第2話 最弱スライム、初めての進化
「……ポヨ。君、ちょっと重くなってない?」
ぽよん。
「いや、嬉しそうにされても」
灰霧の森を歩き始めて、三十分ほど。
僕の腕の中にいるスライム――ポヨは、先ほどより明らかに大きくなっていた。
最初は両手に収まる程度だったのに、今では小さな枕くらいある。
しかも。
「……また食べてる」
むにゅ。
ポヨの身体の中で、僕のパンが溶けていた。
さっき、残りを鞄にしまったはずなのに。
「それ、僕の明日の朝ご飯なんだけど」
ぽよ?
首をかしげたように身体が傾く。
いや、首はないんだけど。
「……まあ、いいか」
よくない。
全然よくない。
僕の食料は、もうパン一つしか残っていないのだから。
それでも、ポヨが元気になったのは嬉しかった。
さっきまで黒く変色していた身体も、少しずつ透明な青色に戻ってきている。
僕は試しに、あの不思議な文字を思い浮かべた。
すると。
【個体名:ポヨ】
【種族:下級スライム】
【状態:回復中】
【魔力蓄積量:微量】
【進化可能性:四系統】
やっぱり見える。
夢ではなかったらしい。
「進化って、どうすればできるんだろう」
僕がつぶやくと、文字が変わった。
【進化には、個体ごとに異なる条件の達成が必要です】
【現在、確認可能な条件】
【生命の危機からの回復:達成間近】
【異なる属性の魔力を摂取:未達成】
【第三条件:非公開】
「……非公開って」
誰が隠しているんだろう。
僕は少し考えた。
異なる属性の魔力。
魔法の授業で聞いたことがある。
火、水、風、土。
魔力にはいくつかの性質があって、魔物によって得意な属性が違うらしい。
でも、僕は魔法が得意ではない。
水を少し出す程度ならできるけれど、それだって大した量ではなかった。
「試してみようかな」
僕はポヨを地面に下ろした。
右手を差し出し、魔力を集中させる。
「《ウォーター》」
ぽた。
指先から、水滴が一つ落ちた。
……一つだけ。
「……うん。今日も絶好調だ」
自分で言って、少し悲しくなった。
侯爵家では、この程度の魔法しか使えない僕を、ルシアンがよく笑っていた。
十一歳の弟は、すでに炎の槍を三本同時に操れる。
それに比べて僕は、水滴一つ。
まあ、仕方ない。
得意不得意は誰にでもある。
そう思った、そのときだった。
ぽよん!
ポヨが跳ねた。
そして、落ちてきた水滴を身体で受け止める。
【水属性魔力を摂取しました】
【魔力蓄積量:微量増加】
「……あ」
僕は目を丸くした。
「これでいいんだ」
ぽよぽよ!
ポヨは嬉しそうに震えている。
どうやら、僕の魔法でも役に立つらしい。
ちょっと嬉しかった。
「じゃあ、もう一回」
僕は右手を構えた。
「《ウォーター》」
ぽた。
ぽよん!
「もう一回」
ぽた。
ぽよん!
「もう……」
ぐらり。
「……あれ?」
急に、視界が揺れた。
僕は近くの木に手をついた。
魔力切れだ。
情けないことに、水滴を三つ出しただけで、僕の魔力はほとんどなくなってしまったらしい。
ポヨが足元に寄ってきた。
ぽよ……。
「大丈夫。ちょっと休めば治るよ」
僕は笑ってみせた。
けれど。
そのとき、森の奥から低い唸り声が聞こえた。
「……え?」
がさり。
茂みが揺れる。
次の瞬間。
巨大な灰色の狼が姿を現した。
「……っ!」
大きい。
普通の狼の倍はある。
赤い目。
鋭い牙。
肩から背中にかけて、黒い棘のような毛が生えている。
僕は息をのんだ。
魔物だ。
しかも、かなり危険な種類の。
頭の中で、昔読んだ魔物図鑑の記述がよみがえる。
灰牙狼。
群れで狩りをする、森の中級魔物。
成人した兵士でも、一人で相手にするのは難しい。
その狼が、ゆっくりと僕たちに近づいてきた。
「……ポヨ。下がって」
ぽよ?
「僕の後ろに」
僕は腰の短剣を抜いた。
手が震えていた。
怖い。
ものすごく怖い。
剣術の授業では、木剣を使って何度も負けた。
本物の魔物と戦ったことなんて、一度もない。
勝てるわけがない。
それでも。
僕はポヨの前に立った。
狼が牙をむいた。
ぐるるる……。
「……ごめんね」
僕は小さくつぶやいた。
「せっかく助かったのに、こんなことになって」
ぽよ。
「でも、君だけなら逃げられるかもしれない」
僕は短剣を握り直した。
「だから、逃げて」
狼が地面を蹴った。
速い。
僕には、ほとんど見えなかった。
「っ!」
反射的に短剣を突き出す。
けれど、刃は空を切った。
狼の爪が、僕の左腕をかすめる。
「うあっ!」
鋭い痛み。
服が裂け、血がにじんだ。
僕は後ろに倒れた。
短剣が手から離れる。
狼が、僕の喉元へ飛びかかってきた。
ああ。
死ぬ。
そう思った。
その瞬間だった。
ぽよおおおん!
青い塊が、僕の前に飛び出した。
「ポヨ!?」
スライムが、狼の顔に張りついた。
狼が驚いて首を振る。
ポヨは必死にしがみついていた。
でも、相手は灰牙狼だ。
たかが下級スライム一匹で、どうにかできる相手ではない。
狼が地面に顔をこすりつけた。
べちゃっ!
ポヨが吹き飛ばされる。
木の幹にぶつかり、青い身体が大きく歪んだ。
「ポヨ!」
僕は叫んだ。
狼が再び、ポヨへ向かう。
今度は、ポヨを食べるつもりらしい。
僕は立ち上がろうとした。
でも、足が動かない。
魔力切れと恐怖で、身体が言うことを聞かなかった。
そのとき。
視界に、文字が浮かんだ。
【個体名:ポヨ】
【生命の危機からの回復:達成】
【水属性魔力:摂取済】
【第三条件:判定中】
その下に、赤い文字が現れた。
【警告】
【対象個体の生命力が急速に低下しています】
「……そんな」
ポヨが死ぬ。
僕を守ろうとして。
僕のせいで。
嫌だ。
そんなの、絶対に嫌だ。
「……ポヨ!」
僕は地面を這った。
狼の牙が、ポヨに迫る。
間に合わない。
そう思った瞬間。
僕の手が、ポヨの身体に触れた。
「お願いだから……!」
声が震えた。
「死なないで!」
そのとき。
胸元の革袋が、熱を帯びた。
「……え?」
母の形見。
灰色の石が、服の下で淡く光っていた。
僕は驚いた。
でも、それどころではなかった。
狼が、すぐそこにいる。
僕はポヨを抱きしめた。
「僕の魔力でよければ、全部あげるから!」
残っていたわずかな魔力を、必死に流し込む。
水滴を出すことしかできない、情けない魔力。
それでも。
ポヨが生きてくれるなら。
僕は何度でも、何度でも――。
【第三条件を確認】
【自身より弱い生命を守ろうとする意思】
【達成】
文字が、青白く輝いた。
【未発見進化の条件を満たしました】
【進化可能】
【進化先:共鳴スライム】
【警告:進化には蓄積魔力が不足しています】
僕は息をのんだ。
足りない。
条件は満たしたのに。
魔力が、足りない。
「……どうすれば」
狼が跳んだ。
牙が迫る。
その瞬間、ポヨの身体が僕の腕の中で大きく震えた。
ぽよん!
青い身体が伸びる。
そして、僕の胸元へ。
灰色の石へと触れた。
ぱきん。
小さな音がした。
石の表面に、細い光の筋が走る。
【古代魔力反応を検知】
【不足魔力を一時補填】
【進化を開始します】
「……え?」
ポヨが、光った。
青白い光が、森の中を照らす。
狼が驚いて後ずさった。
僕の腕の中で、ポヨの身体がゆっくりと浮き上がる。
【進化中】
【下級スライム】
【 ↓ 】
【共鳴スライム】
光が弾けた。
次の瞬間。
そこには、さっきまでとは違うスライムがいた。
身体は透き通るような青色。
内部には、小さな銀色の光がいくつも浮かんでいる。
大きさは、先ほどとほとんど変わらない。
けれど。
何かが、違った。
「……ポヨ?」
ぽよん!
いつもの声。
でも、次の瞬間。
ポヨの身体から、細い光の糸が伸びた。
それが、僕の左腕に触れる。
「……あれ?」
傷口が、少しだけ温かくなった。
痛みが和らぐ。
【共鳴スライム固有能力】
【魔力共鳴】
【接触した対象の魔力の性質を一時的に模倣できます】
【現在の共鳴対象:レオン・アルヴェイン】
【模倣属性:水】
僕は目を見開いた。
「……僕の魔法を?」
ぽよん!
ポヨが跳ねた。
そして、灰牙狼に向かって身体を伸ばす。
ぶしゃっ!
大量の水が、狼の顔に直撃した。
「……ええっ!?」
僕が出せるのは、水滴一つ。
なのに、ポヨが放った水は、桶一杯分ほどもあった。
狼が顔を振る。
しかし、すぐに体勢を立て直した。
当然だ。
水をかけただけで、灰牙狼が倒れるわけがない。
それでも。
「……そうか!」
僕は気づいた。
水そのものが、攻撃の目的じゃない。
狼の目をふさげばいいんだ。
「ポヨ! もう一回、顔を狙って!」
ぽよん!
ポヨが跳ねる。
水が飛ぶ。
狼が目を閉じた。
その隙に、僕は地面に落ちていた短剣を拾った。
そして。
「……こっちだ!」
近くの木に向かって走った。
狼が追いかけてくる。
速い。
僕より、ずっと速い。
でも、目はまだ十分に開けられていない。
「ポヨ、もう一回!」
ぽよん!
水が飛ぶ。
狼が一瞬、足を止める。
その隙に、僕は木の横へ飛び込んだ。
狼は勢いを止められず――。
どんっ!
太い幹に、頭からぶつかった。
低い悲鳴。
狼がふらつく。
僕は短剣を構えた。
今なら、倒せるかもしれない。
けれど。
狼の動きが止まった。
その身体が、ゆっくりと地面に崩れ落ちる。
僕は息をのんだ。
「……死んだ?」
違う。
胸が上下している。
気を失っているだけだ。
僕はしばらく動けなかった。
やがて、短剣を下ろした。
「……よかった」
ポヨが足元に寄ってくる。
ぽよ?
「うん。僕たち、生きてる」
ぽよぽよ!
ポヨが嬉しそうに跳ねた。
僕はその身体を抱き上げた。
「ありがとう、ポヨ」
ひんやりした身体が、僕の頬にくっつく。
「君がいなかったら、僕は死んでた」
ぽよん。
「……でも、無茶はしないでね」
ぽよ?
「君が傷つくのは、嫌だから」
ポヨは少しだけ静かになった。
そして、僕の胸元にぴたりとくっついた。
そのとき。
視界に、再び文字が浮かんだ。
【個体名:ポヨ】
【種族:共鳴スライム】
【固有能力:魔力共鳴】
【現在の進化段階:第一段階】
【次の進化候補を確認しますか?】
「……次?」
僕は思わず聞き返した。
もう進化したのに。
まだ、先があるの?
恐る恐る、文字に触れる。
すると。
今度は、数え切れないほどの光の枝が現れた。
青。
赤。
緑。
銀。
金。
無数の進化先が、まるで巨大な樹木のように広がっていた。
そのほとんどは、まだ名前がわからない。
けれど。
最も遠い場所に、一つだけ。
不思議な文字が浮かんでいた。
【最終進化候補】
【原初共鳴王】
【到達条件:不明】
【危険度:測定不能】
「……王?」
僕はぽかんとした。
腕の中では、ポヨがのんきに震えている。
ぽよん。
「……君が?」
ぽよん!
「……そうなんだ」
僕は少し考えた。
そして、笑った。
「じゃあ、いつか本当に王様になれるかもしれないね」
ポヨは、今までで一番大きく跳ねた。
その勢いで、僕の顔に張りついた。
「むぐっ!? ポヨ、前が見えない!」
ぽよぽよぽよ!
……どうやら、本人は大喜びらしい。
僕は苦笑しながら、ポヨを顔から引きはがした。
そして、森の奥へと目を向けた。
まだ、寝る場所すら見つかっていない。
食料も、ほとんど残っていない。
腕は痛いし、魔力も空っぽだ。
それでも。
さっきより、少しだけ未来が楽しみになっていた。
「行こうか、ポヨ」
ぽよん!
僕たちは、再び歩き始めた。
その背後で。
気絶していた灰牙狼が、ゆっくりと目を開けた。
赤い瞳が、僕たちの背中を追う。
そして。
ぐるる……。
狼は立ち上がった。
しかし、襲いかかってはこなかった。
代わりに、何かを確かめるように鼻を鳴らす。
僕の胸元。
灰色の石がある場所へ向かって。
それから狼は、森の奥へと走り去った。
まるで、誰かに何かを知らせに行くように。
――その夜。
灰霧の森のさらに奥深く。
人間が足を踏み入れたことのない古い神殿で。
一対の青白い瞳が、静かに開かれた。
『……あの方の、匂いがする』
低い声が、闇に響く。
『まさか……生きていたのか?』
けれど、返事をする者はいない。
神殿の奥で、巨大な鎖が軋んだ。
そして、その存在は。
長い眠りの中で忘れていた、一つの名前を口にした。
『……エレシア』
それは、レオンの母の名だった。




