(五)
「無乃、君は本当に……」
言葉をのみ込み躊躇う羅冴流の、辛そうな吐息が項にそそがれた。夜の帳を思わせる真っ黒な髪が項に絡んでいる。その絡まった髪を優しく解こうとする囁きだった。
羅冴流は身を乗り出し、ゆるく卵を握るように置かれた無乃の細い指を、そっと掻き込んで重ねあわせる。分厚い無骨な手をかすかに震わせた。
無乃が悪主座であれば良いと彼は思い、けれどその思いと同じほど、人違いであることを痛いほど願っている、そんな手つきだった。
「……君は、晩景門の悪主座、悪逆無道の無乃か?」
無乃は背を向けたまま、ここまで追い詰められて誤魔化すのは難しいと、ふっと唇を綻ばせた。羅冴流に触れられた指が今に少しずつまっ白に冷たくなっていく。
せめて羅冴流の悲願を果たしてやりたいと思うのは、前王朝の皇子として死から逃れ、主座としての責任からも逃れたこそだからだろうか。
「……そうだよ、羅冴流。晩景門の悪主座は、この私だよ」
羅冴流の動揺につられて、無乃は体ごと強張っていた。
言い終わるのを待たず、羅冴流が苛立ちをこらえるように手に力をこめた。指が折れてしまいそうなほどの力強い手に握りしめられていた。無乃はまるで指輪を肌に埋め込もうとするようだとも思った。羅冴流が何度もその指輪を撫でつけ、撫でつけ、やがて腹の中の、醜く崩れた泥だまりを吐き出すように、苦しげに言う。
「……わかった」
静寂の中に消えていく羅冴流の足音。
無乃はそれを聞いてふぅと、長い息を吐く。
ごろんと仰向けに寝返りを打った。
薄暗がりにぼうっと浮かぶ天井を片眼で見ている。目を覆うと、忽ち視界は星の零すわずかな明かりさえ拾えない。
羅冴流が憎い悪主座を生かす理由は一つもない。彼にとって恩人で大事な奇秀を殺したのだから。
「所詮、沫のような縁だ……」
千里をこえて結ばれたというのに、なんてもろくて消えやすいのだろう。
それでも構わない、縁が切れるまで隣にいたいなどと、微かに欲張ったのはほかでもない無乃自身であった。復讐のためにつなぎ止められた、この砂のような縁に縋ったのだ。
「無乃、あの男がいない――」
そう、あの男の為に……
あの男――?
無乃ははっと体を上げた。
あの男というのは、牀に横たえた怪我人のことだろう。その男がいないということは、いつ意識が戻って、しかも部屋を出たのだろう?――とぼんやり考えをめぐらせていると、
おや? と無乃は気がついた。
羅冴流が、部屋にいる?
怒りで部屋を出て行ったと思ったのだ。
だからつい気が緩んで寂しさに浸っていたのではないか。
それなのに、もしかして、今の独り言を聞かれたわけではないだろうね? と思い当たった途端、血が沸騰するような体の熱さと、凄まじい混乱が頭の中を吹き荒れた。
待て、冷静になるべきだ。取り乱してこれ以上恥をさらすわけにはいかない、ここは深呼吸を一つして、もう一度状況を整理しなければ――
視力のない方に立って、黙って見おろしていたというのか? と無乃はやはり不安になる。
悲しくて仕方がないと胸を苦しませている姿を笑うために?
確かに、彼は傍を離れていっただけで、外に出て行ったのを確認したわけではなかった。
やはり、早とちりをしたのだ。
醜態を、さらした!
「……羅冴流! 君、私をからかっているつもりか!」
無乃はこの羞恥に耐えられなかった。真っ赤になった顔を誤魔化そうと声を張り上げるが、すでに手遅れである。
それでもどうにか体裁を取り繕い、悲しくなんてないのだと引きつった顔に笑みを貼り付けう。
まさか頑丈に固めていたそのほころびを、羅冴流の前で晒してしまうとは失態だ。食べ汚した衣の袖を見られたような恥ずかしさではないか!
羅冴流が真っ赤になる無乃をちょっと目の端で見ただけで、乾いた笑いを口にする。
「誰が出て行くと言った? それにここは俺の部屋でもある。珍しいね、君がそんなに取り乱すなんて」
にこりと目を細めた羅冴流が、いけしゃあしゃあと言うではないか。
「いたぶってから殺すのが、君の趣味か? いいだろう。私をとことん辱めるというわけだね。まさに悪者の最期に相応しい」
無乃はまだ火照っている頬を覆い、声高に罵った。
その顎を舐めるように指先で持ち上げて、羅冴流は少し考えるそぶりをみせていう。
「君の気持ちはよくわかった。沫のような縁だと? 君とは随分太い鎖が巻き付いて誰にも解けない。たとえ死んだとしても君を追い続け、何度だって君を――」
無乃はじっとりと羅冴流を睨み付けていた。
最後まで言い切れなかった羅冴流を、ちらりと上目に見つめている。
何か大事な事に気付いたとでも言いたげに目を見開く羅冴流は、言葉を飲み込んだまま固まっていた。無乃は「うん?」とにこやかに続きを促した。
「何度だって私を、殺すか?」
それもまた、奇妙な縁だ。
おっとりと微笑する無乃に、羅冴流は少し傷ついたような顔をする。その寂しそうな顔を無乃は見てしまって一瞬気が遠くなりかけるが、胸の痛みを平然と隠して微笑んだ。
羅冴流は短い沈黙の後、少しして続けた。
「とりあえず君の命は今、生かすも殺すも俺の自由だということ。同情で生かすわけじゃない。どうやら君は俺の知らない事を知っているようだから」
「復讐の機会を与えたのに、それを棒に振るんだから二度目はないよ。今度は確り、私を追い詰めて君も覚悟を決めるべきだろうね」
無乃はうーん、と悩ましく額をおさえ、頭を振って手際の甘さを詰った。
それにしてもなんて卑怯な男だろう。交わした会話の内容を全て覚えているというのだろうか。
荷華幇の幇主に成り上がるだけはある。あの爽やかな顔の裏には一体いくつのえげつない顔を隠し持っているのか。
さて、と無乃はようやく重い腰を持ち上げた。
「男がいないと、さっき言っていたけれど……」
コホンと咳払いをして穏やかな顔を取り繕う。
羅冴流はそれを今更だと言うように苦笑して、牀を叩いてみせた。
「もぬけの殻だ」
横たえて新しい衣服も着せてあげたあの傷だらけの男は、羅冴流のいうようにすっかり姿を消していた。無乃は気怠く「あぁ……」と頭痛がするようだった。




