第9話 銀狼王は、母の最後の約束を知っている
「……殺してくれ」
母を知る銀狼王は、もう一度そう言った。
僕は首を横に振った。
「嫌です」
『……ならば、逃げろ』
巨大な石扉の向こうから、鎖の軋む音が響く。
『三時間もすれば、私はお前を食い殺す』
「……それも嫌です」
『……頑固な子だ』
低い声が、かすかに笑った。
『エレシアによく似ている』
その名前を聞いて、僕の胸が跳ねた。
「……母を、知っているんですか?」
答えの代わりに、闇の奥で何かが動いた。
ずるり。
黒い鎖が、石床を引きずられる。
そして。
青白い瞳が、二つ。
暗闇の中に浮かび上がった。
「…………」
僕は息をのんだ。
大きい。
あまりにも、大きい。
ゆっくりと姿を現したのは、銀色の巨大な狼だった。
肩の高さだけで、僕の背丈をはるかに超えている。
鼻先から尻尾までなら、八メートル以上はあるだろう。
月光を編み込んだような銀の毛並み。
頭には、王冠のように伸びた角。
そして、首と四肢には、幾重にも巻きついた黒い鎖。
美しい。
そう思った。
けれど、その美しさを台無しにするものがあった。
狼の首筋に、黒い結晶が埋め込まれていた。
結晶から伸びた黒い筋が、銀色の毛皮の下を這っている。
まるで、身体の中に毒が広がっているようだった。
『……見たか』
狼が、低く言った。
『これが、今の私だ』
僕は何も言えなかった。
怖かったからではない。
いや、もちろん怖い。
今にも逃げ出したいくらい怖い。
でも、それ以上に。
……痛そうだった。
狼は、僕を見下ろした。
『エレシアの子よ。名を聞こう』
「……レオンです」
『レオン……』
銀狼王は、その名をゆっくりと繰り返した。
『よい名だ』
僕は、少しだけ笑った。
「……ありがとうございます」
『私は、シルヴァ』
狼は、静かに言った。
『かつて、この森を守っていた者だ』
その瞬間。
僕の視界に、文字が浮かんだ。
【個体名:シルヴァ】
【種族:銀狼王】
【状態:強制進化侵食・重度】
【本来の進化系統:月光聖狼】
【現在の進化経路:汚染】
【精神侵食率:九十六%】
【自我消失まで:残り二時間五十七分】
僕は、息をのんだ。
本来の進化系統。
月光聖狼。
そして、現在の進化経路は汚染。
……やっぱり。
この狼は、ただ暴れているわけじゃない。
何かに、無理やり変えられようとしている。
「……シルヴァさん」
『何だ』
「その首の結晶、誰かにつけられたんですか?」
銀狼王の瞳が、わずかに細くなった。
『……見えるのか』
「はい」
『……そうか』
シルヴァは、苦しそうに息を吐いた。
『ならば、話は早い』
黒い鎖が、ぎしりと軋む。
『あれは、人間どもが埋め込んだものだ』
「……人間?」
『王国の紋章を持つ者たちだった』
僕は、目を見開いた。
王国。
まさか。
『彼らは、魔物の進化を操ろうとしていた』
シルヴァの声が、低くなる。
『本来、進化とは生命が自ら選び取るものだ。だが、あの者たちは違った』
黒い結晶が、赤く光った。
『魔力を注ぎ込み、精神を壊し、望む姿へ作り替える』
僕は、思わずポヨを抱きしめた。
『そして、従順な兵器として使う』
「……そんな」
ポヨは、僕の腕の中でかすかに震えていた。
昨日まで、元気に跳ねていた小さなスライム。
もし、誰かがポヨを無理やり進化させたら。
ポヨの意思を奪って、命令だけを聞く魔物にしたら。
……絶対に嫌だ。
僕は、シルヴァを見上げた。
「……助けます」
シルヴァは、静かに目を閉じた。
『……無理だ』
「……どうして?」
『この結晶は、私の魔力炉と一体化している』
銀狼王は、首を少しだけ動かした。
『無理に取り除けば、私は死ぬ』
僕は、息をのんだ。
『そして、放置すれば、私は自我を失う』
シルヴァは、かすかに笑った。
『だから、殺してくれと言ったのだ』
僕は、黙った。
そのとき。
視界に、文字が浮かんだ。
【強制進化核:侵食型】
【状態:宿主魔力炉と接続】
【通常除去:宿主死亡の危険】
【進化経路の修正:条件未達】
【必要条件】
【一、侵食魔力の分離】
【二、宿主の自発的意思】
【三、適合する共鳴媒体】
僕は、目を見開いた。
……ある。
助ける方法が。
まだ、条件は満たしていない。
でも。
可能性は、残っている。
「……シルヴァさん」
『何だ』
「僕、もしかしたら助けられるかもしれません」
銀狼王が、目を開いた。
『……何?』
「その結晶を、無理やり取るんじゃなくて」
僕は、ゆっくりと言った。
「中にある悪い魔力だけを、分けられたら……」
シルヴァは、しばらく僕を見つめていた。
そして。
『……なるほど』
低く、つぶやいた。
『エレシアの子が、そのようなことを考えるとは』
「……母も、同じことを?」
僕が尋ねると。
シルヴァは、ゆっくりと首を振った。
『……似ているが、違う』
「……え?」
『あの方は、私を助けるために、命を懸けた』
僕の胸が、強く鳴った。
「……母が?」
『そうだ』
シルヴァは、遠くを見るように目を細めた。
『かつて、この森には、多くの魔物が暮らしていた』
その声は、どこか懐かしそうだった。
『強い者も、弱い者も。互いに争いながら、それでも均衡を保っていた』
黒い鎖が、静かに揺れる。
『だが、王国の者たちが来てから、すべてが変わった』
僕は、黙って聞いていた。
『彼らは、魔物を捕らえた。進化を強制し、従わぬ者を処分した』
シルヴァの瞳が、かすかに揺れる。
『私は、彼らを止めようとした』
「……それで?」
『敗れた』
短い言葉だった。
けれど、その声には深い悔しさがあった。
『あの者たちは、私の力を利用するため、黒い結晶を埋め込んだ』
シルヴァは、苦しそうに息を吐いた。
『私は、自分を失いかけた』
そして。
『そのとき、エレシアが現れた』
僕は、息をのんだ。
母。
僕が幼い頃に亡くなった母。
優しくて、いつも笑っていた人。
でも。
僕は、母のことをほとんど知らない。
『あの方は、私を殺さなかった』
シルヴァは、静かに続けた。
『私が何度も、殺してくれと頼んだにもかかわらず』
僕は、思わず笑ってしまった。
「……僕と同じですね」
『……ああ』
シルヴァも、かすかに笑った。
『まったく、困った親子だ』
そして。
『エレシアは、私の暴走を止めた』
僕は、目を見開いた。
「……どうやって?」
『古代契約の力を使い、侵食を一時的に封じたのだ』
シルヴァは、首の鎖を見た。
『この鎖は、あの方が残した封印だ』
「……母が?」
『そうだ』
僕は、黒い鎖を見つめた。
ずっと、誰かがシルヴァを苦しめるためにつけたものだと思っていた。
でも。
違った。
これは。
母が、シルヴァを守るために残したものだった。
『エレシアは、最後にこう言った』
シルヴァの声が、少しだけ震えた。
『いつか、あなたが自分の意思で生きられる日が来るまで、私が守る、と』
僕は、何も言えなかった。
母らしい。
そう思った。
弱いからって、その子に価値がないわけじゃない。
幼い頃、何度も聞いた言葉。
その言葉を。
母は、本当に信じていたんだ。
『……だが』
シルヴァの声が、低くなった。
『私は、その約束を守れなかった』
黒い結晶が、赤く光る。
『封印は、もう限界だ』
その瞬間。
【警告】
【精神侵食率:九十七%】
【自我消失まで:残り二時間四十分】
僕は、息をのんだ。
時間がない。
母の話を、もっと聞きたい。
でも。
今は、それどころじゃない。
「……シルヴァさん」
『何だ』
「僕、ポヨを治したいんです」
僕は、腕の中の小さなスライムを見せた。
シルヴァの瞳が、わずかに動いた。
『……共鳴スライムか』
「……知ってるんですか?」
『ああ』
シルヴァは、静かにうなずいた。
『かつて、古代契約の時代に存在した種だ』
僕は、目を見開いた。
『異なる魔力をつなぎ、互いの力を分け合う』
シルヴァは、ポヨを見つめた。
『……珍しいな』
「……はい」
『だが、魔力循環が壊れている』
僕は、ぎゅっとポヨを抱きしめた。
「……治したいんです」
『……月光魔晶が必要だな』
「……持ってるんですか?」
シルヴァは、静かにうなずいた。
『私の身体の奥に、まだ残っている』
僕は、息をのんだ。
「……分けてもらえますか?」
『……構わん』
「……本当ですか!?」
『ああ』
シルヴァは、かすかに笑った。
『だが、一つ問題がある』
「……何ですか?」
『私の魔力が、黒い結晶に侵食されている』
僕は、目を見開いた。
『今のまま魔晶を取り出せば、その汚染も一緒に移る』
「……それって」
『そのスライムも、私と同じようになる可能性がある』
僕は、息をのんだ。
ポヨが。
強制進化に侵食される。
そんなこと。
絶対に、させられない。
「……じゃあ」
僕は、ゆっくりと言った。
「先に、シルヴァさんを治します」
シルヴァが、目を見開いた。
『……何?』
「シルヴァさんが治れば、ポヨも治せるんですよね」
『……理屈では、そうだ』
「じゃあ、そうしましょう」
僕は笑った。
シルヴァは、しばらく黙っていた。
そして。
『……レオン』
「はい」
『お前は、自分が何を言っているのかわかっているのか』
「……たぶん」
『私は、災厄級の魔物だ』
「……はい」
『しかも、今は暴走寸前だ』
「……はい」
『助けようとして、死ぬかもしれん』
僕は、少しだけ考えた。
怖い。
ものすごく怖い。
でも。
僕は、ポヨを見た。
ルナを見た。
霊鳥を見た。
そして、シルヴァを見上げた。
「……それでも」
僕は、静かに言った。
「助けられるかもしれないなら、やってみたいです」
シルヴァは、しばらく僕を見つめていた。
そして。
『……エレシア』
かすかに、つぶやいた。
『……お前の息子は、どうやら本当に……』
その言葉は、最後まで続かなかった。
突然。
黒い結晶が、強く光った。
「……っ!?」
シルヴァの身体が、大きく震える。
鎖が、激しく軋んだ。
『……ぐ、あああっ!』
「シルヴァさん!?」
僕は叫んだ。
視界に、赤い文字が浮かぶ。
【緊急警告】
【強制進化核:出力上昇】
【精神侵食率:九十八%】
【自我消失まで:残り二時間】
シルヴァの瞳が、赤く染まり始めた。
『……逃げろ!』
低い声が、広間に響いた。
『……今すぐ、逃げろ!』
僕は、動けなかった。
黒い鎖が、一本。
ばきんっ!
砕けた。
巨大な前脚が、自由になる。
その爪が、石床を深く抉った。
「……っ!」
僕は、反射的に後ずさった。
ルナが、僕の前に飛び出す。
「きゅううっ!」
青白い炎が、身体の周囲を巡る。
霊鳥も、翼を広げた。
ぴぃぃ!
でも。
シルヴァの魔力は、あまりにも強大だった。
僕たちの身体が、押しつぶされそうになる。
「……くっ!」
僕は、ポヨを抱きしめた。
そのとき。
視界に、新しい文字が浮かんだ。
【進化経路解析】
【対象:銀狼王シルヴァ】
【本来の進化先:月光聖狼】
【現在の進化先:黒蝕狼王】
【強制進化核による経路改竄を確認】
【修正可能性:あり】
僕は、目を見開いた。
修正可能性。
ある。
まだ、ある。
でも。
【必要条件】
【侵食魔力の分離】
【宿主の自発的意思】
【適合する共鳴媒体】
僕は、ポヨを見た。
共鳴媒体。
それは、きっと。
ポヨのことだ。
でも、今のポヨは。
魔力循環が壊れている。
そんな状態で、シルヴァの侵食魔力を受け止めたら。
……死んでしまう。
「……どうすれば」
僕は、震える声でつぶやいた。
そのとき。
胸元の石が、強く光った。
「……え?」
母の形見。
灰色の石。
その表面に、見たことのない紋様が浮かび上がる。
そして。
僕の視界に、新しい文字が現れた。
【古代契約認証鍵:反応】
【継承者:レオン・アルヴェイン】
【封印領域への限定接続を確認】
【未使用の保護命令を検知】
僕は、息をのんだ。
保護命令?
その瞬間。
石から、淡い銀色の光が広がった。
そして。
聞き覚えのある声が、響いた。
『……レオン』
僕は、凍りついた。
優しい声。
温かい声。
幼い頃、何度も聞いた声。
忘れたことなんて、一度もない。
「……母、さん?」
石が、静かに光っている。
そして。
『もし、あなたがこの声を聞いているなら』
僕は、息をのんだ。
これは。
母の声だ。
でも、目の前に母がいるわけではない。
昔、残された言葉。
そんな気がした。
『きっと、あなたは誰かを助けようとしているのでしょうね』
僕の目から、涙がこぼれた。
『……でも、レオン』
優しい声が、続いた。
『一つだけ、約束して』
僕は、震える声で答えた。
「……うん」
『誰かを助けるために、自分を犠牲にしないで』
僕は、目を見開いた。
『あなた自身も、大切な命なのだから』
その言葉に。
僕は、何も言えなくなった。
母は、知っていたんだ。
僕が、誰かを助けようとして無茶をすることを。
だから。
こんな言葉を、残してくれた。
そして。
『……もし、本当に助けたいなら』
石が、強く光った。
『一人で背負わないで』
僕は、息をのんだ。
『あなたを信じてくれる誰かを、信じなさい』
その瞬間。
視界に、文字が浮かんだ。
【古代契約保護命令:起動】
【限定機能:魔力経路の可視化】
【使用可能時間:三分】
【注意:認証鍵の蓄積魔力を消費します】
僕は、目を見開いた。
三分。
たった三分。
でも。
今まで見えなかったものが、見え始めた。
シルヴァの身体。
黒い結晶。
そこから伸びる、無数の魔力の糸。
そして。
その糸の奥に。
小さな、銀色の光。
シルヴァ自身の魔力。
まだ、残っている。
「……あった」
僕は、震える声でつぶやいた。
「……シルヴァさんの、本当の魔力」
黒い鎖が、激しく軋む。
シルヴァが、苦しそうに叫んだ。
『……逃げろ、レオン!』
僕は、首を振った。
「……嫌です」
そして。
ポヨを見た。
ルナを見た。
霊鳥を見た。
「……みんな」
三匹が、僕を見つめた。
「……お願いがあるんだ」
僕は、ゆっくりと言った。
「一緒に、シルヴァさんを助けてほしい」
ルナが、力強く鳴いた。
「きゅうっ!」
霊鳥が、翼を広げた。
ぴぃ!
そして。
僕の腕の中で。
ポヨが。
かすかに、震えた。
ぽよ……。
僕は、息をのんだ。
その瞬間。
【共鳴スライム:ポヨ】
【生命力:低下】
【魔力循環:損傷】
【特殊条件を確認】
【複数個体からの自発的魔力供給】
【古代契約保護命令との接続】
【進化可能性:再解析】
僕は、目を見開いた。
進化。
ポヨの進化。
まだ、可能性がある。
そして。
【新規進化候補を検知】
【共鳴スライム → 月光共鳴スライム】
【必要条件】
【一、月光属性魔力への接触】
【二、魔力循環の再構築】
【三、他者を救うための自発的共鳴】
【警告】
【進化成功率:不明】
【失敗時、生命維持機能停止の危険】
僕は、息をのんだ。
進化すれば、ポヨは助かるかもしれない。
でも。
失敗すれば、死ぬかもしれない。
僕は、ポヨを見た。
小さな身体。
かすかな震え。
そして。
ぽよ。
いつもと同じ、優しい声。
僕は、涙を拭った。
「……ポヨ」
ゆっくりと、尋ねた。
「……どうしたい?」
ポヨは、しばらく動かなかった。
そして。
小さな身体を、僕の手に押しつけた。
ぽよん。
僕は、息をのんだ。
……そっか。
ポヨは、助けたいんだ。
シルヴァさんを。
僕と同じように。
「……わかった」
僕は、ゆっくりとうなずいた。
「……一緒にやろう」
その瞬間。
ポヨの身体が、銀色に光った。
【進化選択:確認】
【対象:ポヨ】
【進化候補:月光共鳴スライム】
【進化条件:未達成】
【進化補助処理:開始】
僕は、目を見開いた。
まだ、進化できない。
でも。
そのための道が、開いた。
そして。
目の前では。
黒い鎖が、最後の一本を残して砕けようとしていた。
【銀狼王シルヴァ】
【精神侵食率:九十九%】
【自我消失まで:残り三十分】
僕は、息をのんだ。
三十分。
もう、時間がない。
そのとき。
シルヴァの口元が、わずかに動いた。
『……レオン』
「……はい」
『……一つ、頼みがある』
「……何ですか?」
銀狼王は、苦しそうに息を吐いた。
そして。
『……もし、私が戻れなくなったら』
僕は、首を振った。
「……そんなこと、言わないでください」
『……聞け』
シルヴァの声が、少しだけ強くなった。
『……エレシアが残した、最後の約束だ』
僕は、息をのんだ。
『……この森の奥に』
黒い結晶が、赤く光る。
『……もう一つ、守らなければならないものがある』
「……何ですか?」
シルヴァは、ゆっくりと目を閉じた。
そして。
『……お前の母が、命を懸けて隠した――』
その瞬間。
ばきんっ!
最後の鎖が、砕けた。
巨大な銀狼王が、ゆっくりと立ち上がる。
青白い瞳が、完全に赤く染まった。
そして。
地の底を震わせるような咆哮が、響き渡った。
【緊急警告】
【強制進化核:最終段階移行】
【対象:銀狼王シルヴァ】
【進化経路:黒蝕狼王】
【宿主の自我:消失寸前】
僕は、ポヨを抱きしめた。
そして。
目の前の巨大な狼を見上げた。
「……シルヴァさん」
声が、震えた。
でも。
僕は、逃げなかった。
「……絶対に」
僕は、ゆっくりと言った。
「……助けます」
その瞬間。
銀狼王が。
僕に向かって、飛びかかってきた




