Episode.2 - 夢の中の少女
「——という感じで進めていく。小テストに関しても内申点に関わるから、決してサボらないように。そして——」
数学の授業が始まってから約十分。今のところ、レジュメを見ながら淡々とその説明をしているだけで、正直言ってとても退屈だった。A4の紙の角を手で弄りながら、その内容を見ている振りをしてぼうっと聞き流す。
ただでさえそんな授業内容なのにも関わらず、昨日緊張であまり眠れなかったせいか、急激に強烈な眠気が襲ってくる。
もはや瞼が上から落ちてくるのに抗う力すら残っていなかった。少しずつ閉ざされていく視界と己の無力さを感じながら、ゆっくりと、意識は遠のいていく————
■ ■ ■
「.........」
突然、ぱあっと視界が明るくなる。眠気はなく、身体も軽い。眠りから覚めたのかと思い大きく伸びをするも、身体がほぐれる感覚はなかった。おかしな話だと思い、辺りを見渡す。するとそこは、先ほどまで俺がいた教室ではなく、駅のホームのような場所だった。
スーツを着た人が横一線に引かれている点字ブロックの後ろに列を成し、向かいのホームには小豆色の電車が停車している。先ほどまで俺は教室に居たはずだが、一体ここはどこだ?
というか、あの車両も見たことがないが、いったいどこの路線だろうか。
電車が駅を去るのを待ち、駅名を確認しようとするが、駅名標に書かれているのはよく分からない文字。視力が悪くぼやけているとかではなく、その文字はどう見てもひらがなでも漢字でもカタカナでもアルファベットでもない、見たことのない文字だった。
そして、そこでようやく気がつく。
「......ああ、ここ夢か」
そう、夢の中。だから何もかもがちぐはぐで違和感だらけの光景なのだ。身体の調子が良いのも、この世界では明確な実体を持たないからそう感じるだけだろう。
それにしても、相変わらず明晰夢の頻度は高いなあ。夢日記を付けると次第に夢の中でも意識があるという話はよく聞いていたし、実際夜長時間眠る時には稀に明晰夢を見ていたのだが、まさか授業中の居眠りですら見始めるとは思わなかった。
現実からの逃げ場として期待していた部分もあったのだが、実際に得られるのは、詳細なコントロールが不可能なよく分からない空間と夢から目覚めた時の疲労感だけ。......まあ、それでも何もない日常よりかは幾分か面白かったけれど。
どうせこの夢も、授業終了のチャイム、あるいは誰かからの呼びかけで覚醒するだろう。それまでは起きる努力をせず、適当にくつろいでおこうかな。
そう思い、目の前に到着した山吹色の電車に乗り込むサラリーマンの群れを見ながら、目覚めた時に座っていた椅子に再び座り込む。こんな夢では何のイベントも起きないだろうが、つまらない数学のガイダンスを聞いているよりかはマシだ。
夢の中でもぼうっと虚空を見つめる。電車の発着音や人々の靴音を、何も考えず聞き流す。そんな時だった。俺から少しスペースを空けて、一人の少女が椅子に腰を下ろすのが視界の端に映った。
どうせ夢の中だから失礼も何も無いだろうとそちらに目線を向けると、彼女は今日初めて見た制服を身に纏っていた。つまりは、俺が今日から転校した高埜宮高校の生徒ということで。
「......こんな子いたかな」
だがしかし、小柄で、栗色のふわりとしたロングヘアを有した人間など、俺の記憶の中には存在しない。高校内はおろか、学外でも見たことがない。
自分の脳を不思議に思うも、まあ、それならそれで良い。俺が見せている夢なのだ。起きるまでの間、話し相手になってもらおう。
「すみません」
「うん? どうしたのかな、蔓見くん」
タメ口......別に良いけど、一体どういう設定の人間なんだ?
「いやあ、ちょっと暇だから、夢が覚めるまで話し相手になってもらいたくて」
「.........え?」
苦笑しながら言葉を続けると、何故だろうか、彼女は大きな目をさらに見開き、唖然とした表情でこちらを見つめた。何か変なことを言ってしまっただろうか。
そう不思議に思って二の句が継げないままでいたら、少女は依然として驚いたような表情を浮かべながら問うた。
「君、もしかして明晰夢を見てるの?」
「あ、ああ。そうですけど......」
そう返した途端、今度は顔をぱあっと明るくさせる。あどけない笑みが可愛い......じゃなくて。
彼女——延いては俺の頭が考えていることが一切分からず、もはやこちらから何かを発することはできなくて、呆然としたまま次の言葉を待った。
「よかったあ! 私、ずうっと明晰夢を見てる人を探していたんだよね」
「はあ、それはよかったですね」
その言葉はうまく頭に入ってこず、適当に受け流すように答える。だが、無意識に咀嚼された言葉が引っかかった。
この子、『明晰夢を見てる人を探していた』と言ったか? 俺の夢の中に住んでいる人間がそんなことを言うだろうか? 何というか、この会話内容は俺が作り出したものではないというか......。
「あの、すみません」
「どうしたのかな?」
「いや、お名前を聞いてなかったな、と」
少女は「ああ、そんなこと」と呟くと、明るい顔を一切崩さずに続ける。
「私は曙望実。......って、ホームルームでの自己紹介もちゃんとしたんだけど、出席番号早いし忘れちゃってたかな?」
「.........」
いや、忘れていたとかではない。失礼ながら、彼女のことなど今の今まで知らなかった。失礼? いや、自分が作り出した人間に失礼も何も無いだろう。しかし、一体彼女は——曙さんは俺の記憶の何と何をモンタージュしたものなんだ?
少なくとも、名前は現実世界でも、何らかの作品の中でも聞いたことがない。完全に一から作られたものだというのか?
「も、もしもーし。あれ、どうしちゃったのかな」
と、そんな風に考え込んでいると、曙さんは俺を覗き込むようにして困惑している。こういう本物の人間らしい仕草も、俺を混乱の渦へと誘った。今まで見ていた夢は、こんな人間らしい人間が登場していただろうか?
俺の対人能力がないせいか、あまりまともなのが出てきた覚えがないのだが......
まあ、もういいや。これ以上考えても起きたときに疲れるだけだし、早々に目覚めてしまおう。そう考え、背筋をピンと伸ばすと、深く息を吸って——
「——あっ!!」
いつも通り現実へと戻る手順を踏もうとしたその時、曙さんは突然耳を劈く大きな声を出す。せっかく集中していたのに気が削がれてしまった。俺は彼女を睨み付けるように見つめる。だが、全く怯まない曙さんは、苦笑いを浮かべながら続ける。
「ごめんごめん、大事なことを言い忘れてたよ」
「大事なこと?」
「うん。実は今、私は君の夢の中に入り込んでるんだ」




