ドアと魔女(3)
「おや、語。コーヒー豆の整理していたんじゃなかったかい?」
カランカランと鐘の鳴る玄関扉を開けるとカウンターに立っていた祖父が、不思議そうに問いかけてきた。
「ああ、うん。ちょっとね。」
「語?」
「コーヒー豆持ってくるね。」
「おお、そうかい。」
今しがたのことを説明しようにも、僕自身が現状を理解できていない状況で適切な言葉は紡げなかった。なので僕はとりあえず質問を流すことにして、ツカツカとまた倉庫へ向かった。
たぶん祖父は僕の背中を見ながらクエスチョンマークを浮かべているだろう。でも僕は素知らぬ振りをした。
倉庫に入ると電気は点いたままだ。
足を進めると、台車にはさっき計量したコーヒー豆が積まれていて、その奥には崩壊した棚と無造作に置かれたスラウェシの豆が入った袋がある。もちろんその奥には、さっき通りぬけた重々しい扉も閉まった状態で居座っている。
そう、僕はあの扉をさっき開けたんだ。そして開けると玄関先にいた。
そこに扉があって計量したコーヒー豆もあるということは、さっきの不思議な現象は白昼夢とかではなくて、確かに僕自身が実体験したということだ。
扉を目の前にして、再び好奇心と気味悪さを足して2で割った気分になる。
ただ2分前の体験を思い出すと、さすがに3分前のような勇み足は踏み出せやしない。
もちろん気にはなるけど、とりあえずは片付けなきゃいけない。
下に落ちた棚板を再び持ち上げると、不気味さからくる重苦しさだろうか、軽いはずなのにズシンとのし掛かるような感覚がする。息を飲んで棚を一気に持ち上げてから棚受けに乗せる。
そのとき奥の鉄扉と視線があったけれど、無理やりに意識を背けて目の前の片付けに集中することにした。
そりゃあ気にはなるし、何が起きたのかわかるなら知りたい。でもだからといって、棚板やコーヒー豆を放置するわけにもいかないから、好奇心を押し殺して粛々と片付ける。
もっとも放置できないからというのは言い訳だ。
実際のところ、好奇心と不気味な体験が心の中で葛藤している。けれど現状維持バイアスに近い何かが働いているせいか、理解できない体験に拒否的な反応が脳裏を走る。その結果、好奇心を押し殺すしかなかった。
そうして押し殺したまま、スラウェシの袋を乗せて棚を何とか片した。
扉はかくれんぼのように人目にはつかなくなったけど、今も奥からニヤリと顔をのぞかせている。こうも変な体験をしたせいだろう。何らかのオーラを放っているように、一部しか見えていないのに違和感と存在感がはっきりと可視化されている。
ゆっくりと瞬きをして、それから棚に背を向けた。
もう一度、深呼吸をして好奇心を押し殺す。
僕は近くの台車に計量したスラウェシの缶を乗せて、再びコツコツと歩いて台車と一緒に倉庫を出た。
倉庫から出ると、祖父は待っていたかとばかりに声を掛けてきた。
「語、豆を置いたらカウンターにでもどうかい? コーヒー淹れるよ。」
「ありがとう。」
それから祖父はグラインダーのスイッチを入れてコーヒーの準備を始めた。ガリガリとコーヒー豆を挽く音がする。
一方の僕は、持ってきたコーヒー豆の台車を焙煎機の隣につけて車輪をロックする。これで今日の業務は終了だ。
とりあえず祖父に言われたとおりにカウンター席に向かった。
席につくと、ちょうど目の前のサイフォンにコーヒー粉が投入された。それからサイフォンをセットすると、下のフラスコのお湯がボコボコと鳴きながらお湯が上の漏斗へと上っていく。
さっき自分が入れたとき同様に、音と光景は心地よさがある。でも今日はお湯が上がりきるまでのたった10秒に、どことなく居心地の悪さを覚えてしまった。
お湯が上がりきると祖父は無言でコーヒーを軽くかき混ぜて、それから穏やかな目でコーヒーを眺めている。
ただ目線はサイフォンの漏斗ではなく、少し外れた場所を向いているような気がする。
しばらく祖父と僕の間を、無言の時間が通り過ぎていく。
結局無言のまま、30秒と少しが経ったところで祖父はサイフォンを火から外した。
コーヒーが逆流してフラスコに落ちていく。
コーヒーが落ちきると、漏斗に残ったコーヒー粉はこんもりと丘になって上には泡が乗っている。さっき僕が淹れた時より綺麗な形なのは、やはり祖父の腕の良さかもしれない。
相変わらずの穏やかな目のままだ。
白磁のカップにコーヒーを注いで、カウンター越しにカップを置いた。
「どうぞ。」
「ありがとう。」
コーヒーカップを手にとって啜る。
サイフォンの淹れたては熱くて、少し口づけるのがやっとだった。
でも鼻を近づけると、ふんわりと独特のエキゾチックな匂いがする。祖父は僕の好きなモカマタリを淹れてくれたらしい。一口含んで唇を閉じる。そして鼻から息をすれば、匂いもフワッと漂った。
「どうだい?」
「美味しい。」
「そうかい。まあ少し落ち着きなさい。」
そう言ってから、祖父は台拭きを持って静かにテーブルの方へ向かっていった。
明らかに気を遣ってくれているのが分かる。
普段ならこの時間はカウンターでサイフォンのフィルターを洗ったりしている。でも今はそれを後回しにして僕をカウンターでそっと独りにしてくれているのだ。
しばらくすると扉の音がして、祖父はテラス席の方へと出ていってしまった。
僕は「はあ。」とため息を吐いて、テーブルに肘をついた。目線は自然と左下を向いていた。
それほどに僕は深刻そうな、あるいは戸惑いを隠せていない様相だったのだろうか。
祖父は僕に内観する時間をくれたらしい。事実として混乱していた僕にとって、その細やかな気配りがとても有り難かった。けれど同時にそれほど心配させてしまったことに、どこか申し訳なさを覚えた。
僕だけが残る店内には、ただスピーカーからジム・ホールの表情豊かなギターが淡々と流れている。
僕は肘を机から払って、今日何度目か分からない深呼吸をした。
それからさっき起きたことを思い出してみる。
あの扉は確かに存在した。
ただあんなところにあるのは、聞いたこともないし見るのも初めてだ。しかもあの扉の向こう側は喫茶店のキッチンのはずだ。でもキッチン側、まさに今座っている眼の前に扉なんてない。
そこが明らかにおかしい。
だって、そうだろう?
扉は壁を挟んだ部屋を行き来するために存在するのだから。壁の片側にはあるのに、反対側にはないなら意味がない。でもあの扉は壁の片側にしかなかったのだ。
それでいて開けると、なぜか玄関に繋がっていた。玄関と扉の間は10m近くあるのに、その狭間を扉一枚で移動していたんだ。論理的に説明がつかない。
あれは一体何なのだろう。
左上に掛かっていた時計を見つめながら黙考したものの見当もつかないし、果たして現実だったのかさえも疑ってしまう。でもあれは現実だろう。
溜息をついてコーヒーを再び啜る。
コーヒーは少し時間が経ったからかちょうど良い温度になっていた。
扉がゆっくり開いて鐘がカランと鳴った。
「語、落ち着いたかい。」
「まあ、少し。」
そう返事をすると、祖父は「そうか、そうか。」といいながらキッチンに入って行った。
そして僕の前に来ると、さっき使ったサイフォンのフィルターを外して、他のフィルターと一緒にお湯で沸かし始めた。本来なら既に始めているはずのフィルター洗浄だ。
しばらくすると沸騰して、ぶくぶくと心地よい音がする。
その心地よさにふっと息を吐くと、祖父は僕の方をチラッと見た。
「それで、どうしたんだい? 語。」
「どう、って?」
「なにか困ったことでもあったんじゃないかい?」
「困ったことね……。」
なんと言うべきなのか言葉を勘案する。
さっきと違って落ち着きを取り戻しつつあるとはいえ、やっぱり同じで適切な言葉が見つからない。
僕は言葉に困って目線を下に落とした。
「それじゃあ聞き方を変えようか。なぜ玄関から入ってきたのかい?」
目線を上げると、カウンター越しに祖父は僕の顔を真正面から見据えていた。
さっきの僕の困惑を見通しているようだ。
「それは。」
「うん。」
「その、一つ質問があるんだけど。」
「うん。」
「変な質問かもしれないけど。」
「うん、いいよ。」
祖父は僕が言葉を紡ぐまで、ゆっくりと待ってくれる。
さっきからの相槌も慈愛を示すようにゆっくりと深い。
「じいちゃんは倉庫の奥に扉があるのを知ってる?」
「知ってるよ。棚の奥の扉だね。」
「あの扉って、どこに繋がっているの?」
「そうか。語は開けたのかい?」
「うん。」
「そうか。扉を開けると玄関先だったのかい?」
その言葉を聞いて僕は瞳孔から大きく見開いた。
僕の表情を見た祖父は軽く安堵していた。それから肩をスッと落として祖父は続けた。
「そうか。やっぱりそうだったか。語は杏さんから受け継いでいたんだね。」
祖父は全てを悟ったかのように、菩薩のアルカイックスマイルを浮かべていた。
それから「そうか、そうか。」と、再びゆっくり小声を発しながら懐古するように深く頷く。
「語には、ちゃんと話さないといけないね。」
「?」
「杏さんの。」
「ばあちゃんの話?」
「ああ、そうさ。」
祖父はキッチンにあるスツールにゆっくりと腰を掛けた。
「語は小さい頃、ばあさんから様々な物語を聞いていただろう?」
「うん、いろんな話を聞いてたよ。」
「なかには本にも載っていないオリジナルがあったろう?」
「あった。」
「例えば何があった?」
祖父の口角が少しだけ上がる。
「世界につながる扉の――。」
「それだよ。語。」
「え。」
「扉。」
「そう、扉。さっき開けただろう?」
「あの扉が?」
祖父の口角が元に戻った。それからシンクに肘を付きつつ「そうだよ」と軽く頷く。
それから一呼吸をおいて続けた。
「あの扉はね、杏さんが作った魔法の扉なんだよ。これまで語が気づかなかったのは、恐らく杏さんの魔法が発動していなかったからなのかもしれないね。」
「じいちゃん、何言ってんの?」
「魔法だよ。杏さんは魔女だったんだよ。」
「ばあちゃんが?」
「そうだよ。」
魔女。超自然的な魔法をつかう女性のこと。
ばあちゃんが魔女。確かに祖父はそう言った。




