第14話
「国王陛下が……陛下の体調が急変なさいました! 吐血され、意識が……!」
扉の向こうから響く騎士の悲痛な叫びに、私の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。
間に合わなかったのか。
いや、そんなはずはない。暗殺者ジンからの情報をもとに、毒殺の決行日は特定していた。錬金術師を洗い出し、遅効性の毒の成分も割り出していたはずだ。
「団長、扉を開けてください! 陛下が……!」
騎士がさらに扉を叩こうとしたその時、廊下の向こうから複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
重武装の兵士たちの金属音。そして、冷淡で事務的な声が響く。
「そこまでだ。レオン元魔術師団長は謹慎の身。何人たりとも接触は許されない」
ヴィクターだ。
宰相グスタフの側近である彼が、自ら兵を率いて私の部屋を封鎖しに来たのだ。
騎士が抗議する声が聞こえたが、すぐにくぐもった音と共に引きずられていく気配がした。
「通信用の魔道具をすべて押収しろ。外部との連絡網を物理的に切断する」
ヴィクターの冷酷な指示が、壁越しに伝わってくる。
私は扉から一歩下がり、奥歯を噛み締めた。
奴らは私が動けない隙を突き、王宮全体を掌握しようとしている。
不意に、背後の本棚が微かに音を立ててスライドした。
壁の裏側に隠された細い通路から、小柄な人影が転がり込んでくる。
「だ、団長……っ」
埃まみれになった補佐官のノアだった。
彼は自分の背丈ほどもある書類の束と、いくつかの小さな木箱を抱え、息を絶え絶えにしている。
「ノア。無事だったか」
「はい……。カイさんが確保してくれた裏ルートを使って、なんとか物資と情報を運び込みました。でも、表の通路は完全に封鎖されています」
ノアは床にへたり込みながら、震える手で眼鏡の位置を直した。
彼の言葉通り、カイが構築した裏の情報網がなければ、私は今頃完全に目と耳を塞がれていたはずだ。彼らの協力を得ておいて本当に良かった。
「ヴィクター卿の指揮で、魔術師団の外部連絡網が次々と遮断されています。この部屋も、もうすぐ完全に孤立します」
「想定より動きが早いな。陛下の容態はどうなっている?」
私が問うと、ノアは抱えていた書類の中から、一通の封筒を取り出した。
王室の紋章が蝋で封じられた密書。セリア殿下からのものだ。
「殿下からのご報告です。例の『特製の香炉』が……反応したと」
私は封を切り、素早く文面に目を通した。
セリアの部屋に設置しておいた香炉。それは特定の毒物にのみ反応し、微かに変色する仕掛けを施した魔道具だ。
手紙には、香炉の表面がどす黒く変色し始めたこと、そして父王の吐血を目の当たりにした彼女の悲痛な心情が綴られていた。
『父様の苦しむ姿を見るのは身を切られる思いですが、あなたの策を信じます。この香炉は、必ずや彼らを断罪するための証拠となるでしょう』
気丈な筆致の裏に隠された、彼女の震えが伝わってくるようだった。
私は手紙を握りしめ、深く息を吐き出した。
「……毒殺計画自体は、防げていないわけではない」
私はノアに向けて、半ば自分に言い聞かせるように口を開いた。
「ジンから得た情報で、毒の成分は特定済みだ。事前に解毒の効能を持つ薬草を、陛下の食事に微量ずつ混ぜるよう手配してある。今回の吐血は、体内に蓄積された毒と解毒剤が急激に反応した結果だ。命に別状はないはずだ」
強硬手段に出た宰相派の目論見は、これで無力化できる。
香炉の変色という動かぬ証拠も手に入った。これさえあれば、王室会議の場で奴らの罪を白日の下に晒すことができる。
先回りして罠を張り、敵の手駒を利用して攻守を逆転させる。私の計画は、確かに機能している。
「ですが、団長」
ノアが、怯えたような声で私を見上げた。
「証拠が揃っても……私たちがここから出られなければ、意味がありません」
彼の言葉が、冷たい刃のように私の胸に突き刺さった。
その通りだ。
どれほど完璧な証拠を集めようと、それを提示する場に立てなければ何の意味もない。
「……分かっている」
私は短く答え、窓際へと歩み寄った。
外は激しい雨が降り続いている。窓ガラスを叩く雨音が、まるで私を嘲笑うかのように部屋の中に響き渡っていた。
「ノア、君はすぐにここを出ろ。これ以上ここに留まれば、君まで反逆の共犯として捕らえられる」
「そ、そんな! 僕も最後まで……」
「これは命令だ」
私は振り返り、強い口調で言い放った。
「君の事務能力と、カイの隠密行動。そしてセリア殿下の政治的立場。それらが外で機能していなければ、私の計画は完全に頓挫する。生き延びて、外から機を窺え」
ノアは唇を噛み締め、やがて涙ぐんだ目で深く頷いた。
「……必ず、お助けします。どうか、ご無事で」
彼は運び込んだ木箱を残し、再び隠し通路へと姿を消した。
私は一人になった執務室で、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
手元には、セリアからの手紙と、ノアが置いていった報告書の束がある。
これらはすべて、私が未来の知識を駆使して集めた真実だ。
だが、胃の奥が鉛のように重く、冷たかった。
部屋の扉は外から施錠され、窓には強固な結界が張られている。
外部との連絡は完全に絶たれた。
この状況は、酷似している。
前世で、反逆の濡れ衣を着せられ、処刑される直前のあの夜に。
一瞬、指先が止まった。
私は変わったはずだった。過去を捨て、冷徹に証拠を集め、敵を追い詰める道を選んだ。
裏切り者には報いを、味方には誠実を。
確実な証拠に基づいて行動してきた。
それなのに、なぜ私はまた、こんな薄暗い部屋で一人、無力感に苛まれているのだろうか。
自分が集めた完璧なはずの証拠が、敵の圧倒的な権力によって握り潰されていく。
再び断頭台の冷たい刃を首筋に当てられる瞬間が、すぐそこまで迫っているような錯覚に陥る。
息が詰まる。
首元を無意識に掻き毟り、私は深く息を吸い込んだ。
落ち着け。
まだ終わっていない。証拠はある。手駒も外で動いている。
私は二度と同じ轍は踏まない。
自らを奮い立たせようと、私は立ち上がり、再び窓の外へ目を向けた。
雨は一向に止む気配がない。
それどころか、空の様子がおかしいことに気づいた。
分厚い雨雲の隙間から、不気味な光が漏れ出している。
夕暮れでもないのに、空全体が赤黒く染まり始めていたのだ。
鉄錆のような匂いが、窓の隙間から微かに鼻腔を突いた。
心臓が、早鐘のように打ち始める。
知っている。
私はこの空の色を知っている。
前世で私が断頭台に引きずり出される前夜。
王都を包み込んでいた、あの不気味な雨。
単なる天候不良ではない。
何かが、決定的に狂い始めている。
窓ガラスに打ち付ける赤い雨粒を見つめながら、私は立ち尽くした。
完璧だと思っていた私の計画の裏で、宰相グスタフは一体何を企んでいるのか。
この異様な天候の変化は、何を意味しているのか。
部屋の中は静まり返り、時計の針の音だけが冷酷に時を刻んでいる。
私はただ、静かに迫り来る破滅の足音を聞きながら、赤く染まっていく空を見上げることしかできなかった。




