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第3話 アジフライが繋ぐ、あの日の焼きそばで拾った命


「カタン」


 乾いた音が、明るくなり始めた路地に響く。

 木製の看板の表情が、『CLOSE』から『OPEN』へと変わった。


 東京、ビジネス街と住宅街の境界線。

 五月の朝。ドアを開ければ、肌寒さがすっかり影を潜め、空気はほんのりと甘い。

 深く息を吸い込めば、自然と胸の奥が静かになるような、柔らかな空気が染み渡る。


 店主・(さかき) 創志(そうし)は、菜箸を片手に鍋の前に立っていた。立ち上る湯気を顔に浴び、軽く目を細める。


 トントントントン――規則正しい包丁がまな板を叩く音。

 しゅんと音をたてて立ち上る、白米の甘い湯気。

 誰かの一日は、ここから動き出す。


「おはようございます。『ASAごはんdining』、開店です」



 *


「先輩、おはようございます!」


 朝の四時半だというのに、太陽のような笑顔で出勤してきた古閑凛太郎に、榊はわずかに口角を上げた。


「……おはよう。凛太郎は、相変わらず朝早いのに元気だな」

「そうっすね! 早くに寝て早く起きる。このリズムが、今の俺の(しょう)に合ってるみたいです」


 

 凛太郎の店内の掃除がひと段落した頃、榊は無言で、一人分のトレーをテーブルの上に置いた。


「わっ! 今日の日替わりですか?」

「……ああ。今日は『肉じゃがとアサリの味噌汁』だ」


 凛太郎は「待ってました」と言わんばかりに駆け寄りスマホを取り出すと、湯気が美しく映える角度を探して、手際よく写真を撮った。

 席につき、行儀よく「いただきます」と手を合わせる。

 

「――うっま。朝から染みるなぁ……。この肉じゃがの甘さと、アサリの出汁が喧嘩しないで、こう、体の中で溶けてく感じです」


 ホクホクとしたジャガイモの肉じゃがとアサリの旨みが凝縮された味噌汁。添えられた「春キャベツとツナの和え物」の小鉢が、食卓の彩りを添えていた。


 凛太郎が試食を終えたのとほぼ同時に、入り口で「チリン」とベルが鳴った。

 ドアの隙間から顔だけ覗かせた男性が、店内の様子を伺うように声を上げる。


「……すみません。もうお店、やってますか?」


 凛太郎がパッと営業用の明るい顔に切り替えて応えた。


「はい! いらっしゃいませ、やってますよ。お食事ですか?」

「あ、お願いします」


 男性はドアを開けたまま、背後へ向かって手招きをした。


颯太(そうた)、ほらやってるって。ここで朝ごはん食べて帰ろう」


 促されて入ってきたのは、大きなリュックを背負った小学生くらいの男の子だった。

 二人は、肌を赤く火照らせ、手には立派な釣り竿を持っている。徹夜明けなのだろうか、父親の顔には隠しきれない疲労が滲み、一方で「颯太」と呼ばれた男の子は、あからさまに不機嫌な顔で椅子に座り込む。


「颯太、何食べる? ……って『日替わり』か『おまかせ』のどちらかみたいだぞ」

「……」


 父親が優しく声をかけるが、颯太くんは口をへの字に曲げ、窓の外を向いたまま無言を貫いている。

 

「……今日の日替わりは肉じゃがとアサリの味噌汁です。おまかせは、こちらで内容を決めさせていただきます」


 榊の言葉に、父親は申し訳なさそうに笑った。

 

「へぇ、美味しそう。じゃあ僕は、『日替わり』で。颯太は――」

「ぼく……おまかせがいい」

「そうか。……すみません、それでお願いできますか?」

 

「はい、承りました」


 凛太郎がにこりと笑顔を向ける。

 榊はウォーマーから取り出したおしぼりをまず父親に渡し、次に颯太くんの前へ差し出した。

 榊の細く長い指と、颯太くんの短く、まだ丸みの残る指先が接触する。


(――これは)


 榊は、その味と背景を、静かに脳内に焼き付けた。

 噛んだ瞬間、サクッと小さく弾ける衣。

 熱と一緒に溢れ出す魚の旨みと、そこへ追い打ちをかける染みたソースの刺激。

 そして、二人が夜の海で過ごした時間の断片――。



「――お客さん、もしかして夜釣りに行ってたんですか?」


 凛太郎の明るい声が、榊を現実に引き戻した。

 榊は無言で頷き、のれんの奥へと身を引く。冷蔵庫を開けると、整然と並ぶバットの中から今朝届いたばかりのアジを手に取った。

 

 流れるような手つきで鱗を取り、腹を割いて骨を抜く。


(……いい身だ)


 衣を纏わせて、熱した油の中へ。

「シュワーッ」と高い音が響き、香ばしい匂いが広がった。

 

 榊が集中して鍋に向き合う間、のれんの向こうから凛太郎と親子の会話が小さく聞こえてきた。


「いいなぁ。俺も、小学生の頃はよく父親に釣りに連れて行ってもらったんですよ」

「そうですか! ……でも、お恥ずかしい話、今日は『ボウズ』でしてね。一匹も釣果がなかったんですよ」

「あはは、そんな日もありますよね。でもその時間が一番の贅沢ですよ」


 凛太郎の穏やかなフォローに、父親は少しだけ顔を綻ばせた。

 だが、隣に座る颯太くんは、我慢していたものを吐き出すように顔を上げた。

 

「……お父さんが『今日はアジ釣りに行ってお母さんを喜ばせよう』って言ったんだもん! ぼく、お母さんにプレゼントするって約束したのに……!」

「ごめんな、颯太。お父さんが下手くそだった。次は、次は絶対プレゼントしよう」


 颯太くんの瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。

 父親は困ったような申し訳なさそうな顔で、颯太の頭を優しく撫でた。


「颯太くん、釣りって釣れないことも『アリ』なんだよ?」


 凛太郎が、カウンターに身を乗り出して、落ち着いた口調で言った。

 

「お父さんに釣りに連れて行ってもらえる子なんて、本当はそんなに多くないんだ。俺、今の颯太くんが羨ましいよ。釣れなくてもお父さんと一緒に一晩中過ごせたんだから。……それはね、お魚一匹よりも、ずっと凄いプレゼントだよ!」


 凛太郎の言葉は、明るい声なのに、どこか遠くを見ているようだった。


 *


「お待たせしました。『日替わり』と『おまかせ』です」


 二人の目の前にそれぞれの定食が置かれる。


「アジフライだ!!」


 颯太くんの定食の皿には、盛ったキャベツに黄金色に揚がったサクサクのアジフライが二つ。ポテトサラダとミニトマト、それからタルタルソースが添えられている。


「今日のおまかせです」


 榊はそれだけを言って、微笑んだ。

 颯太くんはアジフライを箸で持ち上げると、その重みに目が丸くなる。そして、大きな口を開けてかぶりついた。

「ザクッ」と音を鳴らした瞬間、中から閉じ込められていた白い湯気が、ぶわっと溢れる。


「……熱いけど、美味しい! ……お母さんが作るのと同じくらい!」

「良かったな、颯太」


 颯太くんが、やっと顔を綻ばせたのを見ていた父親は、安堵したような顔で笑った。


「お母さんのお土産、これがいい!」

「ええ? マスター、これテイクアウトできるんですか?」

「ええ、大丈夫ですよ。準備します」


 *


「ありがとうございました! ここに寄って良かった」


 お土産のアジフライを大事そうに抱えた颯太くんと、その肩を優しく抱くお父さん。

 釣り竿を持つ二人の背中を見送りながら、榊と凛太郎の声が重なる。


「「いってらっしゃい、お気をつけて」」


 チリン、とベルが鳴りドアが閉まる。

 五月の明るい朝の光が差し込む店内に、再び静かなジャズの音色が戻った。


 凛太郎は空になった皿を片付けながら、ふと、先ほど親子が消えていったドアの方を見た。

 それは眩しいものを見るような視線だ。


「……先輩」

「なんだ」

「なんか俺も昔のこと、思い出しちゃいました。やっぱり中学の時のことだけ、思い出せないんだなってことも、再確認しちゃいましたけど」

「……」


 自嘲気味に笑う凛太郎を、榊は黙って見つめた。

 皿のぶつかる音も、流れるジャズの音色も遠のき、榊の意識は、凛太郎と過ごした眩しい大学時代へと遡っていく――。


 ◇


「――うまっ! うまいです。先輩のだけ味が違います!」


 大学三年、秋。学祭で友人の模擬店を手伝っていた時だった。

 その友人のサークルにいた一年の古閑凛太郎は、明るく太陽のような笑顔で私の前に現れた。


 ただの屋台の焼きそばだ。けれど、私は性分で、ソースについ隠し味を忍ばせて作っていた。

 それに真っ先に気づいたのが、彼だった。


 凛太郎はそれから、私を慕ってついて回るようになった。

 静かな時間を好む私だったが、自分にはない天真爛漫さと、何より私の作る料理を幸せそうに食べる彼を放っておけず、卒業するまでの一年半、多くの時間を共有した。

 私の家で料理を振る舞えば、いつも「うまいうまい」と完食した。

 

 そんな時間の中で、彼はぽつりと打ち明けたことがあった。

 両親が亡くなっているということ。そして、その死を挟んだ中学三年間――家庭の中でどんな風に過ごし、何を食べていたか、その時期の記憶だけが抜け落ちていることを。


 卒業と共に、私たちはそれぞれの社会へと踏み出し、いつしか連絡は途絶えた。


 再び彼と再会したのは、私がこの店を始めて一年も経たない、ある朝。

 

 「チリン」とベルを鳴らして入ってきたのは、一人の客だった。


 カウンター越しに目が合った瞬間に、お互いがすぐに気がついた。

 久しぶりの凛太郎は、まだ若いはずなのに着ているスーツはくたびれている。最後に見た学生時代の彼よりも、少し痩せて目の下には色濃いクマが張り付いていた。

 

 聞けば、勤め先は所謂『ブラック企業』だという。

 返事をする声には覇気がなく、ただ生きるために体を動かしているような、力の抜けた疲労が漂っていた。

 

 あの眩しい笑顔を知っているだけに、私は言葉を失うほどの衝撃と、胸に刺さるような悲しみに襲われた。

 このままでは、彼は遠からず壊れてしまう。直感的にそう確信した。


 私は彼がほんのわずかでも元気になってほしいと願い、『視る』ことを強く意識して、彼の手に直接触れた。

 

 けれど――。


(何も、見えない……?)


 視界に広がったのは、音も温度もない、真っ白な霧だけだった。

 自分の能力が全く通じなかったのは、初めてのことだった。


(視えないのか……)


 私は能力に頼るのをやめ、厨房へ戻った。

 視えないのなら、私が覚えている凛太郎の好物を作ればいい。

 私は、学生時代に初めて食べた私の作った料理、「隠し味を効かせた焼きそば」を差し出した。

 

「あれ、これ……」


 凛太郎は小さく呟き、手を震わせて箸を取った。

 彼は味を確かめるように、一口一口、ゆっくりと麺を口へ運ぶ。


「……懐かしいです。……学生の頃、楽しかったですね。数年前なのに、もう、忘れかけていました……」


 凛太郎は唇をキュッと引き結んだ。今にも泣き出しそうな、必死に堪えているような顔で静かに呟いた。

 私は、静かに、そして真っ直ぐに伝えた。

 

「凛太郎。会社を辞めて、ここで私と働かないか?」



 ◇


 無茶苦茶な誘いだったと、今でも思う。

 けれど、あの日焼きそばを噛み締めていた凛太郎を、私はどうしても放っておくことができなかった。



「先輩、どうしました?」


 目の前には棚の皿を丁寧に重ね、いつもの明るい笑顔を浮かべる凛太郎がいる。過去の「死人」のような面影は、もうどこにもない。


「……手が止まっているぞ。凛太郎」

「えー! 今、あのアジフライの余韻に浸ってたんですよ! 美味しそうだったなぁ〜」


 凛太郎は口を尖らせながら厨房へ向かった。


 あいつが失くしたままの、中学時代の記憶。

 私の()をもってしても視ることはできない。


 その空白を埋める日が来るのか。

 それとも、埋める必要さえないほどに、今の彼に「思い出の場所」ができるのか。



 私は、新しい布巾を手に取って、カウンターを丁寧に拭き上げた。


 記憶の味は、明日を生きるための力になる。

 誰かの新しい一歩を支えるために、この店はある。


 『ASAごはんdining』の一日は、まだ始まったばかりだ。




 第三話 完。




――――――――――


【店主のレシピ:アジフライと焼きそば】


◆主な材料

◎黄金色のアジフライ(二人分)

 ・真アジ(刺身用がベスト)……2〜4尾

 ・塩コショウ……少々

 ・小麦粉、溶き卵……適量

 ・生パン粉(粗め)……たっぷりと!

 ・揚げ油……適量


◎伝説の焼きそば(一人分)

 ・焼きそば麺(蒸し)……1玉

 ・豚バラ肉……50g

 ・キャベツ、もやし……適量

 ・天かす……大さじ1

 ・【特製ソース】

  ・市販の粉末ソース

  ・隠し味……オイスターソース(小さじ1)

  ・隠し味……カレー粉 (ひとつまみ)


◆凛太郎のふたこと

 アジフライにはソースもタルタルもいいけど、俺はやっぱり『わさび醤油』や『岩塩』を推したいです!

 アジの旨みがダイレクトに脳に来るんですよ!


 焼きそばは、最後、お皿に盛る前に『鰹節の粉』をパラっとかけると、香りが爆発します! これを食べると、あの頃の楽しい日々と、榊さんのちょっと怖い顔を思い出します(笑)


「……凛太郎。余計なことを言っていないで、熱いうちに食べなさい」

 

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