(七)
翠の匂いにくゆる夜月、月の明かりを遮る一方の壁に羅冴流は寄りかかり、ずきんと胸を痛ませる無乃の顔をただ静かに見ていた。
無乃が「扉を、開けて、」と指示する瞳は物思いに濡れて憂いを帯び、しっとりと絡みつくような愛しさが一瞬、羅冴流の心の中に込み上げる。ふとその切ない衝動をこらえて瞼を伏せると、徐に剣を掴んだ。
鬱屈とした感情を発散するように、鞘尻を思い切り振り下げて扉を押し開けた。
ガツンと激しい音を立てて開いた扉の先、廊下に立っていたのは脂汗を滲ませた若い男だ。
折れた指を庇って片腕を垂らしたまま、男は女を人質にするように掴んでいて、羅冴流の威嚇じみた扉の開け方にびくりと体を震わせた。
無乃は「やはりそこにいたね」と乾いた視線を送る。
まだ怪我の癒えていない男の腕の中には、真っ青な宣彩がとらわれていた。
まさか脅しているつもりだろうか。そんな驚いた顔で無乃は腕を組む。
「彼女を人質にとるのか? 全く構わない。知らない相手だからね。何より彼女からは部屋も借りられなかったから恨んでいるくらいだ。それより君の方が私たちに恩を返すべきだろう。誰が君をここまで運んできたと思う」
男に向けて言い放つ言葉は叱りとばすようだ。無乃はこの意味のない人質と、良心につけ込む男のやり口に大いに落胆していた。
傍で聞いていた羅冴流はおっとりとした無乃の小さな口から、棘っぽいものが飛び出すのが案外好きで、笑みをこらえて堪能している。邪魔をするつもりは勿論彼の頭の中には毛頭なく、むしろ隙さえあれば焚きつけてやろうとさえ思っていた。
「こっちへ来て、さあ早く。そこに座るんだ。二人ともだよ。君たちは仲間だろう? 仲間を殺すというなら私は一向に構わないと言っているんだ」
男は眉をひくひくと動かしながら、柔で優男風に見えた無乃という美男子の圧倒するような口ぶりに面食らっていた。従いつつも、
……思っていた反応と違う!
と、涙さえ浮かぶような目をして狼狽えていたのだが、無乃の有無を言わさない口ぶりにおずおずと膝を着いた。
人質だった宣彩でさえ唇を震わせて男と一緒なって座っている。
頭を垂らし、小さく体を竦ませて怯えきった二人の姿に、無乃はそれで少しは気も晴れた。
「いいかな」
と二人を見比べて口元をやわらげる。
「私は君たちの脅威になるつもりはない。一つ確認しておくけれど、ここは誰の宿かな?」
「知らない人の宿だけど……」
気まずそうに顔を逸らす宣彩に無乃は満足気に頷いた。
「わざわざ他人の家を使って満室だと嘘をついてまでこの青年の見張りをさせて、誰に命を狙われているのかも言わない。私たちは随分協力的だと思ったけれどね。それなのに恩を徒で返すような真似をされて黙っているわけにはいかないだろう……」
と言い終わるのも待たず、惨めったらしい顔をした男が無乃をきつく睨み付けた。
「あんたたちが! 無傷でいられないとか、いたぶって殺すだとか、手に乗らないとか、二人で物騒なことを話しているから……!」
「物騒なこと?」
何を言っているのだと無乃は心の中では冷ややかだ。そんな悪人のような会話をした覚えはない。確かに世間では悪逆無道だとか、極悪人だとか言われているようだが、それも風説の一種で必ずしも本人を指しているわけではないのだ。このとおり、当の無乃は人を殺すこともできない非力さなのだから。
ピンときていない無乃に、羅冴流が見かねてそっと耳元に囁いた。
「沫のような縁だと、君が俺に言ったとき……」
あ――! と無乃は火がついたような羞恥を思い出し、すかさず羅冴流の胸ぐらを掴もうとして、逆にその手を掴み返されてしまった。
「俺に、乱暴を働くつもりか?」
爽やかな容貌でありながら、瞳には燻るような鈍い光が湛えられている。無乃はその瞳を見つめることができない。呼び起こされた羞恥と悔しさにパッと顔を背けていた。
「二度と、それを口にしないでくれるかな」
顔だけでなく手足まで熱く、汗がじわっと浮かんでくる。その羞恥を振りほどくように羅冴流の手を払った。
「君の指輪を私が持っている限り、君は私の忠実な従者になるしかないということを忘れているようだ」
「はっ」
と羅冴流がこらえきれずに噴き出した。
「君の方こそ。忘れっぽいのにそんなことは覚えてるんだ?」
「どういう意味かな?」
言いかけて、無乃は咄嗟に口をつぐんだ。
触れがたい怒りの炎が、火の粉を散らして燃えさかっている。そんな瞳に射貫かれていた。
鎌をかけているだけだと無乃は思っている。取り乱した一瞬のほころびに付け入るつもりなのだと。無乃はその追撃をかわすように穏やかな笑みを浮かべ、羅冴流の顎をちょんちょんとつまんだ。
「私に怒りを抱くのは、正しいことだ。もっと私を憎むといい」
優しい顔つきの羅冴流と見つめ合っていたのは少しの間だった。無乃は先にぱっと手を離して、にこにこと笑みを浮かべたまま背を向けた。
男はこの二人を、先ほどからじっと見つめて固唾を呑んで固まっている。
危うげに顔を寄せ合ったと思いきや今度は拳を交え、ついには自分より体の大きい男の顎を捉えて無力化してしまった無乃にごくりと喉を鳴らした。柔な美男子という外見に惑わされ、今では彼の強さを思い知ったのだ。やはり彼はあの大事件の首謀者だという……
「それで、できれば君をここに置いて先を急ぎたいんだけど……」
と、男がそんな事を考えているとは露ほども知らず、いいながら無乃はこれもあまり簡単にはいかなさそうだと思っていた。
彼らが物騒な無乃と羅冴流から逃げるだけならさっさと姿を消せばよかったのだし、狸寝入りなどしなくてもよかったのだ。あんな風に味方を人質にして要求を呑ませようとしたのだから、無乃は彼が他に企みがあることを察知して項垂れた。
「どうすれば、私たちを解放してくれるのかな」
「……追っている一門がある。その生き残りを探し出すのに手を貸してほしい」
男はむしろ羅冴流を当てにしているようだ。視線は剣を帯びた羅冴流に向いていた。
「誰を追っているのかな」
無乃は彼の視線に気づきながらも話しを促した。
「喬大雀が門人を皆殺しにしろと命令を下したことを、まさか知らないのか? 残党がこの辺りに逃げ込んで隠れてるんだ」
男が訝しげな目を無乃に向けた。
無乃はその視線におっとりと笑みを浮かべながら頭を振る。門人の残党狩りなど、そんな事態になっていたとは一つも知らなかった。
「君の言う一門とは、一体どこのことを言っているんだ?」
さては、暁霜門だろう。
無乃の脳裏には、ある一人の主座が浮かび上がっていた。




