第四話 熱田の人情はあったかいー七里の胸に残る思いー
一人の男性が運河のほとりでベンチに腰かけていた。
宮の渡し公園。いまでこそ何のことはない河川敷の公園である。しかしここは江戸時代には交通の要所だった。江戸から来た旅人は、ここで七里の渡しを使って、伊勢湾の対岸である桑名まで船旅をするか、迂回して陸路を回るかという選択に迫られた。そしてもう一方の分かれ道の先は岐阜に続いたり、熱田神宮への参道となる道だ。今はこの道は美味しそうなひつまぶしの香りのする道である。いずれの道も江戸時代には重要な道であり、ここで選択をしなくてはいけない分岐路だった。
そして地域区分としても二つ前の宿場、池鯉鮒宿(現代地名・知立)を中心にこのあたりも含め尾張と三河の国境がある重要ポイントであった。この宮宿を含む熱田地域は尾張藩にも幕府にとっても重要な拠点であった。
そんな昔のことなど知る由もないこの男性はぼーっとこの渡船場跡で水面を見つめていた。この男、かつての東海道の分岐路で、自分の人生の分岐路を迎えていた。
彼は気付いていなかったが、隣のベンチに巻き毛の美しい女性がいつの間にか腰かけていた。銘菓のなごや嬢のパッケージデザインに劣らぬともまさるモデル系の美女だ。エレガントという言葉が似あう座り姿である。
淡いピンクの装いで彼女は彼と同じ前方を見つめている。時々頬杖をついたその目線の先で魚が跳ねる。彼女の姿はまるで彼の思いに寄り添っているようにも見える。
男性は先週、勤め先の先生の言い方にひどく傷ついていた。
「お前の居場所はこのスタジオにはないんだ。あっても荷物持ちだ。早い方がいい。さっさと荷物をたたんで亡くなったお祖父さんのやっていた実家の惣菜屋でも再開しなさい」
先生の黒く焼けた健康そうな顔は、リゾートで海洋や船舶撮影を終えて来たことを感じる。身だしなみの整ったスポーティな体つきは、どんくさいこの男性とは比べようもないイケメンである。
何も言葉を返せなかった彼、掛須恭介は今写真スタジオを休んでここにたたずんでいた。使い慣れた一眼レフのカメラを握りしめてのことだ。東京から新幹線で約一時間半、所要時間なら名古屋なんてすぐ着く。もやもやの胸中を晴らすべく、生まれ故郷の熱田に舞い戻って来たのだった。
『写真の専門学校を出て、今のスタジオに入ってから二十年。ほかに何ができるんだ?』
自信のない、弱気な気持ちが脳裏をよぎる。邪魔者扱いをした写真家の先生、鷹匠隆正の言った言葉がエンドレスで響いている。当たっているだけに言い返せないダメな自分がいた。
「くっ」
水面を照り付ける強い日差し。頭上で太陽が輝く。
「随分いいカメラをお持ちなんですね」
その声に慌てて振り向く恭介。ここでようやく彼女は彼に話しかけた。
突然、隣に座っていたピンク色の女性が、小分けされたパッケージのチョコがけのプレッツエルを恭介に差し出す。
「どうぞ。未開封ですから大丈夫ですよ。悩んでいる時は甘いものが一番です」と笑顔で話す。満開の花が咲いたようなその笑顔は、彼が二十代なら一目ぼれしそうな美しさだ。
「これはどうも。悩んでいるように見えましたか?」とお辞儀をしてその差し出された袋を手にする彼。四十歳のおじさんにはそういう切り出し方しかない。ナンパと思われても困る。
「ええ、ため息が多いですね。ごめんなさい。隣にいたもので聞こえちゃって」と頷く彼女。年齢は三十歳前後に見える。まだまだ魅力的な年齢だ。
「そっか……」と言って力なく笑う恭介。
「良かったら、見ず知らずの女に話してみませんか? 他人の私なら厄介ごとにもなりませんし、他言の心配もありませんし」と言う彼女。悪気のある顔ではない。だがまだ抵抗のある彼だ。
「はあ」と乗り気ではない返事の恭介。
「ああ、ご無理なら大丈夫ですよ。お節介はやめておきますので。私は目白七里と言います。この先にあるレストランの娘です」
恭介はその苗字に覚えがあった。
「ああ、ル・グラン目白ってレストランがこの先にありますね。昔、グラタンがおいしくてよく食べに行きました」
「まあ、ご存じで。お客様でしたか。ありがとうございます。そうです、そのお店がうちです。私はそこの次女で、長男から数えて三番目の末っ子です」とお辞儀の七里。
「僕は掛須恭介といいます。身元が分かる人なら話してもいいかな。ほんの少しの間だけ僕の愚痴でも聴いてください」と苦笑いで頷く恭介。近所の人間ということで悪意はなさそうだった。少し緊張がほぐれた感じである。
「はい」と優しい笑顔で頷く七里だった。彼女はどこか何かを知っている、内面にそんな思いを含んでいるような雰囲気があった。
「昨日、勤め先の先生に仕事でうだつが上がらないのだから、やめてほったらかしになっている実家の総菜屋でもやってみるってのも一つの生き方だ、と言われましてね。確かに才能のない僕は未だこの歳までなんの賞も取れずに、独立の見込みもない。それだけに先生の言葉は身に沁みました。本当に僕はダメなのかな? って思って、休暇をとって自分を省みるべく、ここで運河を見ているしだいです」
眉間にしわを寄せて、少し不憫そうに顔をしかめる七里。
「まあ、厳しいこと言う先生ですね」
「そうですね。でもその先生の事務所に入れただけですごい優秀って言われるような先生なんですよ」
日本屈指の写真家である鷹匠の弟子といえばだれもが驚くことだ。その分野ではかなりの栄誉だ。
「でも私だったら、たぶんそんなこといわれたら、すぐにでもやめちゃいますよ」と恭介を元気づけるように言う七里。
「いつもはね。温和で優しい先生なのにどうしてこんな、って悩んでいたんです」
「なるほど」
腕組みで相変わらず眉間にしわを寄せる七里。人間関係の希薄なこの現代に、他人のことでこんなに真剣になる人も珍しいと思った恭介はほほ笑む。
「あれ? 私なんか可笑しなこと言いましたか?」と首を傾げる彼女。
「違います。今知り合ったばかりの赤の他人の僕に真剣に悩んでくれるあなたはいい人だなって思ったんです」
「ああ、なんか結局首突っ込んじゃいました」と言ってペロッと舌を出す。ばつ悪そうに頭を掻く彼女。
「そのお総菜屋さんってどこにあったんですか?」
「そこの大津道の交差点、そこのマンションの奥です」というと、彼女は知っている風で、
「ひょっとして神明堂惣菜店ですか?」と懐かしそうな顔で言う。
「ご存じですか?」
まあ五分とかからない距離だ。知っていて当然である。
「行ったことありますよ。っていうか。毎日食べていました。量り売りで小分けにしてくれるから無駄がなくてすごくいいお店でした。年輩のエプロン姿のご主人と三角巾の奥さんの二人で切り盛りしていた家庭の味がするいいお店でしたよね。結構このあたりではファンの多いお店でしたよ。あの店のお孫さんだったんですね」
そう言ってから彼女はしばらく右手で自分の顎をつかんで膝につっかえ棒の姿勢だ。傾げて思案している様子。何を考えているのだろう。
そして数分後、何かを思いついたように恭介の方を向くと彼に訊ねる。
「今からお店見せてもらえますか?」
「え?」
唐突と言えば唐突だ。「はじめまして」の人に店を内見させてほしいと言われたのだから。
「その総菜屋さんの跡地。正確にはその調理場です」
「なんでまた?」
「私、こう見えても料理人の端くれなんです。そこを見ればなにかお手伝いできることが、思い浮かぶかもしれません」
彼女の言っていることはご厚意である。そこが理解できている恭介に断る理由はない。なんせ写真の被写体や構図は知っているが、総菜屋のことなど何一つ知らない自分だ。
「まあ、減るもんでもないのでご覧になりたければどうぞ。ご案内します。ごくありふれた小さなキッチンです」
そういうと立ち上がって、恭介は宮の渡しの公園を後に七里を連れて大津道の方に歩き出した。公園の末端部。そこには運河と橋と複雑な構造の歩道橋が設置された不思議な交差点がある。歩道橋を渡った先には大きなマンションがあり、そのマンションの隣にシャッターの下りた戸建て家屋の総菜屋店舗が見えた。
『神明堂惣菜店』
看板は雨ざらしにされて色褪せてはいるが、読むことはできるし十分に役目は果たせる程度の風化劣化だ。
恭介はポケットから勝手口のカギを出して差し込む。そして古びたノブを回す。
空いたドアの向こうにはきれいに整理された調理道具一式が手入れされて並んでいた。
「うわあ、きれいなままなのね」
七里の言葉に、「月に一回昔のスタッフさんに清掃だけを頼んでいたんです」と恭介。
「これなら考えてもいいか……」とひとりごちる七里。
ひとしきりして、彼女は、「ついでと言ってはなんですがお写真、作品を見せていただくことはできますか? あまり写真のことはわからないのですが、折角お仕事の話を聞いたのでよければ」
「ああ、みんな東京に持って行ってしまって、こっちにあるのは少ないですけど、趣味で撮って来たものがありますよ」
そういって彼はアルバムを数冊奥の部屋から持ってきた。
調理場の奥は畳敷きになっており、「お邪魔します」と言ってそこに上がると七里は、円形のちゃぶ台の上に置かれたアルバムを開いた。
「あら懐かしい写真ですね」と言って興味深く写真に見入る七里。
「この町が大好きでね。神宮と商店やお祭りを被写体に撮って来たんですよ。日記代わりにね」と言う恭介は愛情に満ちた目で写真を眺める。
そこには彼女も知る幼少期から最近までの熱田神宮や神宮前の懐かしいスナップショットが収められていた。熱田の街を知っている人間にとって心温まる良い瞬間が切り取られている。
「このJR駅からの並びの商店街がこんなに活気に満ちた時代もあったんですね。いまはほぼシャッターが下りていますもんね。あ、でも最近は新しい業種の人がぽつぽつ内装リニューアルで入ってきて、復活の兆しは見えますけど」
そんな中の一枚の写真に七里は視線を止める。それは熱田神宮の稚児行列の写真だった。
「何かありましたか?」と隣からのぞき込む恭介。
「これ」と彼女が指さしたのが稚児行列の写真であった。
「ああ毎年春に行われていますよね」
「いえ、そうではなくて、この赤い衣装着てるちっちゃいの私です」と笑っている。しかもその子の写真は、その子ひとりだけのものの他に、母親らしき人と一緒のものも含めて二、三枚ある。
「ああ、これって、迷子になって門の前で泣いていた子を見つけて連れて行った時の写真です……って、じゃあ、あの時の迷子って?」と驚く恭介。
「はい、お恥ずかしながら私です」とすまなそうに挙手する七里。脱力系の笑顔が彼の心を和ませる。
「なんとなく覚えています。カメラ持ったお兄さんが、泣き止まない私を抱き上げて一緒に母のところまで連れて行ってくれたこと」
彼女の言葉に「あの時は高校の写真部の例会展の作品作りで35mmのフィルムカメラを持って神宮周辺をうろうろしてたんです。そしたら、迷子がいるから、この衣装はお稚児さんなので集合場所まで連れて行こう、って話になったんだと思います。それで力のありそうに見えた僕がこの子を抱っこして境内を歩き回りました」と恭介も懐かしそうに当時を思い出す。
「重ね重ね、あの時はお世話になりました」
「そうか、あの時の稚児さんはあなただったのか。じゃあ初対面ではなかったんだ」と少し笑みが戻る恭介。
「守られていますね、二人とも熱田さんに」と笑う七里。
「そうですね」と納得して感無量の恭介。
そして彼女は深呼吸すると「よし、決めました」と言ってパンと手を打つ七里。
「えっ何を?」
前後も脈略もない言葉に、彼女の決断は彼には届いていない。
「ここのキッチンとお店を月借りします。光熱費も込みで支払いますので一週間ほどで見積もりをいただいてもよろしいですか?」と七里。
「別に使っていないので、それはいいですけど、何を始めようというんですか?」
すると彼の問いに彼女は含み笑いでその長い巻き毛の先を肩先で後ろに払いながら、「二十年越しの恩返しってところかしら?」と言った。
それから三か月後のことだった。
新生神明堂惣菜店は、恭介の舌に残る思い出をヒントにしながら当時の商品の七割ほどを復活されることが出来た。あとは追々思い出して商品化するとして、全体の七割ならほぼ定番商品は網羅できているのでオープンの運びとなった。エプロン姿で調理場に立つ七里は厨房と店の両方を巧みにこなしていく。
待ちわびていた近所の神明堂の惣菜ファンはお昼の時間になると大量に押し寄せた。歩道の通りを塞ぐほどの大盛況となった。そしてなんとその中にあの鷹匠先生の姿を見つけた恭介はすこぶる驚いた。
「先生?」と声掛けをする恭介。
すると鷹匠は恥ずかし気に、「この度はおめでとう。店も写真も成功させたな。午後には祝い花を送らせてもらうからね」と笑う。
「ありがとうございます」と言いながらも首を傾げる彼。『店はわかるけど写真?』と恭介には疑問符の残る言葉だ。
何のことかわからずに素っ頓狂な顔をしていると、「あらおじさま、いらっしゃい」と平気な顔で鷹匠に知り合いのような会話をする七里がいた。
「おお、七里ちゃん。久しぶりだね。あれやっぱり受賞したみたいだね」と笑う鷹匠。
「さすがおじさまの審美眼は当てになるわね」
そういうと彼女はまた店内に戻って接客を始める。
「先生、どういうことですか?」と困り顔の恭介だ。何が何だか混乱と不明点のオンパレードと言った顔つきの彼。
すると「じゃあ、答え合わせをしよう」とにこやかに鷹匠が頷く。どうやらすべてをお見通しのようだ。
「お願いします」と恭介。
「うん」と頷いた後、大きく息を吸い込むと鷹匠は機嫌よさそうに話し始めた。
「まず七里はオレの姪っ子だ。彼女の母親がオレの姉でね……」とそこから恭介にとってはすでに仰天である。だがそんなことはお構いなしに続ける鷹匠。
「それで君と彼女が味の再現で研究をしているさなか、彼女からいくつかのポートフォリオを預かったんだ。その中に熱田神宮と神宮前のスナップショットがあった。バブル前の頃から駅舎が建て替わった最近のものまでを収めたものだった。熱田愛に満ち溢れた歴史ドキュメンタリーが綴られていた」
彼は『最初に彼女に見せたあれか』と合点がいった。
「君は自然風景はあまり得意じゃなかったが、三脚を使わないスナップショットで時代を切り取るスタイルのものは得意なんだと改めて実感できた。機動力を持った自由自在の切り口に躍動感と人情味のある面白い作品が多かった。そこでその中の組写真を応募作品として出してはどうかと七里に提案したんだ」
「はい、彼女が応募してもいいか、と訊いてきたのでOKをしました」と頷く彼。
「この度、その組写真がどうやら愛知県知事賞をとったようだよ。関係者にはアナウンスが来た。新聞発表は明日のようだな。君は関係者なので伝えておくよ。無冠の君がようやく戴冠できたということさ。じきに表彰の知らせと式典への参加の連絡が来るよ」
そういうと鷹匠は、「そしてここで写真事務所を開くといいよ。店の一部を使ってね。鷹匠組の支部として雑誌には連絡先にしておくからその時が来たら詳細を打ち合わせしよう」と握手をしてきた。
「はい」という彼の目には少しばかり涙が溜まっている。いつまでも、じれすぎて感覚がマヒして、自暴自棄になった日々の苦労は、波がすべてをさらうように時が持ち去っていった。
その夜のことだった。恭介は鷹匠から聞いた話を七里に伝えてみた。
すると七里は軽い笑顔で、「その通りよ。でもね、なんでそんなお節介をしたのかって話でしょう。あなたの努力を知って、あなたの性格を知ったからよ。祖父母の思いは、本人がやりたいことで生きていくのが一番と言っていたんでしょう。だれがその邪魔をできるのよ。ひとりで耐えてきたその思いはきっと熱田さんに通じたんだわ。それがあなたと私を引き合わせたのよ。そうすれば写真のお仕事も出来るし、祖父母のお店も守れるじゃない。そうじゃなきゃ、あなたの人生、そしてあなたの祖父母の人生が報われないし、割に合わないでしょう。私はそのお手伝いをしたまでよ。ねえ、そうでしょう、新米写真家先生」と言った。その優しい微笑みは幸せに満ちていた。
彼女がそれを言い終えた頃には彼女の華奢な体は、彼にきつく抱きしめられていた。
了




