(三)
暮れかかる空に、月はおぼろに浮かんでいる。
山の端はまだ残照の炎に燃えて赤かった。
羅冴流は夕日を浴びた部屋の中で、今し方ひとつしかない牀に男を横たわらせ終え、凝った身体をほぐしているところだった。まだ余力はあったと言いたげな顔つきをするので、無乃はすぐに羅冴流の顎を掠めるように捉え、視線を奪う。
「あとで身体を揉んであげるよ。どこが痛む?」
小首をかしげて羅冴流の顔を覗き込む無乃は、澄んだ美しい瞳に暖かな色が滲んでいることなど全く気づいてもいなかった。羅冴流の虚勢を暴こうとして言い放ったのだが、羅冴流からすれば無乃がただ純粋に気遣ってくれたようにしか見えない。視線を逸らすこともできるのだが、羅冴流は優しい無乃の眼差しのせいで思わず息を呑んだまま固まってしまった。
匂やかな目元のほくろの、その色香にあてられたのだと羅冴流は思っている。
どこが痛む? という無乃の問いかけは、虚勢をはるなよ、と釘を刺すものだった。羅冴流もその意図は勿論分かっているのだが、揉んでくれるというご褒美にゆらぎ、そっと視線を逸らして困った顔をする。「背中が痛い」と、正直に認めてしまえば強がっていたことを自ら白状するような物で、羅冴流には到底言えるはずがない。
けれど無乃には誤算があった。
羅冴流は無乃に揉んでもらうためなら、屈強な太い指さえ、疲労して一本も動かせないと大げさに伝えられるということを。
羅冴流はまだ顎に触れている無乃の腕を押し返しつつ、「……いや、指だけで満足できるはずがない、いっそのこと全部触ってもらえばいい……」と、にっこりと微笑んで喜んで疲労を認めた。
「うん。背中も、肩も、あと腰、一番きついのは、太股だ。身体中、全部痛い。揉んでくれるんだろう?」
「構わないよ、すぐに揉んであげるね」
無乃はちょっとばかし素直な羅冴流に拍子抜けした。しかしすぐに、せっかく甘えてくれたのだからとやる気になって袖を絡げる。
「けれど、私はどうやら力の加減が下手らしい」
「ふぅん?」
くすぐったいのだろうか? と羅冴流はまだ和やかである。
「以前それで怒られたことがあるから……」
無乃は真剣な顔で羅冴流の手を握る。
「力を抜いて」
そしてそのままするっと指を絡めようとして、はたと、指先にまつわる高い体温に躊躇った。指と指の間を、ゆっくりと深くにぎり込んでいくと、むしろそれが変な気を起こすようだ。手を止めればさらに気まずい空気になると勘づいて、無乃は咄嗟に力一杯握りしめた。
「これが、一番早いんだよ」
「……無乃、」
額に汗を浮かべながら無乃は指を外側に反らしている。羅冴流が痛みに思わず呻きかけた。その眉間に不穏な影を走らせていた。
「無乃、もういい。分かった、二度と、君に揉んでくれとは頼まない」
「君と私の仲だ。遠慮することはないよ」
「誰が、君を怒るって?」
羅冴流の苦笑と痛みを耐えるような声をすぐそばで聞き、無乃はぴたりと手を止める。そこから一歩たりとも動けなくなった。
「……一番弟子の、星夕だ」
少しして、ためらいがちに微笑んで言った。
星夕。
膿と虫まみれの少年だった。本当の弟のように親身に世話をした子どもだ。
羅冴流が興味を示す前に無乃はさっと手を放す。
「手の血管は身体中に通っているから、手だけでも楽になれば、自ずと身体全体が楽になるよ」
無乃は牀の傍に膝をついた。
部屋を用意してくれた女の名前は、宣彩というらしい。
両親が早くに亡くなると、結婚もせず一人で宿を営んでいるという。その小さな宿屋の二階で、無乃は清潔な衣服と絹を用意させ、桶には井戸の水を汲んでこさせた。
男の傷口に絹布を巻きながら、獣に襲われた腕の傷をすっとなぞる。男を拾った川岸のあたりには獣どころか人の足跡もなかった。彼が襲われたのはおそらく別のところで、それに獣に逃れて自ら木をのぼったと言うよりは、高いところから誰かに突き押されて、丁度木に引っかかったとでもいうようなのだ。
折れた指で木をのぼるのは並大抵のことではない。それに、反対側の手は泥で汚れているだけで、爪の間にも木の幹を引っ掻いた様子はなかった。
無乃はこの男を宿において行ってしまおうとも思ったのだが、あれこれと思い倦ねていた。ひょっとすると、男の怪我は暴漢に襲われたと言うよりは罰を受けたに近しい状態に思えてならない。
宣彩に迷惑がかかるだろうからと、無乃は気が引けているのだ。
それにこの町はどうやら普通ではないらしい。
宣彩が新しい水を汲み終わって、部屋に戻ってきたところだった。
無乃は振り返りながら、怪我人を一瞬見つめた宣彩に微笑んだ。
「ありがとう、宣彩。ところで、あの旗のことを教えてくれるかな。あれは一体なんなのかな」
夕日を反射した旗が、窓の外で赤く翻っていた。すると宣彩が「あれね」と簡単に言う。
「喬大雀が首を討ったんだよ、悪主座の」
「――悪主座の、首?」
無乃は「本物はここにいるのに?」と、喉を詰まらせかけて吃驚と目を見開く。
「――誰を、誰を討ったって?」
「だから、悪主座の首だってば」
何度たずねても答えは同じである。
無乃は不機嫌な宣彩の返事を聞いてふらっと立ちくらみがした。
羅冴流は悪主座の復讐に駆り立てられてここまで着いてきたのだ。それなのにもう死んでいる。それだと、無乃は悪主座とは別人ということになってしまうのではないだろうか。
焦りながらも無乃は、羅冴流のただならない気配に肌が粟立った。背中に刺すような殺気を感じたのである。復讐相手を殺されたという衝撃に絶句しているのだと無乃は単純に思った。
ここまでつけ回してきた労力さえ全て無駄になってしまった、その衝撃で言葉も無いのだろう。
しかし同時に宣彩の言葉は無乃にとっても思いもがけないことでもあった。悪主座が殺されたというのなら、一体自分は無乃ではなく、誰だというのだろう?
ぼんやりと間の抜けた笑みを浮かべてそんなことを悩み抜く無乃に宣彩は苦い顔だ。
「あんたも信じるの? この馬鹿げた話しを。本当かどうかは、知らないよ。顔を見たことがないんだからさ。お城の天辺で竹の先に刺しているのを、こんなところから見分けがつくはずもない。でも、目元のほくろが特徴らしいね。そうよ、丁度あんたみたいに。そのほくろが、やっぱり殺された人の顔にもあったって聞いたけどね」
無乃はひょっとすると、この女性はどんな病でも治す晩景門の無乃と知って声をかけてきたのだと思った。他にどんな目的があって、わざわざ深手の男を背負った怪しい二人組の遊客を宿に招くだろうか。それに彼女は喬大雀が悪主座を討ったと信じてもいない。なおさらここまで連れ込んだのは、晩景門の主座かどうか確かめようとしたに違いない。
けれどまだ、無乃は確信には至っていなかった。
「まるで信じていないような口ぶりだね。ほくろだけでは、他人のそら似かも」
すると宣彩が肩を竦ませる。
「悪主座って言われるほどの大悪党だよ。たった喬大雀一人、しかも討ち取った当時は十代の少年だっていうじゃない。そんな小僧に殺せるとは思えないよ」
無乃はおや? と宣彩の言葉に奇妙な引っかかりを覚えた。
町の空を旗が覆うほど立派な討伐軍の頭領だというにもかかわらず、宣彩は決して喬大雀が悪主座を討ち取ったとは信じていない。それに、その頭領を小僧呼び? もしかして知り合いなのだろうか?
ちらりと隣の羅冴流を見ると、無乃と宣彩のやりとりに静かに耳を傾けていた。まるで吟味するように瞼を伏せている。おそらく彼も何かを感じているのだろうが、くつろぐように体の力を抜いて、警戒心はおくびにも見せることはなかった。
「さすがに君は堂々としているね」
感心していうと、羅冴流が気づいたように目を開けて、無乃の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「俺が混乱していたら、誰が君を守る」
「それなら、忠実な君を信用して。彼の身体を拭いてあげてよ」
「どうして俺が?」
目を瞬く羅冴流に無乃は花の艶めくしっとりとした微笑を浮かべる。
「さっき、汗を拭いてくれると言っていただろ」
「この男に言ったわけじゃない」
「どっちでも構わないよ。君を信用しているんだ」
羅冴流は「信用だって?」とあからさまに驚いた顔だ。悪主座が討たれたと聞いたときは澄ましていたくせに、なんて素直な反応をするのだろう。
無乃は構わず濡れた布を押しつけた。
羅冴流がため息を吐きつつそれを受け取り、ほんの僅かに嫌そうな顔を見せる。しかしすぐに取りかかって男の体を拭いてやるのだった。
その間無乃はぼうっと窓の外を眺めていた。あの仰々しく翻る旗を、闇の中に消えていくまで見つめているのであった。




