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第16話

冷たい石の床に這いつくばったまま、私は動けずにいた。

首筋に張り付いた幻の痛みが、脈打つたびに現実の絶望を呼び覚ます。

窓の外では、季節外れの赤い雨が降り続いている。王都を覆う防衛結界が、禁忌魔術の汚染によって軋む音が、ここまで聞こえてくるようだった。


私が集めてきた完璧なはずの証拠は、机の引き出しの中で眠っている。

だが、グスタフが放った圧倒的な暴力の前では、それらはただの紙切れに過ぎない。

前世と同じだ。

どれほど知略を巡らせようと、結局は権力と暴力に押し潰され、断頭台の冷たい刃を首筋に当てられる。

その恐怖が、私の思考を麻痺させていた。


「レオン」


不意に、静かな声が執務室に響いた。

幻聴かと思った。この封鎖された空間に、人が入ってこられるはずがない。

だが、床に転がった私の銀縁眼鏡を拾い上げる、白く細い指先が視界に入った。


顔を上げると、そこには地味な外套を羽織ったセリアが立っていた。

豪奢な金髪はフードに隠されているが、その意志の強い碧眼は、間違いなく第二王女のものだった。


「殿下……なぜ、ここに」


掠れた声が漏れる。

彼女は護衛もつけず、宰相派の監視の目を掻い潜ってここまで来たというのか。


「あなたが、一人で絶望しているような気がしたからです」


セリアは静かに膝をつき、私の目の高さに合わせた。

王族としての気品を少しも崩さず、泥に塗れたような私を真っ直ぐに見つめている。


「結界が蝕まれ、王都が危機に瀕していることはわかっています。グスタフ宰相が、なりふり構わず強硬手段に出たことも」


彼女は拾い上げた眼鏡を、私の手にそっと握らせた。


「ですが、あなたは一人ではありません。私を命懸けで救ってくれたあなたを、私は何があっても信じ抜きます」


その言葉に、冷え切っていた胃の奥に微かな熱が灯るのを感じた。

前世では、誰一人として私の無実を信じる者はいなかった。

だが今は違う。私が未来知識を駆使して築き上げた政治的基盤は、ただの駒の集まりではなかったのだ。


◆ーーーー◆


窓の隙間を叩く音がした。

赤い雨を避けるようにして飛び込んできたのは、一羽の伝書鳥だった。

その脚に結びつけられた小さな筒を見て、私はゆっくりと身を起こす。


筒の中に入っていたのは、見覚えのある乱暴な筆跡の短い手紙だった。


『王都の空が赤いな。妙な動きがあれば、いつでも領地軍を動かす準備はできている。貴殿には恩がある。いつでも言え』


バルドからだった。

あの豪快で義理堅い男は、王都の異変を察知し、理不尽な事態に対して反発する準備を整えていた。

私が魔獣暴走の濡れ衣を防ぎ、彼の領民を救った事実が、こうして確かな力となって返ってきている。


さらに、本棚の裏に隠された秘密通路から、慌ただしい足音が響いた。

現れたのは、息を切らしたノアだった。

いつも抱えている書類の束はなく、代わりに小さなガラス瓶を両手で大切に握りしめている。


「団長……! 戻りました……!」


彼はオドオドした態度のまま、しかし瞳には確かな達成感を宿して私の前に進み出た。


「できました。解毒薬の代替品です……! 外部の錬金術師たちと協力して、なんとか形にしました」


ノアは震える手で、その瓶を机の上に置いた。

処刑予定日まで残り半年。焦った宰相派が仕掛けてきた国王毒殺計画。

その強硬手段を無力化するための切り札が、今、私の目の前にある。


「よくやってくれた、ノア。君の優秀な実務能力のおかげだ」


私がそう言うと、彼は泣きそうな顔で何度も頷いた。


「私は、あなたに引き上げてもらいました。だから、絶対に諦めません」


セリアが静かに微笑み、ノアの肩を労うように叩く。

私は、手の中の銀縁眼鏡を見つめた。

前世の私は、真面目に魔術を極めるだけで生き残れると信じていた。政治に無関心で、お人好しなだけの無能だった。

だからこそ、裏切られ、すべてを奪われた。


だが、今回は違う。

私が集めてきた証拠は、敵を追い詰めるための刃であると同時に、味方を守り、彼らとの信頼を築くための盾でもあったのだ。

彼らの存在が、前世の孤独な死とは違う現在を私に突きつけている。


◆ーーーー◆


私は眼鏡をかけ直し、ゆっくりと立ち上がった。

視界が鮮明になり、執務室の惨状と、窓の外の淀んだ空がはっきりと映し出される。


状況は、依然として最悪のままだ。

ノアが解毒薬の代替品を完成させたとはいえ、国王の命はまだ瀬戸際にある。

結界の崩壊は進み、カイが命を削って補強に向かっているものの、いつまで保つかはわからない。

グスタフの放った暴力の濁流は、今も王都を飲み込もうとしている。

問題は、何一つ解決していないのだ。


私は机の引き出しを開けた。

そこには、私がこれまでに集めてきた数々の証拠が収められている。

非合法工房の取引記録。暗殺者ジンの自白書。

そして、その奥に置かれた一つの品に手を伸ばした。


ゲイツから押収した、針の動かない古びた懐中時計。

内部に極小の空間魔術が施され、宰相からの密命を隠蔽するために使われていた道具。

私はその冷たい金属の感触を、手のひらで確かめるように握りしめた。


「……まだ、終わっていない」


掠れた声が、静まり返った執務室に落ちる。

圧倒的な暴力に対抗するためには、どうすればいいのか。

私が用意した土俵に、力ずくでグスタフを引きずり下ろす方法。

脳裏に、ある逆転の策が浮かび上がっていた。


だが、それはあまりにも危うい。

一歩間違えれば、私が集めた完璧なはずの証拠ごと握り潰され、今度こそ全員が断頭台へ送られることになる。

自分の甘さによって大切な味方を失う恐怖が、足元から這い上がってくるようだった。


窓の外では、不気味な赤い雨が降り続いている。

死の足音は、確実に近づいていた。

私は懐中時計を握りしめたまま、ただ静かに、その冷たい重みを感じていた。

胸の奥で渦巻く無力感と不安を抱えながら、反撃の糸口となるはずのその時計を、ただ見つめることしかできなかった。


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