第17話
息を深く吐き出す。
孤独な戦いではない。セリア殿下が示してくれた絶対的な信頼が、冷え切った心に微かな熱を灯す。
私は目元のフレームを押し上げ、魔力回路を研ぎ澄ませた。
ゲイツから奪った古びた懐中時計。針の動かないこのガラクタの内部には、極小の空間魔術が施されていた。
過去の自分は、こうした巧妙な細工に気づくことすらできなかった。
だが、今は違う。
指先から極細の魔力の糸を紡ぎ出し、時計の隙間へと流し込む。
何重にも張り巡らされた術式を、一つずつ丁寧に解きほぐしていく。少しでも力加減を間違えれば、内部の証拠ごと自壊する仕掛けだ。
額に汗が滲む。
複雑に絡み合った魔力の結び目を、慎重に解いていく。まるで薄氷の上を歩くような、息を詰める作業がどれほど続いただろうか。
やがて、カチリという微かな音が執務室に響いた。
時計の蓋が開き、淡い光と共に数枚の羊皮紙が吐き出される。
私はそれを手に取り、素早く目を通した。
予想通りだ。
記されていたのは、グスタフが裏で進めていた禁忌魔術実験の詳細な記録。そして、私を暗殺するための密命書だった。
軍事予算横領の濡れ衣や、魔獣暴走の責任転嫁。それらすべての工作を裏付ける、決定的な物証。
怒りに任せず、物証を積み上げる。その執念が、ついに敵の急所を捉えたのだ。
羊皮紙の表面には、見慣れた流麗な筆跡が並ぶ。
宰相グスタフの直筆。
彼が非合法工房と結託し、王都の防衛結界を意図的に弱体化させようとした計画の全貌が、そこには克明に記されていた。
かつて私を死へ追いやった偽造発注書とは違う。これは正真正銘、彼自身の罪を証明する動かぬ証拠だ。
「……これで、言い逃れはできない」
掠れた声が漏れる。
暗殺者ジンを差し向けたのも、すべてはこの記録を隠蔽するためだったのだろう。
強硬手段に出ざるを得なかった敵の焦りが、この数枚の羊皮紙から透けて見えた。
◆ーーーー◆
「団長、通信の準備が整いました」
ノアが控えめな声で告げた。
彼はいつものように背中を丸め、オドオドとした態度を崩さない。だが、その手際の良さは見事だった。
彼が構築した裏の魔術通信網は、宰相派の監視を完全に潜り抜けていた。
「ご苦労だったね、ノア。徹夜で解毒薬の代替品まで完成させてくれた上に、通信網の維持まで。本当に助かるよ」
「い、いえ。僕なんて、言われたことをやっただけで……それに、団長が僕を信じて任せてくれたからです」
縮こまる部下を労い、私は机に置かれた通信用の魔石に触れた。
『おお、若き英雄殿か!』
魔石から響いてきたのは、豪快で力強い声だった。
地方領主であるバルド。
「ご無沙汰しております、バルド卿。急な連絡で申し訳ありません」
『構わんさ。あんたには領民の命を救ってもらった恩がある。それで、俺に何をしてほしいんだ?』
裏表のない言葉に、私は口元を緩めた。
「王室会議に向けて、地方の貴族たちをまとめ上げていただきたいのです。宰相派の動きを牽制し、我々の発言力を確保するために」
『なるほど、政治の駆け引きってやつだな。俺はそういうのは苦手だが……あんたの覇道のためなら、一肌脱ごうじゃないか』
バルドの声には、確かな熱がこもっていた。
『宰相のやり口には、地方の連中も腹に据えかねていたところだ。不当な重税に、理不尽な物資の徴用。俺が声を掛ければ、必ず賛同する奴らは出てくる。任せておけ』
「感謝します。ですが、敵も黙ってはいないでしょう。妨害工作には十分警戒してください」
『わかっている。俺も歴戦の騎士の端くれだ。そう簡単に寝首は掻かれんよ』
力強い快諾を得て、私は通信を切った。
セリア殿下の政治的後ろ盾に加え、地方貴族という新たな手駒。
盤面は、確実にこちらへ傾きつつあった。
通信用の魔石が淡い光を失い、執務室に再び静寂が戻る。
私は椅子の背もたれに深く体を預け、天井を仰いだ。
かつての私は、政治の泥仕合を嫌悪し、探求に没頭するだけで生き抜けると盲信していた。
その結果が、あの断頭台の冷たい刃だ。
味方を守るためには、権力という名の武器が必要になる。
バルド卿の協力は、その武器を研ぎ澄ますための重要な一歩だった。
「団長、地方の貴族たちは動いてくれるでしょうか」
ノアが不安そうに尋ねる。
「動くさ。バルド卿の言葉には、人を惹きつける熱がある。それに、彼らも宰相派の横暴には不満を抱いているはずだ」
私は手元の羊皮紙を指先で弾いた。
「我々が提示する証拠が、彼らの背中を押す決定打になる」
◆ーーーー◆
王宮の奥深く、豪奢な執務室。
グスタフは不機嫌そうに舌打ちをした。
「魔術師団長め、しぶとい男だ」
暗殺者からの連絡は途絶え、地方の不穏な動きも耳に入り始めていた。
自分の完璧な計画が狂い始めた。その事実が、彼の傲慢な自尊心をひどく傷つけていた。
「だが、所詮は臣下の身分。王の威光には敵わんよ」
薄ら笑いを浮かべ、彼は手元の書類に署名する。
国王の体調悪化を理由に、レオンの処刑を早めるための特例裁可書。
王が崩御すれば、すべての権力は宰相である自分の手に落ちる。
「せいぜい足掻くがいい、無能な若造が」
分厚い絨毯の上を歩きながら、グスタフは硝子戸の向こうを見下ろした。
眼下に広がる王都の街並みは、彼にとって盤上の駒に過ぎない。
「魔獣暴走の件も、軍事予算の件も、すべてあの若造に防がれた。だが、それもここまでだ」
彼はワイングラスを手に取り、赤い液体を揺らす。
「王の命は、すでに風前の灯火。毒は確実に玉体を蝕んでいる」
暗殺者ジンが失敗したとしても、毒殺計画さえ完遂すれば勝利は揺るがない。
王族は自分が国を支配するための飾りに過ぎないのだ。
その飾りが朽ち果てた時、新たな支配者が誕生する。
「王室会議など開かせるものか。その前に、貴様の首を刎ねてやる」
グラスを飲み干し、彼は冷酷な笑い声を響かせた。
◆ーーーー◆
数日後。
執務デスクには、バルドから届いた暗号文が広げられていた。
『地方の準備は整った』
その短い一文が、反撃の第一歩を告げていた。
私は手元の密命書と実験記録を、慎重に革の鞄へと収める。
これで、グスタフを断頭台へ送るための手札は揃った。
だが、状況は予断を許さない。
ノアが血相を変えて執務室に飛び込んできたのは、その直後だった。
「だ、団長! 大変です!」
「落ち着け、ノア。何があった」
「国王陛下の体調が急変しました。それに乗じて、宰相閣下が団長の処刑日を前倒しする手続きを進めています!」
私は目元のフレームを押し上げ、冷たい息を吐き出した。
グスタフの狙いは明白だ。
私が用意した土俵に敵を引きずり出すには、王室会議という公の場が不可欠だ。
もし会議の前に国王の命が尽きれば、集めた証拠はすべて握り潰され、再びあの冷たい刃を首筋に当てられることになる。
「ノア、君が作ってくれた解毒薬の代替品は」
「ここにあります。ですが、陛下のお側に近づくのは至難の業です。宰相派の近衛兵が完全に周囲を固めていて……」
「突破するしかない。セリア殿下とも連携し、何としても陛下に薬を届ける」
硝子戸の向こうでは、重苦しい灰色の雲が空を覆う。
時間との戦いだ。
国王の命を奪う毒の進行を止め、会議の場まで持ち堪えさせなければならない。
私は鞄を握りしめ、静かに立ち上がった。
破滅の運命を覆すための、最後の賭けが始まる。




