(六)
「羅冴流、案ずることはない。彼はここにいるからね」
無乃はちらりと牀に視線を向けて、思い違いをしていたようだと息を吐く。
男に用があったのは、宣彩ではなかったのだ。わざわざ声をかけてくるほどなのだから、さぞ熱烈な晩景門の悪主座のごひいきかとも思ったのに、どうやらそれも違うらしい。
「けれどこれではっきりした。おそらく三つだ。私と君は今、三つの嵐の目の中にいるらしい」
「家が吹き飛びそうだな」
無乃はなにを的外れなことを言っているのだと残念に思って眉を下げた。
「羅冴流、本物の嵐をいっているわけではないんだよ。ここを取り仕切る勢力のことだよ」
「それは全く気づかなかった」
目尻を細めて挑発するような羅冴流を、無乃は少し冷たく一瞥した。
「君がそれほど厚かましい男だとは……」
とうっかり手加減を忘れた言葉は切れ味が鋭い。羅冴流が一瞬言葉に詰まって、豆鉄砲を食らった鳩のような顔になる。
無知なふりをする羅冴流が気に食わない無乃なのだ。
たった一言言い放ったきり黙り込んだ無乃に、羅冴流はそんな含みを感じ取る。
「癪に障ったか、おかしいやつ」
しかし、無乃の機嫌を損ねた焦りよりも、羅冴流はくずれるように一気に噴き出した。
「何がおかしい?」
それに対して呆れたような無乃の不満な声にも、羅冴流は我慢ができなかった。不機嫌な無乃が珍しくて、つい「くっ、」と喉を鳴らしてしまったのだ。
声も立てず爽やかに笑い通してから、羅冴流は目尻の涙を拭って言った。
「無乃、俺に厚かましいなんてぬかした相手が、今までにどれほどいたと思う」
予想もしていなかった。だからそれが、思いも寄らない笑いのツボにはまったのだという。
腹を抱えて膝を打つ羅冴流に、無乃はふんと小気味よい態度で歩み寄る。
「それなら言い方を変えるよ。図々しいにしようか」
そのまま指をぴんと天井に向けて立たせながら、空を混ぜるようにぷらぷらと動かし、ややすると毒を含んで傲慢な態度でたたみかけた。
「私を試そうとするなんて君は随分自分の能力に自信があって、私の立てた推測の合否まで判定するんだから、なんでもお見通しってことなのだろうね」
それを一息で言い終えると、勢いのままに息を吸い込む。
「それに言わせてもらうけれど、君ほどの男が気づかない訳がない。外をただ、理由もなく見ていたのか? 一日中男を背負っておいて何も気づかないというのなら、君が今も無傷でここにいられるはずがないんだ。もうその手には乗らないよ」
羅冴流は「君ほどの男」という言葉に思いもよらずにこにこと笑みがこぼれ、壁により掛かって無乃が必死にまくし立てる様子を面白おかしく見おろしていた。
いつもより眉をきりりと上げて、はっきりとした口調の、けれどどこか気の抜けるようなのんびりとした声に羅冴流は夢中になっていた。
無乃の叱責などほとんど聞いてなどいない。必死な姿をまるで最後とでもいうように目に焼き付けようとしていた。
無乃も後半の方になると、この爽やかで人好きのする顔の男が、話をすっかり右から左へ流してじっと人の顔ばかりを見つめていることに気づき、すっかり怒る気力が削がれていた。
「外を見ていたのは、君と二人きりが、気まずかったからだよ」
しんと静まりかえった部屋の中で臆面もなくいってのける羅冴流に、無乃はたいそうな殺し文句だなと心の中で頭を振る。
「晩春をともにし、初夏を隣で過ごして、それなのに私といるのが気まずいというのは、それはそれで傷つくものだよ」
にこりと腹の読めない笑みを浮かべる羅冴流。その眼差しは気後れするほど優しい。けれど暖かな瞳の奥を覗き込むと、無乃は知ってしまった。
凍てつくほど冷たく、物憂げなほの暗い光が潜んでいる。あまりにもどす黒くて不快な色だった。それが、彼の胸を何年と掻き立て激しい復讐の欲を呼び起こす正体だと知り、無乃は近づきすぎたことを後悔した。
「外を見れば何かわかるのか? あいにく俺にはなにもわからない。だれが、どうして俺たちを狙うのか」
息を吐く無乃は羅冴流がやはり懲りずに何も知らない素振りをしたので、
「だからそれが厚かましいというんだよ」
と、直前の胸騒ぎを振り払い、素っ気なく呟いた。
ざわりと肌を粟立てる、羅冴流の冷たい瞳だった。
無乃と羅冴流を繋ぐ縁は決して祝福を呼ぶものではない。憎み嫌い、むごいほどの怨念。それが深泥となって羅冴流をとらえ、剣に吸わせた血と後悔の、薄汚い執着心が無乃を捉えているだけにすぎないのだ。
やはり、全く信用のならない男じゃないか。
無乃は心の中で重く息を吐き、筵の上で正座した。
「そろそろ待ちくたびれただろうから、この部屋に彼女を入れてあげようか、羅冴流」
身なりを整えつつ穏やかに微笑んで無乃は寂しく呟いた。もう今まで通り、彼はきっと無乃を傍に近づけることもなければ、素顔を見せてくれることもないのだろう。それならいっそ、突き放してこの縁をなかったことにしてしまえば、誰も傷つかずにすむのではないかと、無乃は思い始めていた。




