母1
次回の更新は、本日22時です
ここ数年、自家用車を持たなくてもいい時代が来た、といろんなメディアが盛んに宣伝している。自動運転車が普及し始めたことで、自動車もシェアするのが当たり前の時代になるのだそうだ。
スマホに入れたアプリを使えば、いつでも好きな場所に車を呼び出せる。あとは乗った距離に応じて料金を支払うだけ。最初は一部のもの好きだけだった利用者も、自動運転の安全性が確かめられるにつれて、どんどん増えているらしい。
「イゴールさんに頼むと、中林さんにバレちゃうから」と、霧江さんがスマホで呼び出した車に揺られること十五分。新宿の端っこ、都内でも古い町並みが残る一角に、その食堂はあった。
「朝日食堂」と書かれた看板は、日光と風雨に晒され過ぎて朽ち果てる寸前。店の外観は、良く言えば味のある、本音を言えばもうちょっと掃除したほうがせめて日除けの修理くらいさすがに玄関が傾いてるのは法律的にどうなの?
「さ、レナちゃん。こっちこっち!」
様々な意見を呑み込み、ぼくは手招きする霧江さんに続いて、油染みだらけの暖簾をくぐった。
見た目通り、狭いお店だった。床面積の半分くらいが厨房で、残り半分にテーブルが五つ。黄ばんだ壁には、色褪せた古いポスターと、薄汚れて読み取りづらいメニュー。外観に比べて中は綺麗に掃除されており、最初の印象ほど不潔という感じはしなかった。ちょっと床がべたべたすることも含めて、いかにも町の食堂といった雰囲気のお店だ。
ずかずかとお店に入っていった霧江さんは、慣れた様子で一番奥のテーブルを確保する。
破けたクッションをガムテープで補修した丸椅子に座り、ぼくはゆっくりと店内を見回した。
ちょっと意外だった。お金持ちはもっとこう、高級なお店で高い料理ばかり食べてると思ってた。
夕飯にはまだ少し早いからか、店内のお客さんはぼくたちしかいない。
対面に座った霧江さんは、微妙に油汚れが浮いたおしながきをいそいそと開いている。嬉しそうにメニューを眺める顔に、あの黒い斑点は存在しない。どうやら絵を描いているときに墨が付着したみたいで、布で擦るとすぐにとれた。
「驚かせてゴメンね? お母さん仕事に夢中になると、つい寝るのも食べるのも忘れちゃって」
てへっ、と舌を出す霧江さんの姿は、なんだか妙にあどけない。
そういえば、ここ数日、家で姿を見ていなかったような。予定に追われ過ぎて気付かなかったけれど、食事の席にも来ていなかったように思う。
倒れていたのは、睡眠不足とお腹が空いたせい。仕事の締め切りが近かったので、ちょっと無理をしてしまったと霧江さんは恥ずかしそうに頬を掻いた。
「すいませーん! 天ぷら定食二つ、お願いしまーす!」
「はいーっ、天定二つ! 承りやしたぁっ!」
厨房の奥から響く、威勢のいい声。
なんだかウキウキして見える霧江さんは「いいでしょ、このお店」と満面の笑みを浮かべる。
いつも思うのだけれど、この人本当にオレーナさんの母親なんだろうか? どことなく童女のような雰囲気があるせいか、ちょっと年の離れた姉妹だと言われても、大抵の人は信じると思う。
「お母さん、ここの天ぷらが大好きでね。仕事に行き詰ると、よく食べに来るの。あ、中林さんには内緒ね?」
悪戯っぽく片目をつぶった霧江さんは、ますます年齢不詳に見えた。
厨房から油の弾ける音。ぷつぷつじゅわっ、という軽快な音色に、霧江さんはうっとりと目を閉じた。
「ここに来ると学生の頃を思い出すわぁ。お母さんね、美大にいた頃は定食屋さんでバイトしてたの。お年寄りの夫婦が二人で経営しているお店でね、お仕事の前にはいっつもご飯を食べさせてくれて。それがすごくおいしいのよ!
親子丼、カツ丼、卵焼きにサバの味噌煮。それから忘れちゃいけないのが、天ぷら定食!
良い油を使ってるのがお爺さんの自慢でね、衣はサクサク、だけど中の具材はぷりぷり、ほくほくで。どれだけ食べても胸焼けしない、ほんとにおいしい天ぷらだったわぁ」
お腹が小さく鳴り、顔が熱くなったぼくを、霧江さんはにこにこと見つめた。
「お父さんと出会ったのも、そのお店でね。ふふっ、あの人ったら、お店の前で倒れてたのよ?」
若い頃のオレクサンドルさんは、母国のウクライナから家出同然に日本へやって来たらしい。最初は頼る者も、住む家もないような有様で、カザークを立ち上げるまでは相当な貧乏暮らしだったそうだ。
「仕事に没頭し過ぎて、何日も食事を取り忘れてたんですって。ほんと、しょうがない人よねぇ?」
ここは突っ込んだほうがいいのか。かなり迷ったけれど、どうやら天然らしいのでスルーするしかなかった。
「もうずいぶん前にお店はなくなっちゃったけど、ここの店主さんがお爺さんの弟子でね。お爺さんのお店と同じ味の天ぷらを出してくれるの」
霧江さんは、とても澄んだ瞳でぼくを見つめる。
「今日はレナちゃんに、お母さんの思い出の味を食べて欲しいなって思って。ここへ連れて来たの」
ぼくは、はっとした。
目の前に座った霧江さんは、ひどく優しい顔をしていた。母の顔という概念を形にするとしたら、きっとこういう形になる。そんな顔だった。
・自動運転車
将来的にはこうなるかも、という可能性の一つと思っていただければ。




