Episode.42 - 『自分』との対峙
俺は、その光景に息を呑んだ。
目の前に広がる『もしも』の世界は、あまりにも眩しく、あまりにも優しかった。
ここにいれば、罪悪感から解放される。あの日の悪夢を、なかったことにできる。
——でも。
「......ごめん、やっぱり帰るよ」
自分の声が若干震えていることに気が付きながらも、そう告げた。
「これは偽物だ。どれだけ精巧に作られていても、本物の双葉じゃない。本物の未来じゃない」
「......そう。じゃあ、もう一つだけ見せてあげる」
双葉は表情を変えず、再び指を鳴らした。
景色が一変する。
今度は、あの横断歩道のすぐ脇だった。そこに、一人の少女が立っている。
——曙さんだ。
いや、正確に言うと、俺の記憶の中の曙さんだ。彼女は俺に笑いかけながら、何かを話している。
「あの子のこと、本当に信じてるの?」
姿の見えない双葉の声が、どこか冷たく響く。
「あの子は自分で言ってたでしょう? 『私は空っぽの人間だ』って。『他人の夢を継ぎ接ぎして、それらしく振る舞ってただけだ』って」
俺は反論しようとしたが、言葉が出てこない。
「君が望む『明るいヒロイン』を演じていただけ。彼女の言葉は全部、誰かの夢のコピーなんだよ。そんな子を、本当に信じられる?」
視界の中の曙さんが、別の誰かに変わる。俺が見たことのない女性。きっと、曙さんが過去に見た夢の持ち主なのだろう。まるで走馬灯のように、人物が切り替わっていく。そして、彼彼女らの仕草、言い回し、表情——それらがモンタージュのようにめまぐるしく切り貼りされていく。
「君を本当に愛している私と、君を『餌』として見ている彼女。......どっちが本物だと思う?」
双葉は、真っ直ぐに俺の目を見つめた。
その目には、確かに俺への愛情が——いや、俺が双葉に抱いていた感情が、映し出されていた。
......曙さんへの疑念。それは、確かに俺の中に存在していた。
彼女のことを信じたいと思いながらも、どこかで『本当に俺のことを想ってくれているのか』と、疑ってしまう自分がいたことは、たしかに完全に否定はできない。
正直、色々と理由を聞いたものの、出逢って間もないのにあそこまで俺に尽くしてくれる理由が、どうしても理解しきれない部分があったから。
「......確かに、俺は曙さんのことを完全には信じ切れてなかったかもしれない」
俺は、正直にそう認めた。その声量は図らずとも小さくなる。
「でも——」
頭に浮かんだのは、先の彼女の姿だった。
車に轢かれるために、自ら横断歩道に飛び出した望実さん。
俺を現実に引き戻すために、身体を張った彼女の姿。
「たとえ彼女が空っぽでも、俺を救おうとしてくれた事実は変わらない」
俺は、はっきりとそう言った。
「そして、曙さんの話を聞いて、俺も彼女に『自分』を見つけてほしいと思ったんだ。利害関係なんかじゃない。......俺たちはきっと、お互いに何かを与え合えると信じている」
双葉は、少しだけ目を細めた。
「......そう」
彼女の声には、どこか感心したような響きがあった。
だが、それも一瞬のことで。
「じゃあ、最後にもう一つ」
双葉は三度目の指を鳴らす。
世界が、ノイズに包まれ始めた。
砂嵐のような映像の中に、断片的な光景が映し出される。
——病院の白い天井。
——点滴のチューブ。
——俺を見る、誰かの同情的な視線。
——そして、双葉がいない、冷たい現実。
「外に出たら、またあの日と同じ地獄が始まる」
双葉の声が、どこからともなく響く。
「同情の視線。腫れ物を扱うような態度。『大変だったね』『頑張ったね』——そんな空虚な言葉の洪水」
「......」
「そして何より、私がいない。毎朝起きるたびに、隣に私がいないことを思い知らされる。それが、これから何十年も続くんだよ」
視界が真っ暗になる。
その闇の中で、双葉の声だけが響いた。
「それでも、私のいない世界に価値があるの?」
あの手この手で、俺を引き摺りこもうと躍起になる双葉。
確かに、彼女の言うことはある程度正しいことなのかもしれない。だって、何と言っても、それは紛れもない俺が言っていることだから。
確かに、双葉は意地悪なことも多い子だった。でも、
「双葉は、『前を向け』と言う子だ。『私がいなくても、ちゃんと生きろ』って怒る子だ。......こんな風に、俺を引き留めようとなんかしない」
そこに悪意はなかった。こんな風に、人を陥れようだなんて気概を持って接してくる子ではなかった。
暗闇が、少しずつ晴れていく。
「お前は双葉の姿をした、俺自身の弱さだ。俺がここに引き留められているのは、双葉のせいじゃない。俺自身の、逃げたいという弱さのせいだ」
色々と混乱しているとはいえ、もう少し早く気が付くべきだった。
「双葉のことが本当に好きなら、こんなことを言わせちゃいけない。......なあ、もう止めようぜ、蔓見穂月」
そう言った瞬間、視界が開ける。
そこには、やはり双葉が真正面に座っていた。
だが、その表情は先ほどまでとは違っており、冷たさは消え、そこにはどこか懐かしい、柔らかな微笑みがあった。
「......合格」
双葉は、ふっと笑った。
「やっと、ちゃんと私を置いていけるね」
その言葉に、俺は仄かに目頭が熱くなるのを感じた。——ああ、これでこそ、双葉だ。
俺の無意識が生み出した幻影ではなく、俺の記憶の中に生きる、本当の二色双葉。
「双葉......」
「言いたいことがあるんでしょ? 聞いてあげる」
彼女はゴンドラの座席に座り直し、俺を真っ直ぐに見つめた。




