第15話
窓ガラスを叩く雨音は、次第に重く、粘り気を帯びたものへと変わっていく。
視界を埋め尽くす赤黒い滴が、ガラスの表面をゆっくりと這い落ちる。まるで王都そのものが血を流しているかのようだった。
鉄錆に似た酷く不快な匂いが、密閉されたはずの執務室にまで入り込んでくる。
私は窓際に立ち尽くしたまま、空を覆う異様な雲のうねりを見つめていた。
前世で私が断頭台に引きずり出される前夜に降っていた、あの不気味な雨。それが今、三年という時間を超えて再び私の目の前に現れたのだ。
昨日から空を覆い始めていた異変と、グスタフの不気味な沈黙。その意味を測りかねていた私の甘さを嘲笑うかのように、奴はすでに破滅の引き金を引いていた。私が組み上げてきた完璧な計画すらも呑み込むような、底知れぬ悪意がそこにはあった。
思考を巡らせようとするが、冷たい焦燥感が脳を麻痺させていく。
部屋の中は静まり返り、壁掛け時計の針の音だけが冷酷に時を刻んでいる。
背後の壁で、微かな軋み音が鳴った。
本棚の裏に隠された秘密通路の扉が開く。現れたのは、灰色のローブを血と泥で汚したカイだった。
「……団長、外は地獄だぜ」
荒い息を吐きながら、カイは壁に手をついた。数日前の任務で受けた呪いの傷が、まだ完全に癒えていない。青白い顔には脂汗が浮き、立っているのがやっとの状態に見えた。
「セリア殿下は無事か」
「ああ。あんたが渡した香炉のおかげで、毒の影響は受けてない。護衛のマリアンヌもついている。だが、王宮内の混乱は収まらない。通信網は完全に死んだままだ。外の部隊とも連絡がつかない」
私は小さく息を吐いた。
死に戻ってから今日まで、私は必死に盤面を整えてきた。前世では不遇のまま命を落としたカイを右腕として引き上げ、冷遇されていた第二王女セリアの信頼を勝ち取った。彼らの協力を得ることで、私の情報網と政治的基盤はかつてないほど強固なものになっていた。
それだけではない。
「魔獣暴走の責任転嫁も、軍事予算の横領疑惑も、あんたの指示通り完全に防いだ。逆に証拠を突きつけて、宰相派の連中を次々と失脚させてきたじゃないか」
カイは痛む脇腹を押さえながら、忌々しげに窓の外を睨んだ。
「処刑予定日まで残り半年。焦ったグスタフが仕掛けてきた暗殺者も手懐けて、国王の毒殺計画だって未然に防いだ。強硬手段はすべて無力化したはずだ。なのに……なんだよ、この雨は」
彼の言う通りだった。
私は敵の罠をすべて先回りして粉砕し、反撃の糸口を掴んできた。グスタフを法的に断罪するための完璧な証拠は、すでに私の手元に揃いつつある。
この国は厳格な証拠至上主義の法治国家だ。いかに高位の貴族であろうと、確たる証拠があれば断頭台へ送ることができる。私はそのルールに則り、合法的に彼を追い詰める準備を整えてきたのだ。
だが、目の前で降り注ぐこの赤い雨は、私たちが積み上げてきた盤面を根底から覆そうとしていた。
「……禁忌魔術の痕跡だ」
私は窓辺から離れず、静かに答えた。
「グスタフは、裏で大規模な魔術実験を行っていた。この雨は、その副産物として発生した魔力汚染の結晶だ。単なる天候不良ではない」
「魔力汚染だと? じゃあ、王都の防衛結界は……」
「すでに蝕まれ始めているはずだ」
私の言葉を裏付けるように、王都を覆う透明な天蓋が、赤い雨に触れた端からジュワリと不気味な音を立てて変色していくのが見えた。
物理的な破壊ではない。結界の術式そのものが、赤い雨の持つ異常な魔力によって書き換えられ、溶かされているのだ。
青白く輝いていた魔力光が、赤黒い染みに侵食され、次々と剥がれ落ちていく。
「冗談じゃねえぞ。結界が落ちれば、王都は丸裸だ。外にいる魔獣どもが雪崩れ込んでくる」
カイは壁から身を離し、ふらつく足取りで扉へ向かおうとした。
「待て。その体でどこへ行くつもりだ」
「結界の要石を補強しに行く。俺の魔力なら、少しは持ち堪えさせられるはずだ」
「無茶だ。今の君の状態で外に出れば、赤い雨の毒気に当てられて命を落とす」
「じゃあ、ここで黙って全滅するのを待つのかよ!」
カイの怒鳴り声が、静まり返った執務室に響いた。
彼は唇を噛み、私を真っ直ぐに見据えた。
「俺は、あんたに拾われた。誰からも必要とされなかった俺の技術を、あんたは評価してくれた。だから、あんたの計画がここで終わるなんて、絶対に認めない」
その言葉に、胸の奥が鋭く痛んだ。
味方と認めた者は最後まで守り抜く。そう誓ったはずだった。だが、今の私は彼を止める有効な手立てを何一つ持っていない。
私の魔力を使えば、一時的に結界を維持することはできるかもしれない。だが、それでは根本的な解決にはならない。グスタフの放ったこの異常な魔力の源を絶たなければ、いずれ王都は飲み込まれる。
「……死ぬなよ、カイ」
絞り出すように告げた私に、カイは短く頷き、再び隠し通路の奥へと消えていった。
◆ーーーー◆
隠し扉が重い音を立てて閉ざされると、執務室には再び、窓を叩く不気味な雨音だけが残された。
赤い雨は、勢いを増して降り続いている。
結界の光が、一つ、また一つと消えていくのが見えた。圧倒的な物量と絶望感が、私の陣営を容赦なく包み込んでいく。
完璧な証拠を集め、法と秩序の場でグスタフを断罪する。
それが私の描いた復讐のシナリオだった。
だが、グスタフは違った。彼は証拠などというちっぽけなルールに縛られてはいなかった。自らの権力を脅かす者がいるなら、王都ごと破壊してでも排除する。その傲慢で冷酷な執念が、この赤い雨となって降り注いでいるのだ。
法治国家のルールなど、彼にとってはただの飾りに過ぎなかった。
視界が、不意に歪んだ。
窓ガラスに打ち付ける赤い雨粒が、別の記憶を呼び覚ます。
『裏切り者!』
『魔術師団の恥晒しめ!』
耳鳴りのように、群衆の罵声が蘇る。
ぬかるんだ石畳。鉄錆のような匂い。
荒い木肌の台に首を固定され、冷たい刃が首筋に触れる感触。
貴賓席から私を見下ろす、グスタフの冷酷な笑み。
「……あ、あぁ……」
無意識のうちに、私は自分の首を両手で強く押さえていた。
息ができない。
胃の奥が鉛のように重く、冷え切っていく。
私は、また間違えたのだろうか。
首筋に残る幻の痛みが、私の甘さを嘲笑っているかのようだった。
だから今度は、誰よりも計算高く、証拠を集めて立ち回ってきたはずだった。
だが、どれほど知略を巡らせようと、圧倒的な暴力の前では無意味なのか。
私が集めた証拠の数々は、机の引き出しの中で静かに眠っている。
だが、結界が崩壊し、王都が瓦礫の山と化せば、それらの紙切れに何の意味があるというのか。
グスタフは、私が用意した土俵に上がる気など最初からなかったのだ。
膝から力が抜け、私は冷たい床に崩れ落ちた。
銀縁眼鏡が外れ、床に転がる。
ぼやけた視界の中で、窓の外の空はどこまでも赤く、不気味に淀んでいた。
床に手をついたまま、私はただ震えることしかできなかった。
前世と同じ破滅の運命が、形を変えて再び私を飲み込もうとしている。
どれほど足掻いても、私はあの断頭台の冷たい刃から逃れることはできないのだろうか。
部屋の中は静まり返り、時計の針の音だけが冷酷に時を刻んでいる。
私はただ、静かに迫り来る死の足音を聞きながら、赤く染まっていく空を見上げることしかできなかった。




