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第5話 偽りなき自分へ贈る、おばあのかちゅー湯


「カタン」


 乾いた音が、すでに明るくなり始めている路地に響く。

 木製の看板が裏返り、『CLOSE』から『OPEN』へとその表情を変えた。


 東京、ビジネス街の外れ。

 七月も半ば。朝の空気はすでにぬるく、肌にじわりとまとわりつくような熱を含んでいる。

 街はすっかり、夏に支配されていた。


 店主・(さかき) 創志(そうし)は、厨房の定位置に立ち、誰にも聞こえないほど深く、静かに息を吐いた。


 トントントントン――規則正しい包丁がまな板を叩く音。

 しゅんと音をたてて立ち上る、白米の甘い湯気。

 誰かの一日は、ここから動き出す。


「おはようございます。『ASAごはんdining』、開店です」


 *


「凛太郎、日替わりの試食できたぞ」

 

 カウンターを回り、ドアを開けて外へと声をかける。

 表を(ほうき)で掃いていた凛太郎は、すぐに振り向き「わ、待ってました!」と弾けるような声で応え、掃除道具を片付けた。


 凛太郎が手を洗い、カウンターの定位置につくと、目の前に一人分の『日替わり定食』が置かれた。


「え、今日のこの匂い……とうもろこしご飯! うわー大好きです!」


 炊きたてのとうもろこしご飯が、ふわりと甘い香りを立ち昇らせる。鮮やかな緑が目に涼しいオクラのお浸し。脂がほどよくのり、香ばしい匂いを放つ(いわし)の干物。それに茄子と油揚げの味噌汁が並んでいた。


「……うわ、とうもろこしが口の中で弾けて、夏! って感じがします。鰯の塩気で、ご飯がいくらでもいけちゃいます」

「七月は、体が知らぬ間に暑さで消耗する時期だからな。食べやすいが、しっかり栄養の摂れる献立を意識したんだ」

「なるほど……マジでうまいです」

 

 凛太郎が幸せそうに喉を鳴らす間、榊は出汁を煮詰める鍋の静かな揺れを見つめていた。ここ数週間、ずっと考えていることがある。

 以前、兄が店に来た時には、この店を営む理由や能力(ちから)を使う意味を、さも正解であるかのように語ったが……。

 実際は、自分でもこの能力(ちから)をうまくコントロールできているわけではない。

 自分が「祝福」だと信じているこの力は、一歩間違えれば、他人の秘密を暴く「呪い」の凶器にもなり得るのではないか。


 榊は、兄との対話を反芻(はんすう)するたび、最近では「おまかせ」を出すことに、微かな迷いと恐怖を感じ始めていた。


 *


「チリン」とドアベルが鳴る。


「いらっしゃいませ!」と凛太郎が元気な声を上げる。

 入り口に立っていたのは、一人の女性だった。

 五十歳は超えているだろうか。年齢を感じさせないというより、年齢という概念から解き放たれたような不思議な美しさがある。都会的な装いで、凛とした品格を感じさせる(たたず)まいだ。

 

「どうぞ、こちらへ」


 榊に促され、彼女は静かにカウンターへ腰を下ろした。

 品書きを一瞥し、「おまかせを一つ」と落ち着いた声で注文した。


 榊はウォーマーからおしぼりを取り出し、彼女の前へ差し出す。

 

「……かしこまりました。おしぼりをどうぞ」


 女性はそっと、白く細い手を伸ばした。

 榊の指先が、誰にも気づかれないほど小さく震える。緊張を悟られまいと、榊は密かに奥歯を噛み締めた。


(……この人の奥に、何が視えるのか――)


 指先が触れた、その瞬間――。


 視界が白く反転し、強烈な情景が流れ込んできた。

 焼け付くような南国の強い日差し。鼻腔に広がる、濃厚な削り節の匂い。

 そして、この女性がこれまでの半生を積み上げてきた、重く、鮮やかな記憶の断片――。


(――っ!!)


 記憶の熱量に息が止まりそうになるが、榊は懸命に意識を現実に戻した。

 わずかに眉を寄せ、静かに言葉を絞り出す。


「……少々、お時間いただきますが」

「ええ、いいわよ」


 彼女は、穏やかな微笑みを浮かべた。

 榊は、深く頷き、のれんの奥へと入っていった。


 

 榊はコンロの前で、深呼吸をし、鰹節を手に取る。

 シャッ、シャッ、と規則正しい音が響き、薄い花びらのような削り節が積もっていく。

 軽いが、奥行きのある香りが漂った。

 お椀を手に取り、自家製の味噌を置いて、その上に削りたての鰹節をふわりと入れた。


 沸かしたお湯を注ぐ手が止まる。


(これを出すことは、本当に彼女のためになるのか……)


「これからお仕事ですか?」

「いえ、今日は友人と出かけるんです。その前に朝食をいただけるお店を探していましたら、ここに」


 女性は静かに丁寧な言葉で話す。

 

 のれんの向こうからの凛太郎と女性の穏やかな会話を耳に入れ、お椀にお湯を注いだ。

 自家製の味噌を、ゆっくり、丁寧に溶いていく。

 れんげですくい、味を確かめて「……よし」と小さく頷いた。



「お待たせしました。おまかせです」


 彼女の前に置かれたのは、湯気を立てる「かちゅー湯」だった。削り節と味噌に熱湯を注ぐ。それだけで完成する、沖縄の知恵が詰まった養生食だ。

 その隣には、握りたての塩むすびが二つ。鰯の干物と冷やしトマト、だし巻き卵が並ぶ。

 彼女は一瞬、息を呑み、そのあまりにも素朴な一品を見て、小さく震え出した。


「な、なにこれ。……もしかして、かちゅー湯?」

「はい。沖縄に古くから伝わる、体を整えるためのスープです」

「……どうして。どうしてこんなものを、私に出すんですか?」


 彼女の声が、少しずつ、鋭く大きくなっていく。立ち上がり、お椀を遠ざけようとした。

 榊は、頭の中をよぎった「呪い」という言葉を確信してしまい、表情が強張るのを、自分でも抑えることができなかった。


「……わ、私は。あの島も、名前も捨てたのよ! こんなもの、いらないわ! 見たくもない、私は――」


 激しく首を振る女性。その拍子に、彼女の視線がお椀に止まった。

 ふんわり立ち昇った香りが彼女の鼻を掠める。出汁と味噌の温かさ、そして――。


「――っ! ……あ……」


 この香り。数十年ぶりに感じる。この海の気配が混ざったような香りと、ツンと鼻を突く生姜の匂い。どこか温かい――。


 ◇


 三十年以上前の沖縄。外は強い日差しだけれど、家の中には心地よい風が抜ける。

 そして潮風にさらされた、白いコンクリートの家の台所。


正人(まさと)、お前はこの家の長男だ。しっかりしろ』


 祖父は口癖のように、何度も私にきつく言い聞かせる。


 鏡に映る自分は、学ランを着て短く刈られた髪で、どこから見ても『男』だった。

 

 ――違う! 違うのに!


 そう思うたびに、息がうまく吸えなくなった。

 違和感に名前はまだなかったけれど、確かにそこにある。女性の仕草や装いに、説明のつかない引力を感じる。

 羨ましいのか、なりたいのか、自分でもまだわからなかった。

 けれど、本心を押し殺し、男として振る舞うことに疲弊を感じていた高校生のある日。

 私はついに高熱で寝込んだ。


 その時、台所から聞こえてくる「シュッ、シュッ、シュッ」という規則正しい音。

 おばあが鰹節を削る音だった。


「あんた、熱出てるさ。これ食べなさい」


 差し出された「かちゅー湯」には、庭で採れた生姜がたっぷりと入っていた。

 おばあは、私の言葉にできない苦しみを、すべてわかっているような静かな眼差しで言った。


「……温かいうちに飲みなさい。無理に偽らんでも、いいさ」


 その一杯を飲んだ瞬間、胃の底から熱が広がった。

 それは、「長男」という役割ではなく、ただ一人の人間として愛された、唯一の記憶だった。


 おばあの優しさに救われたから、私は私として生きるために島を出た。

 二度と戻れない悲しみを抱えて、東京へ――。

 ――島を出て、『玲子』という名前になった。


 ◇


 店内に、穏やかなジャズの音が戻る。

 凛太郎は静かに「どうぞ」とお茶を差し出した。


 彼女――玲子さんは、れんげを持ったまま、目から一筋の涙をこぼした。

 

「……生姜。おばあが、いつも入れてくれた。……どうしてあなたが知っているの」


 *

 

 玲子さんは、自分の細い指先を優しい眼差しで見つめた。


「……戸籍を整えて、この『玲子』という名前を手に入れるのに、どれだけの時間とエネルギーを使ったか……あなたには想像もつかないでしょうね」


 ふっと彼女は窓の外、夏の眩しい光に目を細めた。


「私が若かった頃、日本はもっと息苦しかった。名前一つ変えるのにも、高い壁がいくつもあったわ。今は少しずつ、いい時代になってきたみたいだけど。それでも、まだ遅いくらいよね」


 

 玲子さんは震える手でお椀を取り、最後の一口を飲み干した。

「ふぅ」と長い息をつくと、その瞳からまた涙がこぼれ、空になったお椀の底に落ちる。


「……思い出した」


 玲子さんは、ハンカチで涙をそっと拭い、榊へ視線だけを向けた。


「おばあが言ったの。『無理に自分を偽らんでもいいさ』って。……私はそれを、男としての自分を捨てろって意味だとばかり思ってた……」


 彼女は顔を上げ、榊をまっすぐに見つめる。その目には、もう迷いは消えていた。


「でも違ったわね。おばあは、どんな姿の私でも愛してくれていた。……私が『正人』を殺す必要なんてなかったのね」


「……」


「決めたわ。私、これからはこの姿のまま『正人』としても生きていく。……逃げるのはもう終わり。私が私であるために、この名前を取り戻すわ」


 玲子さんは凛とした表情で立ち上がり、バッグを肩にかけた。


「ごちそうさま。あなた、不思議な人ね。……ありがとう。最高に、勇気の出る味だった」


 榊は静かに微笑み、頭を下げる。



「「お気をつけて。いってらっしゃい」」


 *


 彼女が去った後、店内に再び穏やかなジャズが流れる。

 榊は自分の指先を見つめたまま、微かに声を震わせた。


「……凛太郎。やっぱり、私の能力(ちから)は『呪い』かもしれないな。勝手に過去を暴いて、あんなに泣かせてしまう」


 榊の自責を遮るように、凛太郎がガシガシと頭をかきながら、明るく割って入った。


「何言ってるんすか。……あの人、最後めちゃくちゃいい顔してましたよ?」


 凛太郎は空になったお椀を片付け、榊を振り返って笑う。


「先輩の作る飯は、ただの飯じゃない。……人の心を救ってます。俺が、……その証拠です」


 榊は眩しいものを見るように、凛太郎に目を細めた。

 

「……ありがとう、凛太郎。お前がいてくれてよかった」

「――っ! えっ!? 先輩何言ってるんですか、給料分ですよ!」


 榊の言葉に、不意を突かれた凛太郎が照れたようにはぐらかす。



 記憶の味は、自分を縛る鎖にもなる。

 けれど、それを飲み込んだとき、前を向くための強さに変わる。


『ASAごはんdining』の一日は、まだ始まったばかりだ。




 第五話 完。





――――――――――――――――――――


【店主のレシピ:心と体を(ほど)く沖縄かちゅー湯】


◆主な材料(一人分)

 ・鰹節(削り節)……お椀山盛り一杯

 ・味噌……大さじ1弱(榊は麦味噌推し)

 ・熱湯……150〜180ml

 ・お好みの食材……梅干し、おろし生姜、刻みネギなど


◆凛太郎のひとこと

 俺、「お湯注ぐだけ!?」って最初は驚きましたけど、一口飲んだら鰹の香りに包まれて、細胞がシャキッと目覚める感じがしました。

 シンプルだからこそ、忙しい朝にこそ試してほしい、最高に贅沢な一杯です! 

 沖縄では『命のぬちぐすい』って言うらしいですよ。


 

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