Episode.43 - いただきます
地面に足を付けたその瞬間、俺の視界は元の通学路に戻っていた。
心に潜むその寂しさというのは、今度こそ少しずつ俺の身体に馴染んでいくのだろうか? 散々心に決めたにもかかわらず、今までなし得なかったその感覚がどうにも想像できず、どこか不安が募る。
「.........大丈夫なんじゃない?」
「——!?」
そんなことを思いながら、これからどうしようかと天を仰ぎ立ち尽くしていると、どこからともなく曙さんの明るくもあっけらかんとした声が聞こえてくる。
弾かれたように視線を下げ辺りを勢いよく見回す。しかし、どこにもあの小柄な姿は見つからない。これまた俺の頭が与えた幻聴なのか?
しかしそう思ったのも束の間、終端速度に至った一つの物体が、すさまじい速度で目の前に落ちてくる。
柔らかそうな赤みがかった栗色の長髪をふわりと揺らし、全体的に華奢な身体を持ったその少女は、うんともすんとも言わぬまま、着地に失敗し若干よろけながらも、自らの胸を左手で叩いた。
「なんたって、私がついてるんだからね」
それっぽい言葉とキメ顔を用いているが、突拍子もない行動やその全体的な緩さのせいか、どうも締まらない。まあ、それでこそ曙さんって感じだけど。
......でも、何というか。彼女、現実にいたときよりも堂々と喋っていると感じる。もともとの曙さんが『ただのモンタージュだった』というのも、今なら何となく分かる気がした。
「そりゃあ心強いや」
「ふふん、そうでしょう?」
再び声のトーンを上げ、得意げに言ってみせる。
自信に満ちあふれたその声音は、正直言って少し羨ましい。
俺も、もう少し頑張ればこんな風になることができるだろうか? 真の意味で前を向いて過ごせるようになるだろうか?
......いや、なれるだろうか、ではなくて、ならなければならない。
そのためには、もう少しだけ彼女の力が必要だった。
「実はさ、俺の未練、さっきなくなったんだよね」
「......うん、知ってる。ずっと見てたから」
「え——あ、そうだったんだ」
あんな別れ方をしたものだから、てっきり一時的にでも現実に帰ってしまっているものだとばかり思っていた。......が、確かにそれだとこんな呼応するように現れることもできないし、考えてみればおかしな話でもない。
まあ、それならそれでむしろ都合がいい。正直、あそこであった一部始終を自ら語るだなんてことはあまりしたくなかった。
とはいえ、彼女とて俺の心を読めるわけではないのだから、少しの前口上は必要だろうと、躊躇いながらも口を開く。
「曙さんからここが夢だと聞いてから急に周りが薄っぺらく映って、双葉が自分の作り出した妄想だと気が付いて、きっと、自分はここにいてはいけないのだと悟って。今まで忘れようとしていた未練を解消することができた。全部、曙さんのおかげだ。ありがとう」
「どういたしまして。......って言っても、私も自分の言いたいことを言っただけだから、感謝されるのも何か違う気がするケド」
少し照れくさそうに、柔らかな頬を人差し指で掻いた。
まあ、それに関してはお互い様だろう。俺だって、現実で曙さんに何かをしたわけでもないし。
「それで、晴れてしがらみがなくなったから、現実に帰ろうと思ったんだけど——その前に、曙さんに一つだけお願いしたいことがあるんだ」
「うん、何かな?」
夢の中なのにもかかわらず、口の中が乾いてしまったような気がして、唾を飲んでそれを誤魔化してから再び口を開く。
「......現実に帰っても、もう少しだけ俺の傍に居てくれないかな。確かに未練はなくなったけれど、それで完全に双葉のことを忘れられるかと言えばそんなことはなくて。安定するまではもう少しかかりそうなんだ。そして、それを頼めるのは、きっと曙さんしかいない」
まあ、元々頼れる人があまり居ないというのはあるが、もしそうでなくとも、俺はきっと彼女に頼むことになっていただろう。
彼女が少し前に見せた笑顔というのは、比類なき輝きを帯びていた。それは、ベクトルは違えど双葉の魅力にも劣らぬもので、彼女と手を組めばきっとより良い未来を掴めると、そう感じたのだ。
「今度は双葉の代わりとしてじゃなく、あくまでもそのままの曙さんと一緒に過ごしたい。もちろん、その代わりにできることは何でもする」
しかし、そんな俺の言葉に対し、曙さんは少し苦笑いを浮かべて俺から目を逸らした。
「困ったなあ。別に、君と一緒に居られるのなら、私はそれ以上何も望まないのに......」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、それじゃあけじめがつかないというか」
彼女は「ええ~?」と言って腕を組み、明らかに困った様子を見せる。ううん、俺の言ったことは本心ではあるが、あまり我が儘を言って曙さんを困らせるのも本意ではない。彼女がこれ以上困り顔を見せるのならばちゃんと引かなければ。
だが、数秒首を傾げていた曙さんは、突然何かを閃いたかのように顔を明るくさせる。
「そうだ、それならしばらくの間、夜の夢も食べさせてほしいな」
「へ、そんなこと?」
確かに、今まで彼女は遠慮して昼寝で見る夢のみを食べていた。が、そもそも夢なんて勝手に見るものだし、さらに言えば明晰夢なんてあまり見るものではないと考え始めていたものだから、まったく対価のような感覚はないのだが......まあ、曙さんがせっかく捻りだしてくれたのに、それを否定することもあるまい。
「まあ、それくらいならお安いご用だよ」
「やった! お父さんもお母さんも、最近歳のせいか疲れが取れないって言ってたから、色々と考えてたんだよね」
なるほど。まあ、それこそ明晰夢なんて見ないならそれに越したことはない。少しでも助けになれるのなら、喜んでその役目を引き受けよう。
「まあ、君がどうしてもって言うから付けた条件であって、ほんとに私は穂月くんと居られるだけで十分なの。だから、あんまり無理しないでね?」
そう言いながら控えめに笑む彼女は、一瞬だけ天使と見間違えてしまうほどに可憐であった。
「......あ、そうだ曙さん。追加でもう一つだけお願いがあるんだけど」
そうして、話が一段落ついたところで、俺はもう一つ話を切り出す。この世界に関わる重要なことが、あと一つだけ残っているのだ。
それに対して軽いトーンで返事をしてくれる曙さんであったが、
「最後に、曙さんにこの悪夢を食べてほしいんだ」
俺がそう言った瞬間、微笑みは固まり、目から順番に崩されていく。それはまるで「冗談でしょう?」と言っているように見えたので、強調するように言葉を繰り返した。
「え、いや、だって——この夢って、広大で、詳細で、それでいて時間方向にも大きいんだよ......?」
「あー......やっぱり、ここまでの規模の夢は無理?」
「う、うーん、無理ってわけじゃないけどさあ。でも、その......ほら、太っちゃうかもしれないし」
「そうかあ」
まあ、彼女の言うことも尤もだろう。太る云々はともかくとして、いくら食いしん坊な曙さんとはいえ、そのキャパシティには限度があってもおかしくはない。
とはいえ、そうなると困ったことになる。
「実はさ、ここに長く居すぎたせいで夢から覚める方法がいまいち分からなくなってるんだよね」
目を瞑って身体を楽にする、という至極単純な方法はもともとあまり得意ではなかったのだが、さらに『現実と夢の境が分からなくなる』という過程を辿ってしまった結果、自力で夢から覚めるのが難しくなってしまった。
「えっ、そうなの......?」
さすがの曙さんも、驚いて唸り始める。
「でもなあ......私が夢を食べたら、穂月くんはここであったことのほとんどを忘れちゃうんだよ? それでもいいの?」
やがて、上目遣いで心配そうに尋ねてきた。
なるほど、最近曙さんに夢を食べられていなかったからその感覚を忘れてしまっていたが、確かにそれは懸念点だ。
まあ、正直な話、俺のこの世界での言動は恥ずべきものばかりなので、忘れてしまった方が都合がいいのだが、きっと、そういうことに限って覚えていたりするものだからなあ。
そして、ここでは『覚えておくべきこと』もたくさん経験した。その中には今後俺が生きるための礎ともなり得ることも存在しており、そう考えると覚えていられるかどうかの賭けに出るべきではないのかもしれないが......あ、いや。ちょっと待てよ?
「別に、大丈夫かもしれない」
「そうなの?」
「うん。だって、曙さんは俺のことをずっと見ていてくれたんでしょ?」
端から他人頼りというのはなんとも情けない話であるが、自分の頭と曙さんの頭のどちらが信用できるかと問われれば、答えるまでもないほどに簡単な話であった。
彼女も俺の口ぶりからその意図を察してくれたようで、若干目を逸らしながら考え込む。
「あー......まあ、確かに、そう言ったのは私だけどさあ」
先ほどからずっと曙さんに意地悪を言ってしまっている気がするが、その困り顔もひどく愛らしく、あまり罪悪感が生まれてこない。
対する彼女も、そのような表情を浮かべながらも、真に困っているようには見えない。どちらかと言えば呆れの感情の方が強そうだ。
「......まあ、そこまで頼りにしてくれてるなら、応えないワケにはいかないか。いいよ、君がまた道を踏み外しそうになったら、私が責任を持って支えてあげる」
最終的に、曙さんは何かを諦めたかのように、それでいて優しげにふっと笑った。
「だから、もう少し頑張ろうね。君なら——いや、私たちならきっと前に進めるよ」
「ありがとう、曙さん」
彼女の期待を裏切らないためにも、彼女に頼ってばかりでなく、自分でできることは自分でやらなければと、改めて気合いを入れ直す。
まあ、そのためにはまず現実へと帰る必要があるんだけど。
「さて、それじゃあそろそろ、いいかな」
「もう言い忘れたことはない? 特別サービスで今なら何でも聞いてあげるよ」
あまりに付け足しの多いせいか、からかうように問うてきた。俺は苦笑いを浮かべながらも、彼女の言うとおりだと再び思慮を巡らせる。
正直なところ、謝罪や感謝については全く言い足りていないのだが、そんな細々としたことを全て告げていてはいつ終わるか分かったものではない。どうせこれから先に何百回何千回と言うことになるのだろうし、ここで学んだ、それらを伝えることの大切ささえ覚えていれば大丈夫だろう。
「うん、大丈夫。少なくとも、食べられて忘れちゃうようなことで言いたいことはもうないよ」
はっきりと言い切ったからか、まだまだからかうつもりだった曙さんの表情は崩される。
「そっか、分かった。——じゃあ、もう食べちゃっていいんだね?」
「うん、お願い」
「久しぶりの穂月くんの夢、楽しみだなあ。結構時間かかるだろうから、目を閉じて楽にしているといいよ」
彼女の指示に従って、ゆっくりと瞼を落として肩の力を抜く。多少気が楽になるような感覚はあったが、それでも覚醒にはほど遠い。
音も匂いもない中で、待つこと数秒。唯一の柔らかい肉声が、最後に俺の耳に届いた。
「それじゃあ、穂月くん。いただきますっ」
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