ドアと魔女(1)
改稿しました
「語、今日はもう大丈夫だよ。」
「はーい。じゃあ今日は上がるね、じいちゃん。」
「ありがとう。」
紫苑が店を出て少し経つと、もう時計は19時を回っていた。それを見た祖父から今日は上がりだと言われたので、これから最後の仕事に取りかかる。
「じいちゃん、明日は何を焼くの?」
「そうだね。タンザニアとコロンビアのウイラを3kgずつ、それとクリスタルマウンテン1kgにしようかな。」
「3種類ね。」
「ああ、明日は久しぶりにスラウェシでも焼こうかね。倉庫の曲がった奥にあるからお願いできるかい?」
「はーい。それも1kgでいい?」
「ああ、お願いね。」
明日焙煎するコーヒーを訊きながら、僕は焙煎期の近くにある台車に、同じく傍にあるブリキ缶を積み重ねていく。
これが最後の仕事。
端的に言えば、明日焙煎するコーヒー豆を倉庫からここにある焙煎機まで持ってくることだ。
喫茶店の隅には一度に3kgまでコーヒー豆を焼ける焙煎機が置いてあって、今日だと合計8kg多い日には10kg以上を焙煎することもある。
もちろん焙煎するのは手慣れた祖父の役目なのだけど、毎日その数kgの豆を運ぶのは年老いた祖父の腰には厳しいようだ。祖父がぎっくり腰になってしまうと、喫茶店だけじゃなく孫の僕も困ってしまう。
たしか半年前ほど前だった。
ある日の倉庫で「うぎっ」と突如叫びが聞こえてきたので恐る恐る覗いてみると、祖父がムンクの叫びように口を開けて腰に手を当てて痛がっていた。本音を言えば表情が面白かった。
でもそれ以上にその後の病院への付き添いやら暫くの休業やらで大変だった。
もうこれっきりにしてほしい。
だから今日も僕がコーヒーの生豆を取りに行く。
これは祖父の腰のために、僕がやらねばならないことなのだ。
台車を押しながら店の奥にあるルーバーの扉を開ける。するとそこから倉庫に繋がっていて、焙煎前のコーヒー豆、いわゆる生豆たちが焙煎される日を首を長くして待っている。
生豆たちは、壁沿いのすのこの二段の棚に雑な並びで整列している。
下段にある麻袋は1袋あたり最大60kgほど入るので、祖父がぎっくり腰になるのも無理はない。
一方で上の棚はそれよりは軽い。ただそれでも10kg近くはあるので侮れない。高校生の僕でさえ腰を痛めそうになる。
もっともうちの焙煎機は容量が最大3kgだから60kgごと持っていく必要もない。だから台車に乗せて明日の使用分だけを掬って持っていくのだ。
大抵の生豆は袋の表に、生産国やグレードが印字されているから、それを見れば目的の生豆を見つけられる。
ただ実際のところ、普段から多用する生豆は手前にあるし、何なら場所も覚えている。タンザニアとかコロンビアのウイラがそれだ。
一方でクリスタルマウンテンは久々に使うし、定番ではないから少量で仕入れているはずだ。つまり上段だ。 案の定10kgの米袋と同じくらいの袋があった。
ここまでスムーズに進んだけれど、問題はスラウェシだ。
インドネシア産のコーヒー豆なんだけど、スマトラ島のマンデリンと違ってレギュラーメニューではないから普段は扱うことがない。そもそも僕にはスラウェシを焙煎した記憶がない。だから少量仕入なのだろうけど、クリスタルマウンテンの周辺には見つからない。
ただマスターの祖父が言うのだから、実は在庫を持っているのだろう。
とりあえず言われたとおり、くの字に曲がった倉庫の奥に行ってみる。
曲がったところから袋の表地やラベルを次々と確認していく。そこには袋には聞いたことのない農園の名前だったり、初めてみる国旗だったり、中にはマーカーが雑すぎて読みづらいものもある。
このあたりの豆も、祖父は本当に覚えているのだろうか。だとすると凄い記憶力だ。
結局なかなか見つからないまま棚の最奥部まで来てしまった。
もはや果たして存在するのかと疑念さえ浮かんだところで、やっと生豆を見つけた。一番奥の棚に「スラウェシ10kg」と雑にマーカーで記されたアルミの遮光袋があった。
埃の被りようから察するに、いつ購入したものだろうか。
コーヒーの生豆は3年近くはもつのだけど、さすがにこの状態を見てしまうと豆がカビていないかと少し怖くなる。
とりあえず中を確認しないといけない。
そう思って袋に手を伸ばす。袋口は向こうを向いていたので、少し背伸びして奥へと手を伸ばす。そして袋口に手が届いて掴んだ。
すると、ふわりと風がその手を撫でた。
そして袋を手に取ったときに舞った埃が、風に流されて自分の方に舞い吹いてきた。驚いた僕は手を思わず引っ込めて、同時に反対の手で顔のあたりを仰いで埃を払う。
どこから風が吹きこんだのだろうか。
ほんのりと草木の香りがする。こんなタイミングで春風を感じるとは思わなかった。ただ埃まみれだから、春の薫りなんて風情のあるものじゃないのが残念すぎる。
ふと埃まみれの春の薫りに、僕は疑問を抱いた。
この倉庫には窓のないはずだ。だからダイレクトに春風が入り込むことなんてないはずだ。倉庫の裏口の扉は開いていない。
なんと不思議だ。
その違和感を気にはしつつも、再び手を伸ばして麻袋を手に取った。
とりあえず仕事を終わらせないといけない。
袋を180度回転させて手前に寄せた口を開いてみると、どうやらカビは生えていないようだ。コーヒー豆を幾らか手にとって見たけど、青々としていて特に問題もないように思える。ひとまず安心した。
となれば頼まれた1kgだけ測って持って行こう。
ただ豆を掬っていくには少し棚が高かったので、いったん下ろしたほうがよさそうだ。そう思って袋を一度縛ってから「よいしょ」と言いつつ、スラウェシの入った袋を手前に引き寄せた。
そのときだった。
引き寄せたのと同時に、棚板も一緒にずれて棚から外れてしまった。
「えっ!?」と驚く。
ただそれも束の間、ガタガタと大きな音を立てて棚が落ちた。
衝撃で埃が舞い上がる。
咄嗟に僕は後ろへと遠のいて、目を閉じて口と鼻を腕で覆った。
音が止んで5秒くらい経っただろうか。
そっと目を開らくと、棚の一部が無惨に崩落していた。そして埃がゆらゆらと舞い落ちていて、何かの映像で見た爆破解体の現場のような感じになっている。
ああ、やってしまった。そして煙たい。
幸いにも自分自身は本能的にサッと後退りしていたから、幸いにも怪我はしなかった。
棚板は10kgのコーヒー豆を乗せても耐えられるように、目に見えて分厚くて密度のある木板をつかっている。これが足首に落ちようものなら骨折は免れないだろう。それだけにほっとした。
そしてスマトラの袋も閉じていたから散乱することはなかった。こっちもこっちで豆が散乱すると、拾い上げるのは大変でキリがない。本当にせめてもの救いだ。
手で目の前の埃を軽く払って暫く待っていると、埃も落ち着いて崩落現場がよく見えてきた。目の前にあった棚と生豆の袋は床に落ちて綺麗さっぱり、目の前の見通しが良くなっていた。
「あれ?」
僕は1つだけ違和感のあるものを見つけて、よくよく目を凝らした。
崩落した棚の向こうに、大きな縦長の長方形の何かがある。どうやらセメントの壁ではないらしい。枠があって、その内側にグレーに塗装された鉄板と丸い握り玉がある。
扉だ。
こんな場所に扉があるなんて初めて知った。




