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空腹

次回は、本日18時更新です

 散々だったピアノのレッスンを終え、鉛みたいな足を引きずってオレーナさんの部屋に戻る。夕暮れ前の西日が差し込む中、ぼくは一人掛けソファの座面に突っ伏して、静かに悶えた。


 この一週間で、一番居たたまれない時間だった。

 もしかして、ピアノの経験があったのでは? という本来のぼくに対する淡い期待は、レッスンが始まって五秒で打ち砕かれた。楽譜が読めない時点で、経験もへったくれもあるはずがない。

 レッスン室には、ぼくと先生の二人きり。延々と響き続ける不協和音に、ぼくの胃壁はゴリゴリと削られていった。


 たぶん、猫が百匹くらい死んだはずだ。先生は、ずっとニコニコしていたけれど、それが静かな怒りを感じさせて逆に怖い。


「次までに、ちゃんと練習しておかないと……」


 ぼくは、スマホのスケジュールアプリを開いた。学校とお仕事、それに各種レッスンや勉強の予定が、凜さんとユエさんによって組まれている。その隙間時間に、ぼくは自主練習を行っていた。


 この一週間でわかったのは、ぼくにはなにもかもが足りないという事実だった。

 知識も、経験も、技術も。オレーナさんを演じるためには、足りないものが多すぎる。すべてを元通りこなすためには、休んでいる暇なんて存在しない。


「そうだ、写真も撮らないと」


 凜さんから、SNSの投稿頻度を増やしてほしいと頼まれてたんだった。


 こういうSNSの運用が、現代のモデルさんには大事らしい。潜在顧客? の認知度を一定に保って、常に飽きさせない必要があるのだとか。


 凜さんからは、SNSアカウントの代理運用も提案された。けれど学校や仕事、レッスンのサポートまでしてくれている彼女に、これ以上負担を掛けるわけにはいかない。それにオレーナさんの代わりを務めるなら、こういう細かい業務だって、こなせるようにならないと。


「なに撮ろうかな?」


 お仕事がある日は、その撮影風景を載せればいいのだけれど、あいにくと今日はオフだ。夕飯にはまだ時間があるし、中林さんにも悪い(映える写真は撮るのにすごく時間が掛かるので、その間に料理が冷めてしまう)。


 ふと、一昨日の撮影で貰った化粧品のことを思い出した。たしか、紙袋に入れっぱなしになっていたはず。


 出てきたのは、美術の授業で絵具を出すのに使うパレットを、小さくしたようなものだった。アイパレットというらしい。四つに仕切られたパレットには、それぞれ固形の塗料が入っていて、これを瞼に塗って使う。


 まだ自分で化粧はできないので、手に持ったアイパレットを、そのままスマホで撮影した。


「えーっと、マーブルさんからいただきました、と」


 教えてもらった定型文とタグをくっ付けて投稿する。もう何度も経験してることなのに、投稿ボタンをタップする瞬間は、どうしても指先が震えた。

 ほどなくして、SNSに反応が返ってくる。


 ずらっと並ぶハートマークは、いつ見ても壮観だった。化粧品の写真を上げただけなのに、すでに五十を超えるコメントが届いている。その中に、日向くんのコメントを見つけて、ぼくは唸った。


 いつものことながら、レスポンスが速い。まるでアカウントを常時監視しているような素早さで、コメントが送られてきている。


「日向くん、化粧品に興味あるのかな?」


 拡大したコメント欄には「それいいっスね! どこで買ったんスか?」と書かれている。

 最近は、メンズメイクも普通のことだって言うし。でもサッカー部って、化粧OKなのかな?


 ぼくはアカウントの投稿をさかのぼって、日向くんのコメントを探してみた。内容はいつも「その服似合ってますね」とか、「仕事ガンバです!」とか、当たり障りのないものばかりで、とても凜さんが言うような極悪人には思えない。


「ちょっとチャラいけどね」


 でも、それだけだ。なんで凜さんは、あんなにサッカー部の人たちを目の敵にするんだろう?









 考えたところで答が出るはずもない。それよりいまは、SNSの更新のほうが重要だ。

 次はなにがいいかと、検索アイコンからトレンドをチェックしてみる。


「……みんな同じポーズしてるな」


 指を鉄砲の形にして頭に向けている。どうやら、ヒットした映画の一場面を真似ているらしい。


 流行りごとは真似ておくのが無難か。とりあえず画像を見ながらポーズを真似し、何枚か撮ってみる。


「うーん、光の加減かな? なんかちょっと違うような……」


 部屋の中を歩き回るが、どうも納得のいく写真が撮れない。

 場所を移そうと、ぼくは廊下に出た。


 階段の真ん中で、霧江さんが倒れていた。


「……うわぁあぁぁーっ!? だ、大丈夫ですか!?」


 うつ伏せに倒れた霧江さんは、ぴくりとも動かない。


 こういう場合どうすれば。下手に動かすと危ないって言うし。とりあえず救急車。いや、その前に警察をっ。


「うう~ん……」


 ぼくがまごついている間に、霧江さんは唸り声を上げて仰向けに転がる。

 血の気が引き、青褪めた顔に浮かぶ黒い斑点。普段は柔和な笑みをたたえる口元は、水分を失ってカサカサに干からびている。


「な、なに? ……なにが起こって……」


 まさか伝染病──身構えたぼくの耳に独特の重低音が届いたのは、そのときだった。


 青褪めた顔のまま、霧江さんは小さく唸っている。渇いた唇が、まるで砂漠で行き倒れた旅人みたいな声音で、


「お、お腹……すいた……」

「……へ?」

・アイパレット

 アイシャドウパレットとも

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