、宰相派の息がかかった侍医の中でその条件を満たす者は一人しかいない。
私は執務室の窓辺に立ち、外の灰色の空に向かって低く声をかけた。
「ジン、いるか」
天井の梁から、音もなく黒い外套の青年が舞い降りた。
「呼んだか、雇い主殿。随分と切羽詰まった顔をしてるじゃないか」
ジンは飄々とした態度で肩をすくめる。
「仕事だ。宰相派の侍医、バルバレスの動向を探れ。彼が国王に毒を処方している実行犯だ。証拠隠滅を図る前に押さえろ」
「なるほどね。暗殺の次は侍医の捕獲か。あんたの人使いの荒さには恐れ入るぜ」
「報酬は弾む。ただし、殺すな。生きたまま証拠と共に確保しろ」
「了解だ。プロの仕事を見せてやるよ」
ジンはニヤリと笑うと、再び影の中に溶けるように姿を消した。
数十分後。
王宮の地下にある使われていない倉庫に、私は足を運んだ。
埃っぽい空間の中央で、初老の侍医が椅子に縛り付けられ、猿轡を噛まされて震えている。その傍らで、ジンが小瓶を放り投げては受け取って遊んでいた。
「遅かったな。こいつ、ちょうど荷物をまとめて逃げ出そうとしてたところだぜ」
ジンは小瓶を私に差し出した。中には赤黒い液体が揺れている。
「ご苦労だった。見事な手際だ」
「それと、こいつもだ」
ジンが懐から取り出したのは、一枚の羊皮紙だった。そこには、国王への毒の投与量とタイミングが細かく記されており、末尾には宰相の側近であるヴィクターの署名が記されている。
「決定的な証拠だな」
私は羊皮紙を鞄に収め、縛られた侍医を見下ろした。
「バルバレス医師。あなたの罪は重いが、王室会議で真実を証言するなら、命だけは保証しよう」
侍医は激しく首を縦に振り、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
これで、宰相派が仕掛けた国王毒殺という強硬手段は完全に無力化された。セリアとマリアンヌの協力によって薬の搬入ルートも確保され、国王の命は繋ぎ止められるだろう。
攻守は完全に逆転しつつある。
◆ーーーー◆
さらに、毒の正体が判明したことは、もう一つの大きな成果をもたらした。
私は倉庫を後にし、王都の片隅にある隠れ家へと向かった。そこには、以前廃修道院から救出したクラウスの家族が匿われている。
彼らは長らく原因不明の衰弱に苦しんでいたが、その症状は国王と同じ南方由来の魔獣毒を薄めて投与され続けていたためだと判明したのだ。
隠れ家の扉を開けると、ベッドの上で青白い顔をしていたクラウスの妻と娘が、穏やかな寝息を立てていた。ノアが調合した解毒薬が効き始めている証拠だった。
ベッドの傍らで手を握りしめていたクラウスが、私の足音に気づいて振り返る。
「団長……」
「容態はどうだ」
「熱が下がりました。顔色も、ずっと良くなって……」
クラウスの目から、大粒の涙が溢れ落ちた。彼は床に膝をつき、深く頭を下げる。
「ありがとうございます。あなたがいなければ、妻も娘もどうなっていたか」
「顔を上げてくれ。私は当然のことをしたまでだ」
私は静かに告げた。
「だが、根本的な解決には至っていない。彼らをこんな目に遭わせた元凶を断ち切らなければ、本当の平穏は訪れない」
クラウスは顔を上げ、その目に強い決意の光を宿した。
「分かっています。私は、王室会議の場で証言台に立ちます。グスタフ宰相が私に命じた横領の指示、そして家族を人質に取った卑劣な手口……すべてを白日の下に晒します」
「頼む。君の証言が、奴らを追い詰める最後の楔になる」
私はクラウスの肩に手を置き、力強く頷いた。
侍医の確保、毒の特定、そしてクラウスの決意。
手駒は完全に揃った。あとは王室会議の場で、集めた証拠を叩きつけるだけだ。
しかし、事態はそう容易くは運ばない。
隠れ家を出て王宮へ戻る道すがら、私の影からカイが姿を現した。彼の表情は、かつてないほどに険しい。
「団長、ご報告があります」
「どうした、カイ」
「ヴィクターの動きが妙です。バルバレス医師との連絡が途絶えたことに気づいたようで、暗部隊の一部が王都の裏通りを嗅ぎ回っています」
私は足を止めた。
ヴィクター。効率と結果を最優先する冷徹な男。
彼は毒殺計画が失敗したことを悟り、即座に次の手を打ってきたのだ。
「奴らの狙いはなんだ」
「おそらく、証拠隠滅です。侍医が消えた今、彼らが最も恐れるのは内部からの告発。つまり……」
「クラウスか」
私は奥歯を噛み締めた。
ヴィクターは、クラウスが私に保護されている可能性を考慮し、彼の口を永遠に封じるつもりなのだ。
「カイ、隠れ家の警護を最大まで引き上げろ。ジンにも声をかけ、周辺の警戒に当たらせるんだ」
「はっ」
カイが再び影に溶けるのを見送りながら、私は冷たい夜風に目を細めた。
重要な証言者を確保し、敵の計画を打ち砕いた。だが、ヴィクターという男は、私が用意した完璧な盤面を力技でひっくり返そうとしている。
王室会議まで、あと数日。
この極限の状況下で、私はヴィクターの強硬手段から証言者を守り抜くことができるのか。
迫り来る暗殺者の影を感じながら、私は静かに鞄の持ち手を握り直した。




