第4話 嘘を脱ぎ捨てるための温かい卵雑炊
「カタン」
乾いた音が、ほんのりと明るくなり始めた路地に響く。
木製の看板の文字が、『CLOSE』から『OPEN』へと裏返った。
東京、ビジネス街の端。
六月の朝。外はしっとりとした空気が、街全体を包み込んでいる。
アスファルトはまだ夜の雨に濡れたままで、ところどころに小さな水たまりが残っていた。
店主・榊 創志は、店内にすでに座っている一人の客を見て、わずかに眉を寄せた。
「……兄さん、朝からこんなところに来て、神社の方は大丈夫なのか?」
「いいんだよ。たまには創志の手料理食べたいしな。……ついでに、お前の顔を見に来てやった」
神職の装束ではないが、そこに座っているだけで異様に凛とした空気を纏う男。榊の兄・結志だ。
「……ちょっと待っててくれ。仕込みは終わってる。今から作るから」
「悪いね、六時半には戻らないといけないんだ」
トントントントン――。規則正しい包丁がまな板を叩く音。
しゅんと音をたてて立ち上る、白米の甘い湯気。
誰かの一日は、ここから動き出す。
「おはようございます。『ASAごはんdining』、開店です」
*
「凛太郎くん……だったかな。ありがとう。創志が世話になってるみたいで」
「あっ、いえいえいえ! こ、こちらこそ、お世話になっております……! はいっ……」
榊はのれんの奥で小さく吹き出した。
凛太郎があれほどガチガチに緊張するのも無理はない。
兄の結志は、ただ、そこにいるだけで不浄なものを寄せ付けないような、独特の「圧」がある。
兄が実家の神社の跡を継ぎ、代替わりをしたのを機に、榊はこの店をオープンさせた。
落ち着くまでは神職の仕事を手伝ってほしかったらしい兄は、ことあるごとに「いつ戻ってくるんだ」と、からかい半分に釘を刺しにくる。
榊がここを、朝だけの聖域として選んだ理由も知らずに。
「……お待たせしました。今日の『日替わり』だ」
兄の前に出されたのは、皮目をパリッと焼き上げた旬のイサキの塩焼き。瑞々しいカボスが添えられている。
その隣には、箸を入れると出汁が溢れ出すだし巻き卵と、味が染みた茄子の揚げ浸し。お椀の中の味噌汁は、新玉ねぎの甘みとあおさの磯の香りが、湯気と優しく混ざり合っていた。
「凛太郎の分もある。客が来る前に食べておけ」
「あ、わーい。ありがとうございます」
凛太郎は緊張で顔をこわばらせながらも、結志の隣に座った。
手早くスマホで写真を撮ると、二人は黙々と箸を動かし始める。
「兄さんは、ゆっくり食べていてくれ」
「ああ。そうさせてもらうよ」
*
凛太郎が最後の一口を飲み込んだ時、「チリン」と入り口のベルが鳴った。
入ってきたのは、二十代後半ほどの細身の男だ。
明るく染め上げられた髪。仕立てのいいスーツに、一目でそれとわかる高級ブランドの時計。
朝の爽やかな空気の中ではひどく場違いな、繁華街の夜から逃げてきたようなホストだった。
男は店内に入るなり、胃を押さえるようにしてわずかに顔を顰めた。
香水と酒、それからタバコの匂いが、出汁の香りに満ちた店内に異物のように混ざり込む。
「……いらっしゃいませ」
榊の声に、男は力なく視線を上げた。その瞳には、高価な装飾品さえ、その疲労を浮き彫りにさせているようだった。
体調が悪いのか、飲み過ぎなのか――彼の顔は土気色をしていた。
一つ空けた隣の席で箸を置いて見上げる結志の、睨むような鋭い視線に、男は気圧されたのか動きを止めると、そろりと椅子に腰を下ろした。
そして男はメニューをじっと見ながら、ふーっと息を吐いた。
「はぁ……。胃が受け付けないけど、なんか入れないと……」
小声の独り言に、榊は静かに声をかける。
「今日の日替わりはイサキの塩焼きですが……お客様、あまり体調が良くないようですね。おまかせにしますか?」
「え、あー……わかる? 最近胃の調子悪くてさ。じゃあ、おまかせ頼もっかな」
「承知いたしました」
榊はおしぼりをウォーマーから取り出し、男の手元へ差し出した。
男の細く長い指が、榊の指先に触れる。
榊は意識を集中させ、その奥にあるものを視通した。
(……今この人が食べるべき食事――)
瞼の奥が一瞬白く弾けて、ビジョンが広がる――。
そこは古びた小さなアパートの一室。若い母親が、小さな片手鍋をテーブルに置いた。
湯気の中からぼんやりと現れたのは、柔らかな黄色の記憶。鼻をくすぐる、どこか安っぽいけれど懐かしい香り。
スプーンですくい上げたその中に、無造作に切られたウインナーが混ざっている。
榊はハッと現実に戻った。じっとこちらを窺う結志と一瞬目が合ったが、何も言わずのれんの奥へと身を引いた。
コンロに火をかけ雪平鍋に丁寧にとった出汁を入れる。
温まるまでの間に、トントントンと軽快な音を立てて、数本のウインナーを輪切りにした。
一度炊いた米をザルに入れ、流水でサッと洗って鍋に入れる。水気を切った米が、一粒一粒出汁を吸いふっくらと膨らみ始めた。
「お仕事帰りですか?」
凛太郎が、さりげなく男に言葉をかける。男は苦笑いを浮かべて答えた。
「あー……まあね。見た目でわかるよね? 俺ホストやっててさ。この辺に住んでんの」
「そうでしたか。お疲れ様です。……その顔、一晩中戦ってきた証拠ですね。俺も昔、徹夜続きだったからわかるんですけど、こういう時は、無理に食べるより『染みるもの』が一番ですよ」
凛太郎の自然な共感に、男は本音をポロリと吐き出した。
「そうなんだよな。最近、正直ストレスっていうか。胃の調子も戻らなくてさ」
「大変なお仕事ですから、どうしても溜まるものはありますよね」
「……うん。毎日、嘘ばっかり口にしてると……。結構、くるんだよ」
のれん越しに、凛太郎と男のやりとりが榊の耳に届く。
毎日、嘘ばかり口にしている。その言葉の重みを、榊は仕上げの溶き卵を流し込む手元に込めた。
「お待たせしました。『おまかせ』です」
コト、と男の前に置かれたのは、湯気を上げる卵雑炊。
黄金色の卵が、雲のようにふんわりと米を抱き込んでいる。
その柔らかい黄色の中から、輪切りにされたウインナーの赤が鮮やかに顔を覗かせていた。
脇にはお新香。そして出汁を含んだ茄子の煮浸しに、粗めにおろした大根おろしが添えられている。
「うわ。なに、これ雑炊……。え、まさかこれ、ウインナー!?」
「はい。胃の弱っている時にはこれが一番です。ウインナーは……少しでも食欲が出ればと思いまして」
男は「……いただきます」と呟き、れんげを手に取った。
そっと一口、口へと運ぶ。その味を噛み締めた瞬間、絶句した。
出汁の旨みと卵のまろやかさが、静かに喉を滑り落ちていく。
彼の脳裏には、幼い日に過ごしたあの小さな部屋の光景が蘇っていた――。
◇
「陸ちゃん、風邪のときはこれが一番なんだよ」
小さなボロアパート。テーブルの上に置かれた片手鍋の中には、母さんが作ったふわふわの卵雑炊があった。
母さんは、父さんと離婚してから、たった一人で俺を育ててくれた。
貧しかったけれど、母さんはいつも笑っていた。
「はふっ、……あ、あちっ」
幼い頃、俺が風邪をひくたびに作ってくれたのが、この卵雑炊だった。
「フーフーして食べなきゃ。陸ちゃんの大好きなウインナー、たくさん入れておいたからね」
幼い頃の俺は、そんな優しい母さんとひとつ約束を交わした。
「ぼく、いつかお母さんに、おっきなおうちを建ててプレゼントする!」
「あら、嬉しい。お母さん、楽しみに待ってるわね」
母さんはそう言って、俺の頭を優しく撫でた。
けれど、高校三年生の時、母さんは泣きながら俺に謝った。
「ごめんね、陸。お母さんに力がなくて、大学に行かせてあげられなくて……」
「……母さん、いいんだよ。俺、東京に行って、いっぱい稼ぐから。絶対に母さんを喜ばせてみせるから――」
◇
「――俺、母さんに家を建ててやるために、東京に来たんだった……」
陸の、れんげを持つ手が止まった。
夜の世界で何年も働き、毎日お酒を飲み、毎日嘘ばかり吐き続けているうちに。
なぜこんなにボロボロになってまで働いているのか。なぜ東京へ来たのか。
いつの間にか、一番大切な理由を見失っていた。
陸は、おまかせ定食を綺麗に平らげると、顔を上げて榊をまっすぐに見た。
「……これ、マジで染みました。また来てもいいですか? 朝ごはん食べに」
「ええ、いつでもお待ちしております」
「しばらく実家に帰ろうと思います。……戻ってきたらまた寄りますね」
陸の頬には赤みが差し、来店時より瞳に光が宿っていた。
榊はその顔を見て、微笑みながら静かに頷いた。
榊と凛太郎は、憑き物が落ちたような背中を見送りながら、声を揃える。
「「いってらっしゃい。お気をつけて」」
チリン、とドアが閉まり、店内に再び穏やかなジャズの音色が戻る。
凛太郎は「ふぅ」と息を吐きながら、結志の方をチラリと見た。
「……あの、結志さん。さっきのお客さん、めちゃくちゃ睨んでませんでした? ビビってましたよ」
「……睨んだつもりはないんだが。ただ、目が合っただけだ」
結志は心外そうに眉を寄せた。その様子に、榊が厨房で小さく笑うと、のれんを少しだけ持ち上げてそっと顔を覗かせた。
「兄さんは昔から目つきが鋭すぎるんだよ。自覚がないだけでな」
「そうなのか……。悪いことしたな」
結志は少しだけバツが悪そうに、空になった皿を見つめ、それから弟の方へ視線を向けた。
「……創志。お前がここでやっていることは、あの時言っていた……お前にとっての『日供』なんだな」
「ニック? お肉のことですか?」
凛太郎の問いに、結志が教えを諭すように答える。
「毎日供える、と書いて『日供』だ。神社では毎朝、神様に食事を捧げて、今日一日の無事を祈る。神主の家系なら一生続ける、大切な儀式だよ」
結志はそこまで言って、カウンターの奥で鍋を磨く榊に視線を戻した。
「……だが創志。あえて神の道ではなく、料理人としてこれを選んだ理由はなんだ。それに、なぜわざわざ『朝』の店なんだ」
榊は手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「……朝は、昨日と今日を切り離す境界線だから」
その言葉に、結志が静かに耳を傾ける。
「人はみんな、昨日までの疲れや後悔、外で戦うための鎧を無意識に纏って生きている。それは寝ても起きても、心のどこかに『澱み』として残ってしまうものなんだ。さっきの彼も、目的を見失ったまま、その重荷を背負っていた」
榊は、凛太郎の前に置かれた空のどんぶりを指差した。
「だからこそ、朝に食べさせたい。一日の始まりに、昨日までの澱みを一度洗い流して、まっさらな状態で今日を踏み出してほしい。……神に捧げる『日供』がその日の平穏を祈るものなら、私が作る朝食は、その人がその人らしく生きるための『禊ぎ』でありたい。……なんて、兄さんには釈迦に説法か」
「……」
「この能力が、祝福か呪いかはわからない。でも……昨日を越えてきた誰かを、新しい今日へ送り出す手助けができれば、これ以上のことはないよ」
結志は、弟の言葉を噛み締めるように聞いたあと、ふっと柔らかく目を細めた。
「……お前なりの『神職』というわけか。いいだろう。お前の『日供』、確かに受け取った。ごちそうさま」
結志はレジで財布を閉じ、榊と目を合わせた。
「創志、そう遠くないんだ。たまには帰ってこい。父さんが暇してる。相手してやってくれ」
「……分かったよ、兄さん」
榊は困ったように笑うと、結志は軽く手を上げた。
「あぁ、見送りはいい。……また食べに来る」
ドアのベルが「チリン」と鳴り、静かに閉まる。
「結志さん、怖かったけどかっこよかったですね」
「……まさか店に来るとは考えてなかった。多分この能力を使っているところを見ることも理由の一つだろうな」
「へぇ。こういうのはやっぱり神主さんは頼りになりますね」
記憶の味は、昨日までの澱みを洗い流し、今日を照らす光になる。
街に溢れた人波のどこかで、夜を越えてきた誰かが、この店で本当の自分を取り戻せますように。
『ASAごはんdining』の朝は、まだ始まったばかりだ。
第四話 完。
――――――――――――――――――――
【店主のレシピ:ふわふわ卵とウインナーの雑炊】
◆主な材料(一人分)
・冷やご飯(一度洗いぬめりをとったもの)……茶碗1杯分
・ウインナー(薄い輪切り)……2〜3本
・卵……1個
・出汁……300ml
・薄口醤油……小さじ1
・みりん、酒……各小さじ1
・塩……少々
・トッピング……小口ねぎ、お好みで白胡麻、生姜など
◆榊のひとこと
少しでも風邪の気配を感じるようでしたら、ぜひ生姜を足してみてください。ウインナーの脂を良質な熱に変えて、体を芯から温めてくれます。




