第1話 雪の匂いが運ぶ、朴葉味噌風・鉄板焼き
私の目には、世界中の美味しい思い出が視える。
おしぼりを手渡す時に指先が触れるわずかな瞬間。その人の『一番大切な記憶の味』は、視覚と味覚になって私の中に流れ込んでくるのだ。
「――お待たせしました。『おまかせ定食』です」
*
「カタン」
乾いた音が、まだ眠りの中にある路地に響く。神社の古木で作られた小ぶりな木製の緑の看板がくるりと裏返る。
看板に書かれた文字は、『CLOSE』から『OPEN』へと変わる。
東京、ビジネス街の端。潔い白壁が目を惹く入り口では、ドウダンツツジの枝ぶりが出迎えてくれる。
ここは、朝の数時間だけオープンする「朝ごはん専門店」だ。
店主・榊 創志はドアのガラスに映る自分の姿と、一度だけ視線を合わせる。
糊のきいた白シャツに、深く締め上げた濃紺のソムリエエプロン。
かつて実家の神社で兄が装束を整えていた時の、凛とした空気を、彼は自身に纏わせる。
「……よし」
二十七歳という実年齢より、少し大人びて見える落ち着いた横顔を一度引き締め、彼は厨房へと戻った。
トントントントン――規則正しく包丁がまな板を叩く音。
しゅんと音をたてて立ち上る、白米の甘い湯気。
誰かの一日は、ここから動き出す。
「おはようございます。『ASAごはんdining』、開店です」
*
「榊先輩、今日の日替わりの出汁、香りがいつもより強いですね! 変えたんですか?」
カウンターの向こうで、カジュアルなエプロンを整えながら古閑 凛太郎が声を弾ませる。
榊は、わずかに目を細めながら黙って小さな猪口を差し出した。
「……相変わらず鼻がきくな。今日は冷え込むから、味噌の配合を少し変えた」
「やっぱり! うわ、これ……五臓六腑に染み渡るぅ……。今日のメインは鰆の西京焼きでしたっけ。菜の花の辛子和えも春っぽいですね」
「春らしいと言っても、まだ朝は冷えるけどな。この菜の花の苦味は、冬の体を起こしてくれるから」
「へぇ。この黄色の、SNSにあげたら絶対映えますよ!」
そう言ってスマホを構える凛太郎に、今日の日替わり定食をきれいに並べ、写真を撮った。
「今日の更新しておきますね」
店主の榊が機械音痴でありSNSには疎いため、凛太郎はこの店のSNS担当になっている。
凛太郎がスイスイと写真をアップしていると、「チリン」と控えめな音が鳴り、ドアが開いた。
見覚えのある作業着の男性がひとり入ってきた。
「いらっしゃいませ。……篠原さん、おはようございます」
「マスター、おはよう。ちょっと久しぶりかな? 凛ちゃんもおはよう」
この『篠原さん』という客は、週一回ほどこの店に通ってくれている常連客だ。
いつも、出勤前に朝ごはんを食べに店に顔を出す。
決まって「日替わり定食」を注文する。
近所の小さな工場で働く陽気なおじさんだ。
「おはようございます! 篠原さん、1ヶ月ぶりくらいじゃないですか?」
「年度末は工場が忙しいんだよ〜」
篠原さんは眉を下げながら、凛太郎と目を合わせた。
「……篠原さん、『日替わり』でいいですか?」
榊が篠原さんに尋ねると、彼はカウンターに置かれた小さな木製のお品書きに目をやる。
そこには二つの品名だけが記されている。
『日替わり朝定食 九〇〇円』
『おまかせ定食 一五〇〇円』
朝食としては決して安くないその差額。
この『おまかせ定食』とは、店主がその客を見てピッタリなメニューを出す。何が出てくるかは、出されるまで誰にもわからない。
篠原さんは、少し悩む顔をした後、口を開いた。
「……そうだな、今日は初めて『おまかせ』にしてみようかな」
篠原さんの言葉に、一瞬、店の空気が止まった。
「えっ、篠原さんが『おまかせ』ですか?」
凛太郎が少し驚いたように声を上げる。
「ああ。なんだか今日は、ちょっと冒険してみたい気分でな。マスター、頼めるかい?」
「……承知しました。少々お時間いただきますが」
「構わないよ。ゆっくりしたくて開店と同時に来たんだ。凛ちゃん、お冷のおかわりもらえるかな」
榊は一度深く頷くと、ウォーマーから蒸気を上げる一本のおしぼりを取り出した。
この店では、「おまかせ定食」を頼んだ客のおしぼりは必ず店主の手から直接渡すのが決まりだ。
「篠原さん、どうぞ」
榊はカウンター越しに温かいおしぼりを差し出した。
篠原さんがおしぼりを受け取る。
榊の細い指先と篠原さんの指が触れ合う。
その、わずかな接触――。
(――来る)
榊が奥歯を噛み締めた瞬間、榊の視界がぐにゃりと歪み光で一瞬全てが白くなった。
ジャズの音色は遠のき、無音の世界に――。
視界の白が開けて徐々に広がったのは、どこかの台所だ。
目の前のテーブルの上に置かれているのは、湯気を立てる一皿。
そして、その料理を箸を使って一口頬張った。
(これは……)
榊はその料理の「正体」を、味覚と視覚から、一滴残らず吸い上げた。
焦げた醤油の匂い。少しだけ入れすぎた砂糖の甘み。そして、それを作った誰かの、祈りの温度。
ハッと気づくと、目の前には不思議そうに自分を見る篠原さんの顔があった。
「マスター? どうしたんだ?」
「……いえ。なんでもありません」
榊は、網膜に焼き付いたその残像と舌に残る味を消さないよう、静かにのれんの奥へと身を引いた。
「マスター……今の、見えたんですね?」
すれ違いざま、凛太郎が小声で、確信を持ったように囁いた。
榊は答えず、ただコンロの火をつけた。
コンロの上で熱した鉄板に、自家製の合わせ味噌を落とした。
「ジュ」という音が響き、瞬く間に香ばしい匂いがのれんの向こう側まで溢れていく。
飴色に変わり始めた味噌の中へ、牛肉、ネギ、そして薄切りのリンゴを投入した。
「……お待たせしました。おまかせ定食です」
篠原さんの目の前に置かれたのは、『朴葉味噌風・鉄板焼き定食』だ。
鉄板の上で、味噌がふつふつと音を立てている。
味噌が少し焦げ、香ばしい醤油の匂いのする湯気が鼻腔を抜けた。
少し泡立つ味噌が肉や野菜に絡まっていく。
トレイの上には一粒一粒がたち光る白米、小鉢には菜花の辛子和え。そして大根とわかめの味噌汁。
「えっ……、これ……」
篠原さんはその定食を見た瞬間、息を呑むようにして目を見開いた。
そして、その香りと共に湯気を吸い込み目を細める。
篠原さんは無言で箸を伸ばした。
濃い味噌を纏ったリンゴを口にした瞬間――、彼の瞳の奥で、雪深い故郷の台所と、リンゴを剥く母親の包丁の音が再生された。
一口、また一口と箸を進める篠原さん。
無言で朴葉味噌を具材に絡め食べる。そして白米を交互に口へと運ぶ。
篠原さんは半分ほど食べたところで、目から涙を溢れさせた。
鼻を啜り、声を出さずに泣いている。
「――っ、俺は、なんてことを……」
篠原さんは、大きな手で顔を覆った。
指の隙間から涙がこぼれ、鉄板の上で「ジュウ」と小さな音を立てて消える。
榊は何も言わず、ただ新しいお茶をそっと差し出した。
凛太郎もまた、SNSの操作をしている手を止め、静かに篠原さんの背中を見守っている。
しばらくして 篠原さんは鼻を啜り、顔を上げた。その目は赤くなっていたが、どこか清々しい光がわずかに宿っていた。
「……すまないね、マスター。柄にもないところを見せた」
「いえ。お口に、合いましたか」
「ああ。……驚いたよ。どうしてマスターが、この味を。……俺は岐阜の山奥で育ったんだ――」
篠原さんは、遠い記憶を辿るように目を細めた。
◇
夏場は涼しかったけれど、冬は背丈を超えるほどの雪に閉じ込められる小さな村。
家を包む冷気の中で、子供の頃から大好きだったのが、朴葉の上で焼ける味噌の匂いだった。
母の作るそれは、いつも少しだけ焦げていて、決まって薄切りのリンゴが入っていた。
「……おふくろが作る、あの匂いが、最高の朝メシの合図だったんだ」
篠原さんの視線は、鉄板に残った飴色の味噌に注がれる。
五人兄弟の四番目。唯一、田舎から出て上京した。
父も母も大好きだったが、血の気の多い兄弟たちとは折り合いが悪く、逃げるように家を飛び出した二十代。
「田舎を裏切った」と言われ、法事でさえ顔を合わせるのが億劫になり、気づけば実家とは何年も疎遠になっていた。
――十日前。
不意に鳴った電話。受話器の向こうで、兄の声は事務的だった。
『母さん、亡くなったから』
それだけだった。
頭が真っ白のまま、新幹線に飛び乗り、数年ぶりに開けた実家の玄関。
そこには、変わらない顔ぶれの兄弟たちが揃っていた。
『なんだ、来たのか』
それが母を亡くした弟への第一声だった。
母に手を合わせる間もなく、始まったのは相続の話。
(そんなことより……もっと、母さんと話させてくれ!)
喉まで出かかった言葉は、兄弟たちの冷ややかな視線に遮られた。
葬儀の間も、その後も、聞こえてくるのは金の話ばかり。
最後には、一番上の兄が吐き捨てるように言った。
『お前は当然、辞退するだろ? ここはもう、お前の家じゃないんだから』
お金なんてどうでもよかった。ただ、母親が不憫で、悲しくて仕方がなかった。
けれど、あの冷え切った空気の中では、涙一滴さえ流すことができなかった。
最後には『裏切り者は帰れ』と背中を向けられ、逃げるように東京行きの列車に乗り込んだ――。
◇
静かな店内に、急須から注がれるお茶の「コポコポ」という音が響く。
立ち上る湯気が、篠原さんの熱くなった目元を優しく潤わせた。
「――俺はおふくろのために声も上げられず、泣くこともしなかった……。情けなくて目を背けるだけで、この味だって、忘れてたんだ……。なんでマスター、俺がこれを食べたかったって分かったんだい?」
篠原さんは、震える声で榊を見上げた。
榊は、拭いていたグラスを置き、眉を下げながら静かに応えた。
「……いえ。ちょうど今朝、新しい味噌を練り上げたばかりだったので。……誰かに試して欲しかっただけですよ」
そんな馬鹿な、と篠原さんは笑った。けれど、その頬をまた一筋の涙が伝った。
彼は残りの白米をかき込み、最後の一切れのリンゴを、大事に噛み締めた。
「……ごちそうさま。最高に、美味しかった」
*
「一五〇〇円になります」
レジの前で財布から小銭を出しながら、篠原さんはスッキリした顔で凛太郎と目を合わせた。
「明日、実家の仏壇に送る花でも手配しようかな。おふくろ、派手なのが好きだったからさ」
涙は乾き、代わりにいつもの明るい笑顔になった篠原さんが、店のドアへ手をかける。
扉のベルが「チリン」と控えめに鳴った。
開いた隙間から、ふわりと柔らかい春の風が店の中に吹き込んでくる。
凛太郎が、心からの明るい声を響かせた。
「ありがとうございました!」
榊もまた、カウンターの奥で静かに頭を下げる。
「……ありがとうございました」
二人は去りゆく篠原さんの背中を見送りながら、声を揃えた。
「「いってらっしゃい、お気をつけて」」
ドアが閉まり、再び店内にジャズの音色が戻る。
「マスター、おまかせってやっぱすごいっすね!」
凛太郎は、空になった鉄板を片付けながらキラキラした笑顔を榊に向けた。
「……私が考えて作ったわけじゃない。指先があの味を教えてくれただけだ」
淡々と静かに答える榊。そんな彼に、凛太郎はふと手を止め、困ったような、少し寂しそうな顔で聞いた。
「……俺の記憶も、いつか食べられますか?」
榊は洗い物の手を止めることなく、静かに応えた。
「……きっと、いつかはな」
*
記憶の味は、明日の糧になる。
街に溢れた人波のどこかで、さっきの味が、その人の力になればいい。
『ASAごはんdining』の一日はまだ始まったばかりだ。
第一話 完。
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【店主のレシピ:雪解けの朴葉味噌風鉄板焼き】
◆主な材料(一人分)
・牛肉薄切り(または豚バラ肉)……80g
・長ネギ(ぶつ切り)……1/2本
・椎茸……2個
・薄切りリンゴ……3〜4片
・自家製合わせ味噌(赤味噌・みりん・砂糖・出し汁)……合わせて練ったものを大さじ2
◆榊のひとこと
リンゴは熱を通すと甘みが凝縮されます。鉄板の上で味噌と果汁が混ざり合うまで、じっくりと火を通してください。それが、誰かにとっての「一番の味」になるはずですから。




