第三話 足に来る階段と足利ー陽南の沸点と凝固点ー
足利の伊勢神社から鑁阿寺の前をかすめて、織姫神社の交差点近くに抜ける路地裏の横道には途中歩道橋から足利学校の全景が見られ、少し行くと足利尊氏公の像が立っている。さらに進むとそこは市役所から続く大きな通りと交わる。足利の旧市街はまるで迷路のような街路区割だ。
お昼前の午前中、シャツにジーンズとラフな格好の男性がオフ感丸出しで、その通りの歩道に差しかかった。卯面公彦二十三歳だ。
「あれ?」
自転車に乗った二十代女性が彼の顔を見て、自転車を降りて止まった。彼女、見た目二十代中ごろの気品ある控えめな感じの女性だ。ゴム止めの上からリボンを結んで、吹き流しのように風に舞う長い髪。スコティッシュ・チェックの膝丈スカートと無地のサマーセーターというシンプルでカジュアルないで立ちだ。
「公彦?」
横道からの出頭に彼は自分の名前を呼ばれてその女性の方を振り向いた。
「陽南?」
何のことはない高校時代からつい最近まで付き合っていた元カノである。世間ではよくある話だ。地元に帰ったら偶然街中でバッタリとか。
「元気だった?」
彼は彼女の問いかけに「うん」と答えた後、横にいる女性に「高校時代のクラスメート、鶯谷陽南さん」と、はにかんで紹介する。元カノの自分を同級生どまりで紹介した公彦に少々の腹立たしさを感じた陽南。陽南には公彦が彼女の前で体裁を取り繕っているように見える。
『なんだその紹介の仕方。私の元ポジションは瞬殺なのか?』
彼女の脳内は不信感のハテナマークでいっぱいだ。
隣の女性は、みつあみにパンツルック、大きな黒のだてメガネで満面の笑み。
「こんにちは。白鶴真美っていいます」と言って深々とお辞儀をする。初対面の場面では有体の台詞だ。
「昨日の花火大会見てさ、そのまま泊まってこれから駅に送っていくところ。彼女、イラスト書きでさ、ほっておくとずっと部屋に引きこもって仕事しているから昨日は引っ張り出したんだ」と親し気に話す公彦。
一方の陽南は陽南で、額に汗のような微妙な笑顔で、取り繕って、
「へえ、そうなんだ。じゃあ、お気をつけて」と話も適当に途中で切り上げて再び自転車にまたがる。お茶を濁すというのはこういう感じだろう。ピューっと髪をなびかせて、一目散に大通りを駅の方へと去っていった。
『なんだよ。あいつ不愛想だな』と少しがっかりした表情でいたが、気を取り直して「この先に有名な最中売っている店あるからお土産に持たせてあげるよ。おばさんたちも喜ぶと思うよ」と真美に気を遣うように歩き始める公彦だった。
そんな公彦の言葉とは裏腹に走り去った陽南の様子を気にかけている真美。
「彼女、大丈夫? 紹介の仕方、言い方、言葉数が足りなくて勘違いされたように思うけど。たぶん誤解されたわよ。あの表情と行動から推測すると……」と杞憂に思う言葉を投げる真美。
「え、そうなの?」
この場ではあまりピンと来ていない公彦だった。だが後でよくよく思い返すと、真美との関係を明かしていないことに気付いたが、時すでに遅しとなった。
「お母さんただいま!」
陽南は自転車を庭先に置くと、玄関に回る。昭和末期から平成初期に建てられたよく見る建売の住宅だ。
「ありがとう。ご苦労様」と家の奥から母親の声がする。
ダイニングのテーブルの上に買い物袋を置いて、「買い物、ここに置くね」という。そのまま真っ直ぐ陽南は二階にある自分の部屋に引きこもる。事態整理が追い付かず、納得の出来ていない自分がいる。
ベッドに飛び込んで、天井を見つめた。パラパラと髪が遅れて着地する。
「なによ。別れて半年もたたずに新しい彼女自慢かよ。イラストレーターの彼女を気遣って、名物の足利花火見物って。私との花火の思い出は消してすぐに更新しちゃうんだ。そんな男だったのかよ。公彦……」
彼女の様子がおかしいと感じた母親が、二階の部屋の扉を開けたのはすぐのことだった。
「入るよ」
そう言ってスッとふすまを横に流す。
涙目の彼女の姿を見て、「あらま。どうしたん。何かあったん?」と心配そうに言葉を出す母親。
「公彦が女の子と歩いてた。通り四丁目交差点の手前で」
母親は無言で頷くと、「そっけ」と言ってから、「でもあんたの方からさよならしたんだがね。彼も寂しかったんじゃねんけ?」と感情を入れた両毛言葉で慰める。それは優しい口調だった。
「でもさ。まだ半年もたってねえんに、あんまりださ」と感情的な陽南。
「それはあんたの立場から見たときの話ださ。まだまだ、あんたも相手を思いやる気持ちが出来てないんね。ちっとんべえ、相手の立場に立った心を想像できるようになると、もっといい女になるよ」
軽い笑顔で再び頷くと母親は、事態の把握をして、納得した様子で部屋を出ていった。
彼女が自室のベッドの上に横たわり、目をはらしているとスマホの着信音が鳴る。
画面が光り、そこには公彦の名前が記されていた。
そのサムネイルには『ちょっと話せる?』というメッセージが下にぶら下がっている。
「もう、今更何の用よ」と目を擦って彼女はつぶやく。
彼女がそのまま『もう、今更何の用よ』とフリッグ入力で文字盤をなぞり返信する。
『ちょっと話したいんだ。いま陽南の家の前にいるから』
その文を読んで、陽南は自分の部屋の窓から下を見るとさっきと同じ格好で立っている公彦を見つけた。
家に来られるのは困るので、彼女は素早く立ち上がり衣服とリボンのヨレやシワを直して、少し服をポンポンと叩く。そしてミニドレッサーの前でチークとルージュだけは引き直した。鏡を見て、「良し」と確認すると部屋を出る。シンプルなガーリー・ファッションの出来上がりである。そしてそのまま階段をトントンと小気味よいリズムで降りていく。
『なによ、この乗り気の私。私、何を期待しているのよ』と自問している彼女。
階段を降りるときに妹の絵美とすれ違う。彼女はちょうど短大から帰って来たところだ。
「おねえ、めかしこんでどこ行くん?」
「わかんないわよ。向こうに訊いてよ」と言ってそのまま玄関に向かう。
家の前の通りに出ると、彼の姿を見つける。彼は何事もなかったように「よう、さっきはどうも」と右手を挙げた。
彼女は不機嫌そうに「なによ、彼女自慢?」と下目遣いのブーたれた口調で尖って見せる。半分は演技である。
「やっぱり」と公彦。
「何がやっぱりよ」
相変わらず睨みつけるような彼女の視線に苦虫つぶしたような表情の後で、
「勘違いしているよな、陽南」と公彦はあきれ顔。
「なにがよ」と仁王立ちの腕組みポーズでさらに顔をしかめる陽南。
「きっと早とちりの陽南のことだから、真美が新しい彼女だと思ったんだろうな、って思って言い訳しに来た」
「もう別れたし、あなたがどこで何をやろうと私には関係ないわよ。まあ、お好きなだけ彼女でもない女の子とお泊りして遊べばいいじゃない。不誠実な不潔男。やりたい盛りのおこちゃまね」と陽南は頭から湯気が出ていないのが不思議なくらいの沸点である。
「何を勘違いしているかわからないけど、真美は親戚だからね。いとこだよ。泊ったのは勿論うちの実家で真美の両親、つまり俺の叔父と叔母も一緒だ」と音量強めの言葉で彼女の言葉を遮る。
「え?」
それを聞いた瞬間陽南の目は点になった。沸かしたはずのお湯はフリーザーの氷のごとく全身が凍てついた始末。たちまち気持ちは氷点である。
「じゃあ彼女といい仲なんじゃないの?」
今更の確認にあきれ顔で、
「当たり前じゃん。一方的に振られた上に悪者扱いじゃ、こっちだってやってられないよ」と公彦。
「だってそれはあんたが悪いのよ。大学が終わったらこっちに帰ってきて就職するって上京するときは言っていたのに……。帰ってこないって聞いたときは、渡良瀬橋で夕陽を見つめて、最後のプレゼントに木綿のハンカチーフでもねだろうかと思ったくらいなんだからね」
憤慨しているのは明らかな陽南の顔。
「ごめん。でも俺、まだあの別れ話に納得していないから。それに帰ってこれなくなった理由だって話してないし……。問答無用で電話切ったのもお前さんだよ」
相変わらずの腕組みポーズで偉そうに仁王立ちした彼女は「じゃあお聞きしましょう。その言い訳とやらを」という。彼女はお分かりのように、結構面倒くさいタイプの女性である。
「家の前でもなんだから、少し歩きながら話しよう」と公彦。
そう言って二人は渡良瀬川の河川敷を並んで歩き始めた。昨日が花火大会と言うことで、ボランティアの人たちが残った大会の後片付け作業をここかしこで行っている。その中央を透き通った清流が流れていた。上流のほうでは、長い友釣り竿でアユ釣りをしている人も数人見受けられる。のどかな風景だ。
「十五万都市の中心地でアユが釣れるなんて、いい街だよな。俺も戻ってこれるなら戻ってきたいよ」
「じゃあなんで?」
「ユーターン就職フェアに行って現実を知ったのさ。同じ業種、業界なのに都内と栃木じゃ給料に四、五万の差があるんだ。しかもあっちには就職先も豊富にある。月とスッポンだ。陽南は二十五歳までに結婚したいって言っていたから、こっちに戻って就職したら間に合わないって思ったんだ」
その言葉を聞いて彼女の顔が青ざめる。
『私のためってこと! 子供なのは私のほうになるじゃない』
紙一枚で出来ると単純に考えていた陽南と、結婚後の生活設計まで考えていた公彦との考え方の違いが根本にはあった。
彼女の心に衝撃が走った。急ぐあまり女の立場故の傲りだった。
『お母さんの言ったとおりだ。彼の立場に立ってみれば現実を突き付けられたリミットはあと数年しかない。故郷に戻るよりも生活も仕事もある程度知っている東京にいた方が効率的と言うことだわ。これじゃ私ただのわがまま女じゃん』
ことの本質をようやく気付く彼女。彼女が考えた結論は全くのその通りで、今までの彼女はわかっていない女そのものだった。やるせない思いの陽南はいつの間にか、恥ずかしさからか、しおらしく可愛らし気にちょこちょこと歩いている。無知ゆえの気まずさが相まっているのだろう。
『それなのに私ったら、理由も聞かないで彼が卒業しても地元に帰ってこないって聞いただけで、電話口で突然別れるっていいだして、どんだけ子供なのよ』
「じゃあ今でも私のこと好きなの?」
陽南の質問に、
「当たり前だろ。可愛い声も、息遣いも、その指先も、髪の一本一本まで大切に思っているよ」と公彦。
陽南は少し緩めた顔で「息遣いって、やらしい」とあきれ顔をする。おそらくバツの悪さをごまかしているのだろう。
「そういうエッチな話ではなくて……」と予想外の方向に飛んだ話を修正する真面目な公彦。
彼女は落ち着いた顔で手を胸の前で組むとそのまま手のひらを外側に向けてストレッチをするように伸びをする。そして、「あーあ。私、またやっちゃった。早とちり」と少し罪悪感めいた声で独り言ちる。
「大丈夫。俺は今でも信じているから陽南を」と彼の優しい眼差しが彼女を包み込む。
「これで復縁って感じよね。私の独り相撲。相変わらず公彦は甘々だよね。はあ」とため息交じりの陽南。
「そうだね。まあ俺は別れたとは思っていなかったけどね。でも仕切り直しはしとこうよ。久しぶりに織姫さんにお参りして、新しい鍵かけてこようよ。ご祭神の神々にも久々にお会いしたいしなあ。伊勢の神宮直轄の神服織機神社の神さまたちにお会いしよう」
「あの階段上るんは修行だわ。自分への戒めになるね」
高台の山の中腹にある足利織姫神社は恋人たちが名前を書いたカギをかける場所として知られている。全国各地域に一か所はこういった恋人たちの聖地と言うのがあるのだが、織姫神社がこの辺りではその聖地である。
「いいわね。再出発に向けて新たな誓いよね」と陽南。
「神社の人も『二二九段昇れば叶う縁結び』って言っていたしなあ」と頷く公彦。
そして「そうと決まれば、まずはあの行きつけの参道近くの店にイモ焼きそばとイモ串を食べに行こうぜ。そこで今後の予定を話そうよ」と公彦。
「うん、そうしましょう」
なんにせよ一件落着の二人だった。
その日は遅い昼食を一緒にとって、半年の時間を埋めるように二人は久しぶりの恋人たちの時間をまったりと過ごした。
そして翌朝、玄関先で短大に向かう妹と再びすれ違う陽南。
すれ違いざまに、「おねえ、朝帰りとかやるじゃん。どこで化粧落としたのよ。謎なあ、草。意味不じゃん」と笑顔で意味深な爆弾を落としていく妹。両頬を手で押さえながら、嬉し恥ずかし朝帰りである。
勿論その妹の声は食卓にいる両親にも聞こえているはずだ。朝帰りした娘に、父親は静かに怒りを抑えていた。怒るに怒れない微妙な立場。父親とはそんなものだ。納豆をかき混ぜる箸の回転速度がいつもより激しい。さらにバキッと箸が折れる音も聞こえた。
気まずさから、陽南はそそくさと階段をあがって、そのまま部屋に入ってしまった。でも心は晴れ晴れしていた。親子関係は巣離れの時が近いのだろう。彼女もひとりの大人として人生の判断を自分でしていく年頃になったということだ。
それに対して母親はなぜか嬉しそうにしている。おそらく陽南の人生にとっては追い風のような状況と察してのご機嫌さだ。
それは鶯谷家にとって、初めての経験である。それと同時にとてもいびつな朝だった。これもある種の家族の絆の顕在化なのかもしれない。勿論この一年後に公彦と陽南はめでたくゴールインをすることになる。だが結婚式の当日まで父親の不機嫌は続いたという。
了




