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第2話 悪魔おにぎりとコロッケで、校舎裏の続きを


「カタン」


 乾いた音が、まだ眠気を含んだ路地に響く。

 木製の看板が裏返り、看板の文字が『CLOSE』から『OPEN』に切り替わる。


 東京、ビジネス街の端。

 まだ冷たさを残した朝の空気が、緩く解け始めている。

 何かが動き出すような空気は、今日から四月だと言うことを思い出させてくれた。


 店主・(さかき) 創志(そうし)は、(のり)の効いた白シャツの袖を折り返し、厨房の定位置に立った。


 トントントントン――規則正しい包丁がまな板を叩く音。

 しゅんと音をたてて立ち上る、白米の甘い湯気。

 誰かの一日は、ここから動き出す。


「おはようございます。『ASAごはんdining』、開店です」


 *


「そういえば先輩、お店のSNSに篠原さんからお礼のメッセージが来てましたよ。お花、喜んでもらえたみたいです」

「……そうか」

「先輩、今日の日替わり、並べましょう! 写真撮ってアップするんで」

「……そう言いながら試食目当てだろう」


 榊はカウンターに座る凛太郎の前に、そっとトレーを置いた。


「今日の日替わりは、『朝のうどん定食』だ」

「うどんっすか!? うわ、うまそ」


 凛太郎がスマホを構え写真を撮る。

 湯気の立つ透き通った黄金色のつゆに、つるりと白い細打ちのうどん。

 そこへ、店で揚げたばかりのサクサクの天かすと、肉厚なワカメがたっぷり載っている。


「いっただきまーす!」


 凛太郎が幸せそうにうどんを啜った。


「……うまぁ。今日の出汁、いつもよりさらに優しい味がしますね」

「……今日は雨上がりで湿気が多い。少しだけ塩味を抑えて、出汁の旨みを立たせた」

「さすがマスター。この天かすが溶け出したところが、またコクが出て最高なんですよ。ワカメの磯の香りも、朝の脳に効く感じ」


 凛太郎は「あちっ」と言いながらも、セットの昆布が入ったおにぎりを頬張った。


「これなら二日酔いの人も、食欲がない人でもイチコロですね。ご馳走様でした!」


 凛太郎が食べ終わったトレーを片付け、スマホでSNSの更新作業に入った。

 榊は、その様子を横目で眺めながら、自分用の湯呑みに少しだけ出汁を注いで口にした。


「……凛太郎。SNSもいいが、おしぼりの準備はできているか」

「わかってますって! 今日の分、ちゃんと温めてありますよ」


 凛太郎が自信満々にウインクしたのと同時に、入り口のベルが「チリン」と鳴った。

 体格のいい、二人組の客が店に入ってきた――。


 *


「うわ、デカ……」


 凛太郎は思わず声を漏らしたのも無理はない。

 入ってきたのは、揃いのジャージを着た、見上げるほど背の高い三十代後半に見える二人の男だった。

 がっしりとした大きな肩幅。引き締まった腰つき。一目で、並大抵ではない鍛え方をしているアスリートだと分かる。


「いらっしゃいませ。……こちらへどうぞ」


 榊は動じることなく、カウンターの奥の席を促した。

 二人が丸椅子に腰を下ろすと、カウンターがいつもよりも低く見える。


「……腹減ったなぁ。試合前の調整とはいえ、朝から動くと堪えるわ」

「だからって、お前は食いすぎなんだよ、祐輔(ゆうすけ)


 茶髪で人懐こそうな顔をした男・祐輔と、短髪でどこか神経質そうな鋭い目つきの男。

 メニューを眺め、祐輔が先に口を開いた。


「へぇ。二種類の朝定食かぁ。俺、日替わりの『うどん定食』で! 大盛りできます?」

「はい、承ります」


 凛太郎が明るく応え、もう一人の男に視線を向ける。

 男は少し迷うように眉間に皺を寄せ、お品書きの『おまかせ定食』という文字をじっと見つめていた。


「……俺は、おまかせで。……内容は決まってないんですか?」

「ええ。お客様に、今一番ぴったりなものをお出しします」


 榊の答えに、男は鼻で短く笑った。信じていないが、面白そうだ――そんな顔だ。

 榊はウォーマーからおしぼりを取り出し、男の前に差し出した。


「どうぞ」


 男が大きな手でおしぼりを受け取る。

 どっしりと厚い胸板、強靭な腕の筋肉。けれど、その指先はわずかに震えていた。

 榊と男の指が接触する。


(――視える)


 榊の視界は白くなり、それが開けたときに見えたのはどこかの学校の校舎の前。

 手に持っているビニール袋からそれを取り出し、一口かじる。


(これは……)


 榊はその料理の「正体」を、味覚と視覚から、一滴残らず吸い上げた。

 鼻を抜ける磯の香り。

 しっとりとした衣の中の玉ねぎとじゃがいもの甘み。


「……っ」


 榊は、奥歯を噛み締めて現実に戻った。

 目の前の大きな男は、無愛想に前を見据えている。


「マスター?」

 

 凛太郎が心配そうに覗き込む。

 榊は無言で頷き、のれんの奥へと消えた。


 炒めた玉ねぎと、蒸したじゃがいも。それから、隠し味の「砂糖」。

 ジュウジュウと、油で揚げる音が響く。

 だが、榊は揚がったそれをすぐには盛り付けない。


 彼はそのまま、窓から差し込む朝の光の中に置いた。

『熱を逃がし、味を落ち着かせる時間』

 その数分間こそが、この料理の最後のスパイスだ。


 調理をしている間も、二人の会話が小さく聞こえてくる。


「――コーチとか目指すの?」

「いや……、もう潮時かな。そう思ってる」

「ふーん。俺らも、いい歳だからな。俺もそろそろ宣告されるわ」

「……お前は実家を継げばいいだろう?」


 どうやら、アスリートとしての今後の見通しを話しているようだ。

 会話が途切れたところで、凛太郎がニコニコと彼らに話しかけた。

 

「お客さん、アスリートかなんかですか? すごい筋肉だし」

「ん? 俺たち、バレーボールの実業団に入ってんだ。もう長老だよ、はははっ!」


 *


「このうどん、うめぇ!」


 日替わりのうどんを勢いよく食べる祐輔。その隣で、スマホを見て待つ男の前にそっとトレーが置かれた。


「……お待たせしました。おまかせ定食です」


 彼の前のトレーの上には、『悪魔おにぎりと冷ましたコロッケ』が並ぶ。


 おにぎりはどこか愛嬌のある三角形。

 海苔は巻かれておらず、代わりに淡く琥珀色に染まった米粒の間から、緑の青のりと白い胡麻が覗く。


 そして、小ぶりなコロッケが四つ並べてある。

 揚げたての熱を逃したそれは、衣が少ししんなりとしていて、きつね色よりも少しだけ深い色。


「……な、なんですか。これは」


 眉間に皺を寄せ、榊の顔を怪訝そうに見ながら言った。


「これは『天かすを使ったおにぎりと、冷めた甘いコロッケ』です」

「――っ!」


 男は大きな指でおにぎりを掴み、一口かじりつく。

 青のりの芳しさが鼻を通り抜け、米の奥に潜む「天かす」に到達した。


 めんつゆを吸い込んだ天かすは、衣のサクッとした食感を残しながら、噛んだ瞬間にじわ、と濃厚な出汁の旨みを溢れさせた――。

 

 ◇


『今日も交換しよーぜ!』

『いいのかよ、俺コンビニのサンドイッチだぜ?』

『俺も毎日一緒のおにぎりとコロッケなんだよ。サンドイッチ食いたい』

和也(かずや)んちのばあちゃんのコロッケも、母ちゃんのおにぎりも最高だもんな! サンキュ』


 すでにバレーボールを本気でやっていた高校時代。

 朝練が終わると、あいつと二人で校舎の裏に座り込んだ。

 汗の残るシャツのまま、ビニール袋からおにぎりとパックに入ったコロッケを取り出す。


 お互い、毎日同じメニューの朝食でいつからか一つずつ交換することが、決まりのようになっていた。


 特別な約束なんてないはずなのに、毎日、同じ場所で同じように食べていた。


 朝の空気はまだ冷たくて、遠くでボールの弾む音がしている。

 今思えば、忙しい高校生活の中で、あの時間だけは少しゆっくり流れていた気がする。


 ――あいつは、よく笑うやつだった。


 練習でもきついはずなのに「もう一本行こうぜ」と笑って、誰よりも先にコートに戻る。

 負けず嫌いで、でもどこか軽い。

 だから、隣にいるのが楽だった。

 ――あの日までは。


 いつものように、ボールを追って――変な音がした。

 体育館の空気が、一瞬止まったように感じた。

 倒れたあいつは、起き上がれなかった。


 それからは、早かった。大きな怪我だったらしい。

『退部』と聞いたのも、すぐのことだった。

 時間をとり、見舞いに行こうと思ったが……やめた。

 今もまだバレーボールを続ける俺が、何を言えばいいのかわからなかったのだ。


 あいつも、何も言ってこなかった。

 そのまま……気づけば連絡も取れなくなっていた。

 それから二十年――。


 ◇


 ――和也の箸が止まる。

 皿に乗っていた『悪魔おにぎり』はもうない。

 和也は、最後のコロッケをゆっくりと口に入れた。


 衣はサクッという音の代わりに、しっとりと優しく崩れる。

 中には、ひんやりと心地いい温度のじゃがいもだ。


「……甘いなぁ」


 ソースの味ではない。じゃがいも本来の風味と、隠し味の砂糖が溶け合った深い甘みだ。

 冷めているからこそ、玉ねぎの甘みと挽肉の油が、噛むほどにじわじわと染み出す。


「……うまかったなぁ。おにぎりも、コロッケも、……コンビニのサンドイッチも」


 和也は、大きな手で口元を拭い、ふぅ、と長い息を吐き出した。

 その肩からは、さっきまでの張り詰めた緊張が消えて、穏やかな空気が漂っている。


「……マスター。変なこと聞くけどさ」


 和也が、お冷を飲み干して榊を見た。


「どうして、このおにぎりとコロッケを出してくれたんだ?」


 榊は、洗い終えたうどんのどんぶりを棚に戻し、静かに振り返った。


「……少し、遠くを眺めていらっしゃったので。元気が出るような『悪魔の味』と、『懐かしい温度』、その両方が必要な朝かな、と思ったんです。……深読みしすぎましたかね」


 和也は一瞬呆気に取られたように目を丸くする。

「ハハッ、なんだよそれ」と、今日初めての笑い声を上げた。


「祐輔、行くぞ。……練習の前に、寄りたいとこができた」

「お、引退宣言撤回か?」

「さあな。……でも、あいつに今の俺のプレー、一度も見せてなかったなって思い出してさ」


 和也は力強く立ち上がると、レジで二人分の『朝ごはん』の代金を支払った。

 ドアを開ける前、彼は一度だけ振り返り、榊に短く「ごちそうさん」と告げた。


 チリン、とベルが鳴る。

 朝の光が差し込む路地へと、二人の大きな背中が踏み出していく。


「「いってらっしゃい、お気をつけて」」


 二人の声が重なり、ドアが静かに閉まった。


 

「……マスター、今日もすごかったっすね」


 凛太郎が、和也の座っていた席を丁寧に拭きながら呟く。


「……凛太郎、今日は天かすが少し揚げすぎだ。うどんの出汁が濁る」

「えー! サービスですよサービス! でも……あのコロッケ。あんなに幸せそうに食べる人、初めて見ました」


 榊は答えず、のれんの奥で次の仕込みを始めた。

 凛太郎は自分の胸元を見て、少しだけ眩しそうに窓の外を見つめる。


 記憶の味は、重荷になることもあるが、前へ進むバトンにもなる。


 いつか、この後輩の空白の記憶にも、そんな温かい光が灯る日は来るのだろうか。


『ASAごはんdining』の朝は、まだ始まったばかりだ。



 第二話 完。




――――――――――――――――――――


【店主のレシピ:懐かしの冷めたコロッケと、悪魔のおにぎり】


◆主な材料(一人分)

◎悪魔のおにぎり

 ・白米……茶碗1杯分

 ・天かす……大さじ2

 ・めんつゆ(3倍濃縮)……小さじ2

 ・青のり……小さじ1

 ・白いりごま……少々


◎おばあちゃんのコロッケ

 ・じゃがいも……2個

 ・ひき肉(合挽き)……50g

 ・玉ねぎ(みじん切り)……1/4個

 ・砂糖……大さじ1(これがおばあちゃんの甘さの秘訣)

 ・塩、胡椒……少々


◆凛太郎のひとこと

 皆さん、出ました! 俺が今回一番感動した『悪魔のおにぎり』!

 これ、簡単に作れるんですけど、マジで止まらなくなるやつです。マスターは「油っぽくなりすぎないように、天かすは直前で混ぜるのが鉄則だ」ってめちゃくちゃ真剣な顔で握っていました(笑)

 あ、コロッケはあえて揚げたてじゃなくて少し時間をおいてしっとりさせるんです。

 お弁当に入ってた、あの懐かしい『冷めた味』を再現するなんて、マスターも粋なことしますよね。

 皆さんも、ぜひ昨日の残りのコロッケと一緒に試してみてください!



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