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第1話 無能の長男と、最弱のスライム

「レオン・アルヴェイン。お前を、アルヴェイン侯爵家から追放する」


 父の言葉を聞いた瞬間、僕は思った。


 ああ、やっぱりそうなったか。


 驚きはなかった。


 悔しくないと言えば嘘になるけれど、少なくとも、今さら泣き出すほど子どもでもなかった。


 僕は十三歳。


 アルヴェイン侯爵家の長男として生まれ、今日まで、この屋敷で育ってきた。


 そして、たった今。


 そのすべてを失った。


「……理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」


「理由だと?」


 父、グラント・アルヴェイン侯爵の眉が動いた。


 王国北部の国境を守る、歴戦の名将。


 父は厳格な人だった。


 剣術に優れ、魔法に精通し、領地経営でも数々の実績を残してきた。


 だからこそ、父にとって理解できないものが一つだけあった。


 それが、僕だ。


「剣術は凡庸。魔力量も平均以下。学問においても、弟のルシアンには遠く及ばぬ」


 父の隣で、金髪の少年が小さく笑った。


 二歳年下の弟、ルシアン。


 十一歳にして宮廷魔術師から才能を認められ、剣術でも大人顔負けの腕前を持つ天才だ。


 僕とは違う。


「お前には、侯爵家を継ぐ資格がない」


「……はい」


「それだけではない。お前が屋敷の使用人や領民に与えている悪影響も看過できぬ」


 僕は思わず顔を上げた。


「悪影響、ですか?」


「使用人が本来の仕事を後回しにして、お前の周囲に集まっている。領民の子どもたちまで、お前を慕って勝手に屋敷へ出入りする始末だ」


「それは……」


 確かに、心当たりはあった。


 料理人の見習いが失敗して怒られていたから、一緒に片づけを手伝った。


 庭師のおじいさんが腰を痛めたときには、代わりに水を運んだ。


 領民の子どもたちとは、森で拾った木の実を分け合って遊んだこともある。


 でも、それが悪いことだったのだろうか。


「僕は、ただ……」


「兄上」


 ルシアンが口を挟んだ。


「父上は、兄上が甘すぎるとおっしゃっているのです」


 弟は、よく通る声で続けた。


「人の上に立つ者には、厳しさが必要です。誰にでも優しくしていては、秩序が乱れます」


「……そうかもしれないね」


「そうかもしれない、ではありません」


 ルシアンはため息をついた。


「兄上はいつもそうだ。自分がどれほど周囲に迷惑をかけているのか、理解していない」


 僕は反論しなかった。


 反論したところで、何かが変わるとは思えなかったからだ。


 父は僕のことを、ずっと無能だと考えている。


 ルシアンは僕のことを、ずっと邪魔だと考えている。


 そして今日、その結論が出ただけだった。


「追放先は?」


「北方の未開拓地だ」


 父は机の上に、一枚の地図を広げた。


 そこには、王国北部に広がる巨大な森林地帯が描かれていた。


 通称、灰霧の森。


 魔物が多く生息し、古い遺跡が点在する危険地帯だ。


「森の外縁部に、廃棄された監視小屋がある。そこまでは馬車を出してやる」


「それからは?」


「自分の力で生きろ」


 父の言葉は冷たかった。


 けれど、僕はうなずいた。


「わかりました」


 その返事が気に入らなかったのか、ルシアンが眉をひそめる。


「……随分とあっさりしていますね」


「そうかな」


「侯爵家を追い出されるんですよ?」


「うん」


「もう二度と、ここには戻れないかもしれないんですよ?」


 僕は少し考えてから答えた。


「それなら、向こうで暮らせるように頑張るよ」


 ルシアンの顔が、一瞬だけ歪んだ。


 どうしてそんな顔をするのか、僕にはわからなかった。


 父は深く息を吐いた。


「最後に、何か望みはあるか」


「……一つだけ」


 僕は胸元に手を当てた。


 服の下には、小さな革袋が下がっている。


 その中には、灰色の石が入っていた。


 何の模様もない。


 宝石でもない。


 ただの、丸みを帯びた石だ。


 でも、僕にとっては世界で一番大切なものだった。


「母上の形見だけは、持っていってもいいでしょうか」


 父の表情が、わずかに変わった。


 僕の母は、僕が幼い頃に亡くなった。


 優しくて、少し不思議な人だった。


 母はよく、森に住む小さな生き物の話をしてくれた。


 そして、いつもこう言っていた。


『レオン。弱いからって、その子に価値がないわけじゃないのよ』


 その言葉だけは、今でも覚えている。


「……好きにしろ」


 父は、それ以上何も言わなかった。


 僕は深く頭を下げた。


「今まで、お世話になりました」


 そうして僕は、十三年間暮らした屋敷を後にした。


     ◇


 灰霧の森に着いたのは、夕方だった。


「坊ちゃん、本当に大丈夫ですかい」


 馬車を操っていた老御者が、心配そうに尋ねてきた。


「うん。ここまでありがとう」


「せめて、もう少し食料を……」


「大丈夫。これだけあれば、しばらくは何とかなるよ」


 僕が持っているのは、小さな鞄一つ。


 着替えが二組。


 固いパンが三つ。


 水筒。


 古い短剣。


 そして、母の形見の石。


 侯爵家の長男としては、ずいぶん寂しい荷物だ。


 でも、重すぎなくて助かる。


「……ご無事で」


 老御者は何度も振り返りながら、馬車を走らせていった。


 僕はその姿が見えなくなるまで手を振った。


 そして、一人になった。


「さて」


 目の前には、鬱蒼とした森。


 背後には、王国へ続く細い道。


 どちらに進むべきか。


 少し考えて、僕は森の方を向いた。


「まずは、寝る場所を探さないと」


 監視小屋は、地図によればこの先にあるはずだ。


 森の中は、思っていた以上に静かだった。


 鳥の声。


 風に揺れる葉の音。


 遠くで何かが枝を折る音。


 そして。


 ぴちゃ。


「……ん?」


 足元で、小さな音がした。


 ぴちゃ、ぴちゃ。


 茂みの向こうから聞こえてくる。


 水たまりでもあるのだろうか。


 僕は枝をかき分けた。


 そこにいたのは、一匹のスライムだった。


「……あ」


 青くて、半透明。


 大きさは、僕の両手に乗るくらい。


 王国のどこにでもいる、最弱の魔物だ。


 けれど、そのスライムは普通ではなかった。


 身体の半分が、黒く変色していた。


 すぐ近くには、折れた木の枝。


 どうやら何かに襲われたらしい。


「大丈夫?」


 僕がしゃがみ込むと、スライムはびくりと震えた。


 逃げようとする。


 でも、身体がうまく動かないようだった。


「ごめん。驚かせちゃったね」


 僕は少し離れたところに座った。


 スライムは、じっと僕を見ていた。


 いや、目はないから、見ているかどうかはわからないけれど。


「痛そうだね」


 返事はない。


「僕も今日、家を追い出されたんだ」


 もちろん、返事はない。


「だから、ちょっとだけ仲間だね」


 自分で言って、少し笑ってしまった。


 スライムは、ぷるりと震えた。


 僕は鞄を開いた。


 パンが三つ。


 今日の夕食と、明日からの食料だ。


 正直、余裕はない。


 でも。


「お腹、空いてる?」


 僕はパンを一つ取り出した。


 小さくちぎって、スライムの前に置く。


 スライムは動かなかった。


「食べられるかな」


 少し待つ。


 すると。


 ぷる。


 スライムが、ほんの少しだけ前に動いた。


 そして、パンの欠片を身体の中に取り込んだ。


「おお」


 透明な身体の中で、パンがゆっくり溶けていく。


「食べられるんだ」


 僕は嬉しくなって、もう一欠片を置いた。


 スライムはそれも取り込んだ。


 そして。


 ぽよん。


 今度は、僕の方へ少し近づいてきた。


「もっと欲しい?」


 ぽよん。


「そっか」


 僕はパンを半分に割った。


 残りは自分で食べよう。


 そう思った、そのときだった。


 ――視界の端に、奇妙な文字が浮かんだ。


「……え?」


 僕は目をこすった。


 文字は消えなかった。


 青白く光る、不思議な文字。


 まるで透明な板が、空中に浮かんでいるようだった。


 そこには、こう書かれていた。


【種族:下級スライム】


【状態:衰弱・魔力欠乏】


【進化可能性:未確定】


【進化分岐を確認しますか?】


「……何、これ」


 僕は周囲を見回した。


 誰もいない。


 スライムは、相変わらずパンを食べている。


 もう一度、文字を見る。


【進化分岐を確認しますか?】


 どういう意味だろう。


 進化?


 スライムが?


 魔物が成長して強くなることは知っている。


 でも、進化先を選べるなんて話は聞いたことがない。


 僕は恐る恐る、空中の文字に指を伸ばした。


 指先が触れた瞬間。


 ぱっと、光が広がった。


【進化分岐】


【通常進化:大型スライム】


【特殊進化:粘液捕食種】


【希少進化:魔力蓄積種】


【未発見進化:??????】


「……えっ」


 僕は思わず声を上げた。


 四つもある。


 しかも、最後の一つは名前すらわからない。


 さらに、その下に小さな文字が浮かび上がった。


【未発見進化の条件】


【条件一:生命の危機からの回復】


【条件二:異なる属性の魔力を摂取】


【条件三:??????】


【現在の達成状況:一部達成】


 僕は、スライムを見た。


 スライムはパンを食べ終え、満足そうにぷるぷる震えていた。


「……君、すごいことになるかもしれないよ」


 ぽよん。


「いや、僕にもよくわからないんだけど」


 ぽよぽよ。


 スライムは、僕の靴にくっついた。


 そして、そのまま離れなくなった。


「……一緒に来る?」


 ぽよん!


 さっきより、大きく跳ねた。


 僕は笑った。


「じゃあ、よろしくね」


 スライムをそっと抱き上げる。


 ひんやりしていて、ぷにぷにしていた。


 思っていたより、ずっと気持ちいい。


「名前、どうしようか」


 スライムは僕の腕の中で震えた。


「……ポヨ、とか?」


 ぽよん!


「気に入った?」


 ぽよぽよぽよ!


「じゃあ、ポヨだね」


 こうして、僕に初めての仲間ができた。


 侯爵家から追放された、無能な長男。


 そして、森で死にかけていた最弱のスライム。


 誰が見ても、頼りない組み合わせだったと思う。


 けれど。


 このときの僕は、まだ知らなかった。


 この小さなスライムが、やがて世界の常識を覆す存在になることを。


 そして。


 僕たちが出会った、まさにその瞬間。


 遠く離れた王都の地下深くで。


 千年以上、一度も動かなかった古代の装置に、小さな光が灯っていたことを。


【未確認の進化系統を検知】


【原初契約の継承候補:出現】


【監視機構、再起動】


 暗闇の中で、誰もいないはずの部屋に声が響く。


『……ようやく、見つけた』


 その声は、どこか悲しげだった。


『今度こそ、間違えないで』


 ――僕とポヨの物語は、こうして始まった。

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