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母2

次回は、明日の12時更新です。

「あの……私、揚げ物はダメって言われてて……」

「レナちゃん」


 凜さんに止められてて、と言おうとしたぼくの反論を、霧江さんは静かな声で封じた。


「レナちゃんの頑張り屋さんなところ、お母さんはとってもすごいと思ってるわ。あんなに身体を鍛えたり、服とか靴とかアクセサリーについて調べたり、ネットにオシャレな写真を上げるなんて、お母さんできないもん。


 学校の成績だって、いっつも一番で。ほんと、私たちにはもったいないくらいすごい子だよ、レナちゃんは」


 霧江さんの手のひらが頭に触れる。

 ゆっくりと、髪を梳くような感触。いい子いい子、と子供をあやすような声に、ぼくはなにも言えなくなる。


「お母さんもお父さんも、好きなことをやってるとまわりが見えなくなっちゃうから。だから、レナちゃんが頑張り過ぎちゃう気持ちもわかるの。自分のやりたいことをやるのは楽しいし、難しいことや大変なことがあったって、それを乗り越えるのも楽しいから。

 でもね? たまには、なにもかも忘れて、自分を思いっきり解放してあげることも大切」


 だから、ね? と、霧江さんは微笑んだ。


 やわらかな表情。まるで身体中の強張りが解けるような。


「一日くらい節制しなくたっていいじゃない。今日は思いっきりおいしいものを食べて、また明日から頑張りなさい」


 大丈夫だから。あなたの素晴らしさは、ちゃんとわかっているから。霧江さんの笑顔は、そういう笑い方だった。


 胸の底が熱くなる。ぼくは訳もなく泣きたくなって、急いで顔を伏せた。


 違うんだ。ぼくは、オレーナさんじゃない。春日乃オレーナという少女は、ここにいない。赤の他人の、自分が本当は誰かすらわからない人間が、その身体に入り込んでいる。


 気が付いたら見知らぬ女の子になっていて、なにもわからないまま春日乃家に迎えられて。オレーナさんの人生を守ると決めたけれど、撮影も、レッスンも、勉強も、SNSだって。結局、なに一つ満足にできていない。誰かに褒めてもらう資格なんて、ぼくにはない。


 霧江さんの手のひらが、ぼくの頭を撫で続ける。オレーナさんの頭を撫で続けている。


 ……いまの言葉は、ほんとはオレーナさんが聞くべきだったんだ。


 本当に受け取るべき人に、大切な言葉が届かない。

 ぼくには、それが悲しくてならなかった。









 なにも答えられないまま、長い沈黙が過ぎた。

 ふと気付くと、頭上に影が差している。大きな人影は、厨房から飛び出した勢いのまま、


「お待たせしました! 天ぷら定食で、す……」


 尻すぼみになっていく声に、ぼくは顔を上げる。


 首が痛くなるような長身。頭に三角巾を巻いて、腰から黒いエプロンを下げた男の人は、ぼくの顔を見るなり、大きく両目を見開いた。


「驚いたな。あんたみたいな有名人が、うちに来てくれるなんて。霧江さんの知り合いですか?」

「うん。私の娘なの」


「えっ!?」と男の人は、ぼくと霧江さんの顔を見比べる。霧江さんは悪戯が成功したみたいに、くすくすと笑っていた。


「そっか。名字だって春日乃だもんな。いやあ、なんで気付かなかったんだろ」


 目をぱちくりさせる男の人。格好が違うのでわからなかったが、声を聞いて思い出した。


 たしか、初めて翠星学園へ通った日に出会った、


瀬戸内祥吾せとうちしょうごさん……ですよね?」


 瀬戸内さんは、きょとんとぼくを見返す。すごく大人びた人なのに、そういう顔をすると、途端に同年代の男の子が現れる。


「俺、あんたに名乗ったっけ?」

「あ、いえ。まわりの人たちが教えてくれて……」

「ああ、そっか。いや、照れるな。こんな有名な人に、名前を憶えてもらえるなんて」


 照れくさそうに笑う瀬戸内さんを見て、霧江さんが手のひらを打ち合わせた。


「そういえば、祥吾くんも翠星だったわね。サッカー部だったかしら?」

「いえ、もう辞めたんです。膝を怪我しちゃって。あ、冷めないうちにどうぞ!」


 テーブルに、二人分のトレーが置かれる。

 つやつやのごはんに、長ねぎの味噌汁、お新香。そして竹製の籠に、これでもかと盛られた天ぷら。


「来た来た」


 両手を擦り合わせる霧江さん。ぱちりと箸を割り、そのまま茄子の天ぷらを掴み上げる。

 トレーには、塩の盛られた小皿と天つゆの小鉢。霧江さんは、茄子の先っちょだけを天つゆに突っ込んでから、さくりと齧りつく。


「んん~……やっぱり、ここの天ぷらが一番だわぁ~。野菜の味が、ぎゅっと凝縮されてて。こんな天ぷら、他じゃ食べられないもの」

「霧江さんみたいな偉い人に褒めてもらえるなんて、料理人冥利に尽きますよ。な、親父!」

「うるせぇッ! 無駄口叩いてないで、皿の一つでも洗いやがれ馬鹿野郎ッ!」


 厨房から響く怒鳴り声は、なんだか嬉しそう。瀬戸内さんも「親父のやつ照れてやんの」と苦笑した。


 さく、もぐ、さく、もぐ、と次々に天ぷらを平らげていく霧江さん。普通のお店の倍くらいの量があるのに、もう三分の一近くが消えていた。


 幸せそうに笑み崩れる姿を見ていると、口の中に唾液が溢れる。再び小さく鳴ったお腹を押さえて、ぼくは逡巡した。


 揚げ物は厳禁。凜さんとラブリンから散々言われているし、オレーナさん自身も己を戒めていた聞く。それを破るなんて、そんな非道なこと……ああでも、このままじゃ天ぷらが萎びてしまう。せっかく作ってもらった天ぷらを冷めるに任せるなんて、お店に申し訳ない。


 悩み抜いた末、ぼくは心の中で両手を合わせた。

 ごめんなさい。今日だけ許してください。明日からまた頑張りますから。


 割り箸を割り、海老の天ぷらを一尾。まずは塩をつけていただく。

 最初はザクッ、続いてサクッ、最後にサクリとした歯触り。食感の違う三種の衣に包まれた海老はぷりっとして、噛んだ瞬間に身がはじけた。


 思わず背筋を伸ばしたぼくに、霧江さんはにんまり。その自慢げな様子がおかしくて、ぼくはつい笑ってしまった。


 レンコン、かぼちゃ、茄子。ちょっと変わったところでセロリ、魚の佃煮。ピリッと辛いのはルッコラだと、瀬戸内さんが教えてくれる。


「うちの衣は、三度掛けなんだ。最初は普通の衣を付けて揚げて、途中で少し水を足した衣を上から掛ける。最後に、さらに薄くした衣をまとわせて完成だ」


 一口でいろんな食感が楽しめる天ぷらは、口に入れるだけで、なんだか楽しい気分になってくる。


 次は何を食べようと視線を落としたぼくは、テーブルの縁から覗いた瞳と目が合った。

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