第8話 狐の少女は、まだ僕を主人と認めない
ポヨが、僕の名前を呼んだ。
『……レオン』
聞き間違いだと思った。
だって、ポヨはスライムだ。
今まで一度も、人間の言葉を話したことなんてない。
それなのに。
『……ごめんね』
小さな声が、確かに聞こえた。
「……ポヨ?」
僕は慌てて顔を上げた。
けれど、腕の中にいるポヨは動かない。
青い身体は、昨日よりも小さくなっていた。
内部に浮かんでいた銀色の光も、ほとんど消えている。
【個体名:ポヨ】
【種族:共鳴スライム】
【状態:魔力循環損傷】
【生命力:低下】
【推定活動可能時間:二十一時間】
「…………」
僕は、息をのんだ。
二十一時間。
昨日は、そんな表示はなかった。
いや。
表示されていなかっただけで、ポヨの身体はずっと悪くなっていたのかもしれない。
「……どうして」
僕は、震える声でつぶやいた。
「六日あるんじゃなかったの……?」
銀狼王の封印が壊れるまで、六日。
でも、ポヨには。
もう、一日も残されていない。
僕は、ぎゅっと拳を握った。
そのとき。
『訂正します』
古代施設の水晶から、声が響いた。
『二十一時間は、魔力循環が完全停止するまでの推定時間です』
「……それって」
『完全停止後、自然回復する可能性は極めて低くなります』
「……治す方法は?」
『月光魔晶による魔力循環の再構築が必要です』
「……どこにあるの?」
『北部封印領域』
「……そこまで、どのくらい?」
『徒歩で約二日』
「…………」
僕は、言葉を失った。
二日。
ポヨに残された時間は、二十一時間。
間に合わない。
どう考えても。
「……ほかの方法は?」
『現在の施設権限では、該当する治療方法を確認できません』
「……そう」
僕は、ポヨを見た。
小さな身体。
いつも元気に跳ねていた、青いスライム。
パンを勝手に食べて。
僕の腕の中で眠って。
危ないときには、必ず僕を守ってくれた。
……僕は。
まだ、何も返せていない。
「……絶対に、助ける」
僕は、静かに言った。
その瞬間。
足元で、小さな声がした。
「……きゅ」
ルナだった。
赤茶色の毛並み。
金色の瞳。
ふさふさした尻尾。
ルナは、僕をじっと見つめていた。
「……ルナ?」
ルナは、ポヨを見た。
そして。
僕の袖を、軽く引っ張った。
「……何?」
「きゅっ」
ルナは、遺跡の出口を指すように尻尾を振った。
僕は、目を見開いた。
「……何か、知ってるの?」
「きゅっ!」
ルナは、力強くうなずいた。
僕は、少しだけ考えた。
ルナは、この森で暮らしていた。
昨日も、食べ物のある場所を教えてくれた。
もしかすると。
北部封印領域への近道を、知っているのかもしれない。
「……案内してくれる?」
ルナは、少しだけ胸を張った。
「きゅっ!」
僕は、ポヨを抱きしめた。
「……ありがとう」
そして、立ち上がった。
「……行こう」
◇
「王よ! お待ちください!」
遺跡の入口。
妖精が、慌てて飛んできた。
「北部封印領域へ向かわれるのですか!?」
「うん」
「危険すぎます!」
「……わかってる」
「銀狼王は、災厄級の魔物です! しかも、今は精神を侵食されていると……!」
「……うん」
「それでも、行かれるのですか?」
僕は、ポヨを見た。
そして、静かに答えた。
「……行くよ」
妖精は、しばらく黙っていた。
そして。
「……ならば、私も参ります!」
「……え?」
「王の行くところ、この私あり!」
「……でも、危ないよ」
「危険など、承知の上です!」
妖精は、胸を張った。
けれど。
その小さな身体は、わずかに震えていた。
僕は、少しだけ笑った。
「……怖いんでしょ」
「……っ!」
妖精は、顔を赤くした。
「こ、怖くなど……!」
「……無理しなくていいよ」
僕は、そっと手を差し出した。
「ここで、みんなを守ってくれる?」
妖精が、目を見開いた。
「……私が?」
「うん」
僕は笑った。
「君がいないと、みんな困ると思う」
妖精は、しばらく僕を見つめていた。
そして。
小さく、うなずいた。
「……承知しました」
その声は、いつもより静かだった。
「必ず、お帰りください」
「……うん」
僕は、ポヨを抱きしめた。
「約束する」
そのとき。
霊鳥が、僕の肩へ飛び乗った。
ぴぃ。
「……君も来るの?」
ぴぃ!
小さな鳥は、力強く鳴いた。
僕は笑った。
「……ありがとう」
こうして。
僕とルナと霊鳥は、ポヨを救うため、北部封印領域へ向かった。
◇
森を進み始めて、三時間。
僕は、すでに後悔していた。
「……はあ、はあ……」
足が重い。
左腕も痛い。
昨日から、まともに食事をしていない。
陽蜜果を少し食べたけれど、それだけでは足りなかった。
しかも。
ルナが、ものすごく速い。
「……ちょ、ちょっと待って……!」
「きゅっ!」
ルナは、振り返った。
そして、呆れたように首をかしげる。
……そんな顔しなくても。
僕は、木に手をついて息を整えた。
そのとき。
視界に、文字が浮かんだ。
【個体名:ルナ】
【種族:幼体妖狐】
【状態:良好】
【進化可能性:複数】
【希少進化候補:幻炎狐】
【進化条件】
【一、幻炎制御能力の向上:達成】
【二、信頼対象への自発的防衛行動:達成】
【三、自らの意思による契約選択:未達成】
「……え?」
僕は、目を見開いた。
進化条件。
昨日まで、見えていなかった最後の条件が表示されている。
自らの意思による契約選択。
……どういうことだろう。
僕は、ルナを見た。
「……ルナ」
「きゅ?」
「君、僕と一緒にいてくれる?」
ルナは、じっと僕を見つめた。
そして。
ぷいっ。
顔をそむけた。
「……あれ」
嫌だったのかな。
僕は、少しだけ落ち込んだ。
でも。
次の瞬間。
ルナが、僕の足元へ戻ってきた。
そして。
こつん。
小さな頭を、僕の膝に押しつけた。
「……ルナ?」
ルナは、僕を見上げた。
金色の瞳が、まっすぐに僕を見つめている。
そして。
「……きゅ」
小さく鳴いた。
その瞬間。
【進化条件:三】
【自らの意思による契約選択】
【達成】
僕は、息をのんだ。
「……え?」
ルナの身体が、淡い金色に輝き始めた。
【進化条件をすべて達成】
【進化可能】
【幼体妖狐 → 幻炎狐】
【進化を実行しますか?】
僕は、文字を見つめた。
進化。
ポヨのときと同じ。
でも。
今度は、違う。
僕は、ルナを見た。
「……ルナ」
「きゅ?」
「進化したい?」
ルナは、じっと僕を見つめた。
そして。
小さく、うなずいた。
「……そっか」
僕は笑った。
「じゃあ、一緒にやってみよう」
その瞬間。
ルナの身体が、強く光った。
金色の光。
青白い炎。
そして。
ふわり。
小さな身体が、宙に浮かんだ。
「……っ!」
僕は、思わず目を細めた。
光の中で、ルナの姿が変わっていく。
赤茶色の毛並みが、深い紅色へ。
金色の瞳が、より鮮やかに。
尻尾が、一本から二本へ。
そして。
青白い炎が、身体の周囲をゆっくりと巡り始めた。
【進化完了】
【個体名:ルナ】
【種族:幻炎狐】
【固有能力:幻炎分身】
【新規能力:幻炎結界】
【特殊能力:幻影歩行】
光が、消えた。
そこにいたのは。
少しだけ大きくなった、紅色の狐だった。
尻尾は二本。
身体の周囲には、青白い炎が浮かんでいる。
「……ルナ?」
「きゅっ!」
ルナは、得意げに胸を張った。
僕は、思わず笑った。
「……すごい!」
そして、そっと抱き上げた。
「おめでとう!」
ルナは、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
そして。
「……きゅ」
僕の胸元に、顔を埋めた。
……照れているらしい。
僕は笑った。
そのとき。
視界に、新しい文字が浮かんだ。
【幻炎狐:進化特性】
【幻影歩行】
【短時間、視覚と魔力感知を惑わせる移動が可能】
【注意:長距離移動には不向き】
【幻炎結界】
【限定範囲内の魔力干渉を軽減】
【注意:高位魔力への防御効果は限定的】
「……なるほど」
僕は、少し考えた。
ルナは、強くなった。
でも、万能ではない。
特に、災厄級の銀狼王を相手にするには、まだ力が足りない。
それでも。
「……ありがとう、ルナ」
僕は、そっと頭を撫でた。
「君がいてくれて、心強いよ」
ルナは、嬉しそうに尻尾を振った。
そして。
ぷいっ。
また、顔をそむけた。
……素直じゃないなあ。
◇
それから、さらに一時間。
僕たちは、森の中の細い谷へたどり着いた。
そこには、古い石橋があった。
橋の下には、深い谷。
底は、暗くて見えない。
「……ここを渡るの?」
「きゅっ!」
ルナが、力強くうなずいた。
僕は、橋を見た。
古い。
ところどころ、石が崩れている。
でも、向こう岸へ行くには、ここを渡るしかなさそうだった。
「……気をつけよう」
僕は、ゆっくりと橋へ足を踏み出した。
その瞬間。
ぴぃっ!
肩の霊鳥が、鋭く鳴いた。
「……え?」
次の瞬間。
ひゅん!
何かが、僕の頬をかすめた。
石橋の欄干に、矢が突き刺さる。
「……っ!」
僕は、反射的に身を伏せた。
そして。
森の奥から、声が響いた。
「……見つけたぞ」
僕は、顔を上げた。
木々の間。
黒い外套をまとった男たちが、立っていた。
人数は五人。
全員、弓や短剣を持っている。
そして。
胸元には、見知らぬ紋章。
黒い鎖を模した、不気味な印。
「……誰?」
僕がつぶやくと。
先頭の男が、笑った。
「レオン・アルヴェイン」
僕は、息をのんだ。
名前を知っている。
つまり、偶然出会った相手ではない。
「……どうして、僕の名前を?」
男は、答えなかった。
代わりに。
ゆっくりと、手を差し出した。
「その石を渡せ」
僕は、胸元の革袋を押さえた。
母の形見。
灰色の石。
「……これを?」
「そうだ」
「……どうして?」
男は、薄く笑った。
「お前には、関係のないことだ」
僕は、少しだけ考えた。
昨日の騎士たち。
ルシアンの名前。
そして、今度は黒い外套の男たち。
みんな、母の石を狙っている。
偶然ではない。
「……ルシアンが、頼んだんですか?」
男の表情が、わずかに変わった。
僕は、息をのんだ。
……やっぱり。
男は、ため息をついた。
「……余計なことを考えるな」
そして、弓を構えた。
「石を渡せ。そうすれば、命だけは助けてやる」
僕は、ポヨを抱きしめた。
残り時間は、もう十数時間しかない。
ここで戦っている余裕なんてない。
でも。
石を渡せば、ポヨを治せなくなるかもしれない。
僕は、ゆっくりと首を振った。
「……嫌です」
男の目が、細くなった。
「……そうか」
次の瞬間。
「殺せ」
五人の男たちが、一斉に弓を構えた。
「……っ!」
僕は、息をのんだ。
逃げ場はない。
背後には、崩れかけた石橋。
前には、武装した男たち。
そのとき。
「きゅううっ!」
ルナが、僕の前へ飛び出した。
青白い炎が、身体の周囲を巡る。
そして。
ぽんっ!
ルナの姿が、三つに分かれた。
「……何っ!?」
男たちが、驚いた。
その隙に。
「ルナ! 橋へ!」
「きゅっ!」
僕たちは、石橋へ走った。
男たちが矢を放つ。
ひゅん!
ひゅん!
けれど。
ルナの幻炎結界が、僕たちの周囲に広がった。
青白い光。
矢の軌道が、わずかに逸れる。
一本が、肩の横をかすめた。
もう一本は、足元の石に突き刺さる。
……完全には防げない。
でも、少しだけ助かった。
「……ルナ!」
「きゅっ!」
僕は、必死に走った。
石橋の中央。
あと少しで、向こう岸。
そのとき。
ばきっ。
足元で、嫌な音がした。
「……え?」
石が、崩れた。
僕の足が、空を踏む。
身体が、傾く。
「……っ!」
落ちる。
そう思った瞬間。
ルナが、僕の服に噛みついた。
「きゅうっ!」
小さな身体で、必死に引っ張る。
けれど。
僕の身体は、重すぎた。
ルナごと、谷へ落ちていく。
「……ルナ!」
僕は、反射的にルナを抱きしめた。
ポヨも、胸元に抱え込む。
そして。
暗い谷底へ。
落ちた。
◇
どれくらい、落ちただろう。
僕は、目を閉じていた。
風が、耳元で唸る。
身体が、冷たい空気に包まれる。
そして。
突然。
ふわり。
落下が、遅くなった。
「……え?」
僕は、目を開けた。
目の前に、青白い光が広がっている。
ルナの幻炎結界。
その光が、僕たちを包んでいた。
でも。
それだけではない。
僕の肩にいた霊鳥が、翼を大きく広げていた。
小さな身体から、淡い金色の光があふれている。
ぴぃぃぃ……!
澄んだ歌声。
その瞬間。
【幼体霊鳥】
【特殊能力:風の祝福】
【一時的な落下速度軽減】
【注意:魔力消耗大】
僕は、息をのんだ。
霊鳥が。
僕たちを、助けてくれている。
「……ありがとう!」
僕は、叫んだ。
そして。
どさっ!
僕たちは、谷底の柔らかい苔の上に落ちた。
「……っ!」
衝撃。
息が詰まる。
でも。
生きている。
僕は、ゆっくりと身体を起こした。
「……ルナ?」
「……きゅ」
「……鳥さん?」
ぴぃ……。
二匹とも、無事だった。
僕は、ほっと息をついた。
「……よかった」
そして。
ポヨを見た。
小さな身体は、まだ動かない。
僕は、ぎゅっと抱きしめた。
「……もう少しだから」
そのとき。
胸元の石が、強く光った。
「……え?」
僕は、顔を上げた。
谷底の奥。
そこには。
巨大な石扉があった。
表面には、古い文字。
そして、中央には。
僕の持っている石と、同じ形のくぼみ。
「……また、遺跡?」
僕は、息をのんだ。
その瞬間。
視界に、文字が浮かんだ。
【古代施設:封印領域・外部管理門】
【認証鍵:一致】
【現在位置:北部封印領域・地下外縁】
【警告】
【内部に高位魔力反応】
【対象:銀狼王】
【精神侵食率:九十五%】
僕は、目を見開いた。
「……ここが?」
北部封印領域。
徒歩で二日かかるはずだった場所。
それが。
谷底に、あった。
僕は、ポヨを抱きしめた。
「……間に合うかもしれない」
声が、震えた。
そして。
ゆっくりと、石扉へ近づいた。
そのとき。
扉の向こうから。
低い声が、響いた。
『……その匂い』
僕は、足を止めた。
『……まさか』
巨大な何かが、動く音。
黒い鎖が、引きずられる音。
そして。
『……エレシア?』
僕は、息をのんだ。
母の名前。
どうして。
この奥にいる魔物が、母の名前を知っているんだろう。
「……あなたは、誰?」
僕が尋ねると。
しばらく、沈黙が続いた。
そして。
低い声が、静かに答えた。
『……私は』
黒い鎖が、軋む。
『……かつて、あの方に救われた者だ』
僕は、目を見開いた。
その直後。
視界に、赤い文字が浮かび上がった。
【緊急警告】
【銀狼王の精神侵食率:九十六%】
【自我消失まで:残り三時間】
僕は、息をのんだ。
三時間。
ポヨを治すために必要な月光魔晶は、この奥にある。
そして。
銀狼王自身も、あと三時間で自我を失う。
僕は、ゆっくりと石扉を見上げた。
その向こうから。
苦しそうな声が、聞こえた。
『……頼む』
『……私が、私でなくなる前に』
そして。
『……殺してくれ』
僕は、息をのんだ。
……殺す?
この人を?
僕は、ポヨを見た。
ルナを見た。
霊鳥を見た。
そして。
静かに首を振った。
「……嫌です」
扉の向こうで、何かが動いた。
『……何?』
「僕、あなたを殺しに来たんじゃありません」
僕は、ゆっくりと答えた。
「助けに来たんです」
しばらく、沈黙。
そして。
扉の向こうから。
かすかな笑い声が聞こえた。
『……そうか』
その声は、どこか悲しそうだった。
『……やはり』
黒い鎖が、軋む。
『……あの方の、子なのだな』
僕は、息をのんだ。
そして。
石扉が。
ゆっくりと、開き始めた。




