(四)
確かに、食堂の二階には客室が並び、庭には厩、番頭の宣彩もいる。しかし部屋の中は何十年と掃除をしていないかのように埃まみれでかび臭く、机がなければ灯りもない。ましてやゆっくり休むための寝台もなかった。部屋の片隅に穴の空いた寝椅子があるだけなのだが、そのたったひとつの寝具には怪我人が横になって、無乃はさて、今夜はどこで寝るべきだろううか? と首をかしげた。
宣彩は、無乃と羅冴流、そして件の怪我人の三人連れであることを知っている。それなのに貸し出された部屋はたったの一つだけなのだ。
「生憎、今夜は満室で……」
と、歯切れ悪く答える宣彩に、無乃はやれやれ困ったね、と腕を組む。
おかしなことを言うものだと心の中で大いに落胆し、それなら他に使える部屋はないかと尋ねに来たところであった。
「納屋なら空いてるけど」
庭をはさんで古い小屋を指さす宣彩だ。
無乃は穏やかに微笑んだ。
――空いているのが、納屋だけ? そんなはずはない。やはりここはおかしいようだ。
と疑念を深める無乃は、自身にあてがわれた部屋を思い出している。
階段を上がってすぐの角部屋で、満室だというのなら、誰か一人くらい階段を上り下りしてもいいはずだ。それだというのに廊下はしんとして、隣からは物音が一切しない。隣だけでなく宿全体に人の気配がない。それに宿屋だというのに厩に一匹も馬を繋いでいないのもおかしい。もはや宿ということに違和感を覚えてくるほどなのだ。
「無乃、あの男をここに押し込もう」
万事解決したと言いたげな羅冴流の声に、無乃は考え事から意識を戻す。
名案だろうと得意げな顔の羅冴流に微笑した。
「私たちが、まだましなあの部屋をつかうのか?」
「そうだよ。俺たちはよく看病した。せめて良いところで寝させてくれても罰は当たらないだろう。あの男をここに押し込んで、意識が戻る直前に連れ戻せば分からない」
「何を言う、羅冴流。怪我人をこんな劣悪な環境におけるわけがないよ」
部屋に戻って宣彩とのやり取りをそのまま告げると、羅冴流が面白がって無乃を伴い、再び納屋の前までやってきた。
蜘蛛の巣だらけのほこり臭い納屋で、使い古された鍋や壊れた椅子、机が乱雑に詰め込まれていた。なんとかどかせば一人分の空間は確保できそうだが、朝までくしゃみに襲われるのなら、多少窮屈でもまだ清潔な客室の地べたに転がっていた方がましだと、無乃だけでなく羅冴流もそう思ったらしい。
およそ同じことを考えた二人がぱちりと目を合わせると、同時に「ふふ」と微笑んだ。
納屋は見なかったことにして足早に後にした。
部屋へ戻るその途中、宣彩が筵をいくつか抱えて持ってきた。草臥れた顔をしていたのでそのまま軽く礼を言って別れ、無乃たちも早々に部屋に引き払っていく。
床に筵を敷き終えると無乃はすぐに横になった。
「君も好きなように寝ると良い」
今夜だけは衣を開けようと裸になろうと、不満は言わないよと無乃はいう。それを少しも嬉しそうにしない羅冴流は、壁際に寄りかかって微笑んだまま、涼しい夜風を浴びていた。その静けさと、星がキラキラと奏でる美しい空に無乃もいつしか目が冴えてくる。
悪主座の復讐を誓う羅冴流。前王朝の生き残りの皇子を気にかけるほど、何か特別な思い出があるのだろうか。
奇秀は希代の嫌われ者なのだ。そのせいで偽皇子などというものが現れて世が混乱したのだから。それなのに、羅冴流はまるで奇秀の忠実な従者のように一人悪主座を追っている。なぜ、それほど……
無乃はぽつりと、その疑問を口にしていた。
「君はどうしてそこまで奇秀のために動けるんだ?」
すると羅冴流が爽やかな顔に微笑を浮かべ、息苦しい胸元を緩めると少しだけ寂しげな顔をした。
「昔、少しの間一緒に住んでいた時期があった」
語り出す羅冴流は遠い目をする。
「死にかけで、身体中膿にまみれて誰からも忘れられていた。親も分からず、名前も知らず、だが、その子どもの膿を吸って命を助けたのは奇秀だけだ。十年も探し続けた。やっと、見つけたと思ったんだ。それなのに奇秀は死んでいた」
奇秀が死んだのは十五のとき。
それよりさらに十年前というと……
王朝の滅んだ年だ。
無乃は遠い記憶に思いを馳せるように瞼を伏せた。
膿だらけの、少年……
醜い膿に蝕まれ、誰もが嫌って捨てていった彼を見つけ、厭わず膿を吸い出した奇秀。病気がちで人より医者にかかることが多かったから、大体の病に対する処置は知っていた。その後、無乃として星夕を助けたのは偶然だと思っていたが、もしかしたらずっと、彼の事をどこか心の中で覚えていて、まさか重ねて見ていたのだろうか……
「その目元のほくろ、うまれつきか?」
羅冴流がたずねる。
無乃はぼんやりとその問いかけを聞き流していた。
公主を下賜された翠致幇の首魁、将軍の苗字は羅だった。その養子が、冴流――
彼を――膿みまみれの子どもを城塞へ連れて帰ったのは、雪の日――どうして今まで忘れていたのだろう!
公主とは紛れもなく奇秀のことである。城から逃がすために両親が機転を利かせ、公主として羅将軍のところに送り込んだ。おそらく羅冴流は奇秀を少女だと思っているはずだ。
無乃は声の調子を変えずに、混乱をおさえて咄嗟に答えた。
「そう、うまれつきだよ」
ほとんど羅冴流の質問を気にかけてもいなかった。微笑を浮かべていた羅冴流の目元にふっと怪訝なほころびが入ったことに、無乃はまだ気づいていない。
「片眼、見えないと。どうして?」
「それもうまれつき――」
「棍棒に殴られた。以前はそう、言っていたが」
以前――
はたと、しまった、無乃はようやく失言したことに気づき口を閉ざす。
なんてずるいことをするのだろう、なんて答えていたかなど、逐一覚えているはずがない。
混乱と焦りに無乃は取り乱していた。
確かそんな会話をしたのは羅冴流の刺青を初めて見て動揺していたときで、彼の事をまだあまり信用もしていなかった。
それなのに事実を伝えていたのかと、自分の迂闊さに苛立つ。咳払いをして、無乃は身じろいだ。
「それは、君の同情を買いたかったからだろうね。本当はうまれつきだよ」
無乃は苛立ちを押し殺して穏やかに微笑んで言う。
「どうして怪しいと思っている人間から同情を買う必要がある? 無乃、君、以前から思っていたが晩景門の悪主座ではないな。誰を庇ってる。しばらく君といたが運動神経の悪い君が人を一人、殺せるはずがない」
羅冴流は詰め寄りながら段々とその語尾を強めていた。
「君は、誰だ」
背を向けたまま硬く両手を握り締め、無乃は答えられない。
すっと呑み込んだ息が喉をふさいで言葉がでなかった。奇秀を否定された無乃が、無乃さえ否定されたら……その恐怖にぞっと怖気立ち、唇は震えていた。
「私は……」
誰も信じてはくれなかった。
奇秀は殺されたのだと言われた。一人逃げたその罪によって無残に首を落とされたと。その墓が無名のまま造られていようとは思わない。あそこに眠っているのは、私であるはずの誰かの骸と、血と、私の名前。奇秀という名前を捨てなければいけないと気づいたのはそのときだった。
それなのに、無乃であることさえ、信じてはくれないというのだろうか。
王朝が終わりを迎えたとき、山の中を駆けずり回り、両親や姉妹、臣下、そして羅将軍の死を国境で聞いた。当時私はたったの五歳だった――




