Episode.13 - 綺麗なもの
上部から差し込む日光を受け、鮮やかな青色に染まる水中を、魚たちが優雅に泳ぐ。
「ああ.........綺麗だね」
先ほどまでは子供のように騒いでいた曙さんだったが、ここではその光景にうっとりと見とれ、落ち着いた大人らしい声を漏らした。彼女は数秒間止めていた足を再度動かし、ガラスの間近まで迫る。両手をピタリと付け、張り付くようにして海を見つめ続けた。
俺もその後を追って水槽まで移動する。青の深さに目が慣れてくると、ふと、口をついて言葉が出た。
「......ここ、双葉と来たかった場所なんだって、言ったよね」
曙さんが、ゆっくりとこちらに視線を向ける。
「招待券まで持ってたのに、結局使えなくて、後悔して、忘れたくて、仕舞い込んでいた」
「......うん」
彼女は何も言わず、ただ静かに相槌を打ってくれた。それが妙にありがたくて、普段なら口に出せないような言葉がするりと滑り出す。
「でもさ、今日実際に来てみて思ったんだ。ただ悲しいだけじゃなくて、ちゃんと楽しいって感じるんだなって」
曙さんは、一瞬だけ驚いたような表情を浮かべるも、ふっと柔らかく笑った。
「......うん。楽しいね、ここ」
ただそれだけの返事だったが、不思議と胸のつかえが少し軽くなった気がした。
その後、特に会話を交わさぬまましばらく二人で水槽を眺めていると、一匹のエイがこちらへと近づいてくる。......そう思ったのも束の間、俺の下はするりと通り過ぎて曙さんの目の前まで行ってしまった。なんだ、偶々だったのか。
しかし、そのエイは舞うように両ヒレをひらひらと動かしそこに留まり続ける。曙さんはそれを挨拶と捉えたのか、小さく手を振り返した。このエイ、さては顔で選んでやがるな? 卑しい奴め。......なんて、そんなわけないだろうけど。
そんな風に考えながらエイの動きを追っていると、ふと視界には曙さんが映る。
何処か大人びたように見えるその表情は、端的に言うと美しく、数秒の間俺の目を奪った。
......と、そんなことを考えていると、視界の左端には何か白い物体が映る。そして、それを追うように、曙さんの顔もこちらに向いて。
「? どうしたの?」
その大きな瞳と、バッチリ目が合ってしまった。彼女はきょとんとした表情でこちらを見つめている。突然のことに上手く言葉が出てこず、そんな俺の様子を見てか、彼女は数回頷くと、いつも通りのにたりとした表情を浮かべる。
「そっかそっか、ふーん、なるほどね」
「......なんだよ」
「別にい? それより、そろそろ次行こうか」
「え? ああ、うん」
曙さんは軽やかに身を翻すと、俺の返答など聞く気も無いような様子で、隣を通り過ぎて順路を歩み出す。てっきりもっと突っかかられるかと思ったのだが、少し肩透かしを食らった。
大水槽から離れたことによって照明は白色光に戻り、人の密集具合もまばらになった。パンフレットに視線を落としながら、ゆったりとしたペースで歩き続ける。次はペンギンのエリアだからまた曙さんがはしゃぎそうだなあ、なんて考えていると、突然彼女は口を開く。
「さっき、見蕩れてたでしょ。ちょっとドキッとした?」
「......さあね」
曙さんから向けられる目線から逃げるように、ふいと顔を横に向ける。すると、壁に描かれているイルカの絵にまでじいっと見つめられ、なんだか逃げ場がないように感じてしまった。諦めて曙さんの方へと視線を戻すと、彼女は先ほどまでのにやけた表情を消していた。
「まあ、蔓見くんがそう言うならそれでもいいけどさ。せっかく妄想力を高められるチャンスなんだから、もっとドキドキして、無意識に焼き付けて、思い出せるようにしてほしいな。......それとも、私じゃあ力不足?」
どこか不安気な瞳をこちらに向け、彼女に似合わない弱々しい口調で告げる。結局それはすぐに崩され、「なんてね」といつも通りの声音で続けた。......だが、おそらく冗談として放ったであろう彼女の言葉は、俺の頭を右から左に素通りすることはなかった。
全く以て彼女の言うとおりだ。彼女は、ご飯のためだとは言え、俺の未練を引き出すことを手伝ってくれている。そして、実際に経験した方が想像しやすいと言って誘ったのは俺だ。それなのに、なぜこんなところで恥ずかしがっているのだ。
しかも、曙さんはそういう面で見て『力不足』なわけでもない。現に、普段の元気な彼女と、先ほどの大人びた可憐さのギャップに、すっかり見惚れてしまっていたのだから。それを、口に出せていないだけ。
だから、全く認めていないわけではない。ちゃんと、意識はできている。......でも、それでいいのか? ちゃんと自分の感情を言葉にして認めなかったせいで、今こんなことになっているのではないのか?
そうだ。あの時できなかったこと、しなかったこと。結果がどうであれ、それらはやってみるべきだろう。
もはや、先ほどの発言など忘れたかのように至っていつも通りに話題を振ってくる曙さんに対して、話と話の隙間を見つけ、いつにも増して小さな声で言う。
「......さっき曙さんの横顔を見たとき、綺麗だなって思った」
「——へっ?」
コンマ数秒のラグの後、曙さんは何とも素っ頓狂な声を上げながら立ち止まる。思ってもみなかったであろう言葉に、彼女は広げていたパンフレットの端にしわを作った。
彼女に合わせて、俺も足を止める。二人の間には気まずい雰囲気が漂った。曙さんも言葉をなくしており、左頬を小さく掻きながらただ俯くだけ。その場を収めるための言葉をひねり出そうとするものの、自分が発した言葉の余熱が思ったよりも高く、そんなものを考えている余裕はなかった。
というか、てっきり曙さんがいつものようにからかってくるものだと思っていたのだが、それが無かったために調子が狂ってしまったのだ。
結局、その場は曙さんの一言で状況が進んだのだが、やはり、からかうでもなく馬鹿にするでもなく、ただただ優しい表情を浮かべるだけだった。
「そっか、ありがと」
彼女がそのまま言葉を続けるとき、その笑みには少しだけ影が差した。
「私ね、あの日からずっと、本当に私じゃあ力不足なんじゃないかって思ってた。魅力がない......というより、蔓見くんに合っていないんじゃないかって。だから......その言葉が聞けて良かった」
そんな言葉とともに、優しい吐息が漏れる。それは心底からの安堵だった。
口にしなければ、自分の考えていることなんて伝わりやしない。そんな当たり前のこと、考えるまでもないはずなのに、今更そんなことを再確認させられる。普段の生活の中では何十回と繰り返していることが、こういう場になるとピタリと口から出なくなる。それが俺の悪いところだ。
だから、そんな悪癖をもう少しだけ直したくて、俺は敢えて言葉を選ばず、勢い任せに声を出す。
「今まで言葉にしなくてごめん。でも、曙さんは俺にとって、とても魅力的だよ。双葉——前夢で会った女の子。あの子も、君みたいにとても元気で、素敵な笑顔を残す人だった。運が良いことに、俺はそんな性格の子が好きみたいだ」
自分でも驚くほどにすらすらと言葉が出てきて、ハッとして口を噤む。遅れて、先ほどとは比にならないほどの熱気が頬を包み込んだ。
曙さんからも先ほどまでの余裕は消え、若干引き攣った表情を浮かべる。
「きゅ、急にガツガツ来るね」
それはどこか恥ずかしがっているようにも見えて、思わず自分の言葉を反芻すると、誤解を生みそうな言葉だったことに気がつき、慌てて口を開く。
「あ、ごめん。そういう意味じゃなくって。ええと......ただ、俺の未練を引き出すにはもってこいっていう感じで。......って、なんだかそれだと道具みたいになっちゃうな。ええと、ええと......」
そんな、先ほどとは打って変わって引っかかってばかりの言葉に、曙さんは「あははは」と楽しそうに笑う。
「別に、そんなこと気にしてないよ。......分かってるって。私たちは利害によって結ばれた関係。それ以上でもそれ以外でもない、でしょ?」
「う、うん」
「まあ、それにしても蔓見くんの言葉は嬉しかったけどね。私も自信を持ってやっていけそう」
「......そっか、それならよかった」
曙さんはすっかり元通りであったが、それに対して俺は未だに顔全体から熱が引かない。やらなければならないことだとはいえ、慣れないことはもっと段階的に始めなければならないなあ。
それからしばらくは、彼女への返答は少しだけぎこちなくなってしまった。




