Episode.18 - トラウマ
「おはよ、蔓見くん」
「......おはよう」
目を覚ますと、眼前には曙さんの顔があった。逆光を受け、尚且つ寝ぼけ眼でぼやけた視界であったが、それでもはっきりとした目鼻や口元は微笑んでいることが分かり、とても恥ずかしい。というか、横を向いて寝たはずなのに、いつの間に寝返りを打っていたんだ。
なけなしの腹筋を使って身体を起こすと、そのまま立ち上がってぐっと伸びをした。
「さすがに数十分も男の子の頭を乗っけてると疲れちゃうねえ」
対する曙さんは、そう言いながらスカートのしわを手で丁寧に伸ばした。
「寝付いた後なら、適当にカバンでも敷いてくれたらよかったのに」
それこそ、オオサンショウオのぬいぐるみでも十分だろう。
「あはは、さすがに私から誘っておいてそんなことはできないよ」
今度は軽く伸びをしながら告げる。まあ、曙さんならそう言うと思ったけどさ。
俺は再び彼女の隣へと座り直し、そのまま数十分雑談を続けた。その途中、どうしてか意識がぼやけることがあった。まだ微睡みから覚めていないような、そんな感覚。よほど変な夢でも見たのだろうか。......思い出せないが、無理して呼び起こす必要もあるまい。だいいち、ちょっとやそっとじゃ思い出せないのは何度も経験済みだ。
そんなこんなでいまいち会話に集中できないまま時間だけが過ぎ、午後四時を回ったあたりで、そろそろ帰ろうかという話になった。
行きに比べて少し人の数が減った公園や道路を歩く。その間も、先ほどと同じように表面をなぞるような会話を繰り広げていた。
そんな中、ふと、交差点の手前で足が止まる。
「......あれ?」
「ん、どうしたの?」
「いや、この交差点......なんか見覚えがある気がして」
「え、来たことあるの?」
「いやあ、ないはず......なんだけど。夢で見たのかな......まあ、気のせいか」
そんな言葉を聞き、曙さんは一瞬だけ視線を逸らし表情を曇らせたが、すぐにそれを取り繕うように適当な軽口を叩いた。その一瞬の言動が妙に気になったが、別に続行するほどのことでもあるまいと、彼女の会話に乗っかる。
不意に曙さんが「もっと蔓見くんのことを知りたいな」とか言い出すものだから身構えたけど、まあ、逆にあまり踏み込んだ質問は飛んでこなかったからよかった。それこそ、
「そういえば、双葉ちゃんからはなんて呼ばれてたの?」
とか。双葉に関する問いではあるけれど、別にこのくらいなら何ともない。
「普通に『穂月』だけど」
相変わらずぼうっとしたまま、ゆっくりと足を進める。そんな俺とは対照的に、彼女は俺の言葉を聞くや否や、小走りで俺の隣を離れていった。
そして、連休後半らしい交通量の横断歩道の前で、彼女は右足を軸として、くるりと身を翻した。
「じゃあ、私もそう呼んでみようかな。穂月くーん、なんて——」
からかうように、にいっと笑みを浮かべながら少し声を張り上げて言う。
そんな言葉の終わりかけに、左足を着地させる——つもりだったのだろう。
しかし、それは失敗に終わってしまう。
「あっ——」
傾斜でもあったのだろうか。左足はきちんと地に着かずバランスを崩し、曙さんの重心は後ろに傾いた。そしてそれは、彼女自身が制御できる程度のものではないようで、先ほどまで細められていた瞳は大きく見開かれ、一瞬にして彼女の顔から血の気が引いていった。
「——っ!」
俺はその異変に気づくや否や、慌てて彼女の下へと駆け出す。強く地面を蹴り、大きな歩幅で走り、やがて、曙さんの身体の目前まで迫る。一度も見たことのない、悲痛に満ちた目が俺をまっすぐに捉えていた。
勢いのつきすぎた身体を靴と地面との摩擦力で無理矢理止め、そして。
間近で鳴るクラクションの音を耳に入れながら、彼女の華奢な手首をがっしりと掴みこちらへと引き寄せる————
——どさり、と二人して歩道に倒れ込んだ。
数秒間の間、荒い呼吸だけが二人の間を満たす。曙さんの右手の甲が少し赤く腫れている。だが、それ以上の怪我はなさそうだった。
「だ、大丈夫?」
「......う、うん。なんとか、穂月くんのおかげで」
彼女は震える声でそう告げる。よかった、大事には至らなかった。
——ただ、俺の方は、別の意味で大事になりかけていた。
段々と息を整わせている曙さんとは対照的に、心臓が壊れそうなほどに脈打つ。視界の端が薄暗く明滅し、耳の奥で甲高い音が鳴り続けている。
......やめろ、思い出すな。
あの時とは違う。曙さんは無事だ。俺がちゃんと助けただろう。
だから、大丈夫だ。
深く、意識的に呼吸をする。一回、二回、三回と繰り返し、ようやく震えが収まってゆく。
「......ごめん、俺の方こそ、ちょっと驚いちゃって」
「顔色真っ白だよ。ほんとに大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。本当にちょっとびっくりしちゃっただけだから」
嘘だ。大丈夫なわけがない。その言葉も、なんとか正気を保つために、自分自身に言い聞かせているようなものだった。
でも、目の前に怪我をした女の子がいるのに、自分の不調を訴えるなんてことはできない。
俺は精一杯の平生を装って立ち上がると、曙さんを近くの病院まで連れて行くのであった。
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